第9話 欺瞞(4)

文字数 3,382文字

アストルフォは、ブレーズの姿が近い将来の自分である事も忘れ、素直に同情した。
「ここには、どのくらい居るんだい?」
表情に優しさが戻って来たアストルフォに対し、ブレーズの態度はやはり変わらない。
「どのくらいだと思う?」
結構なものである。言葉に詰まるアストルフォを前に、口を開いたのはブレーズ。伝わったのだろう。
「面倒だと思ったかい?でも、想像してみたらいい。一人の人間を、こういう状態において、どの程度放っておくと、今の僕の様になるか。意外と頭を使うんだ。自分が予想もしていなかった質問の答えを考えると、生きてる実感が得られる。」
彼は得意そうだが、いよいよ気の毒である。アストルフォの中で下った結論だが、ブレーズは、かなり長い間、この部屋にいる。確実である。それなら、当然の疑問がある。
「食事はどうしてたんだい?」
ブレーズは笑い、アストルフォから一度目を反らすと、鼻から息を漏らした。
「そっちね。それは…。うん、確かに。聞くと聞かないとで、随分変わってくる。いい質問だ。出るよ。食事は出る。それだけは、楽しみにしてくれていい。」
お湯が沸き、ブレーズは、カップを手元に引き寄せた。これから何が香るかは、分かり切っている。
しかし、ブレーズは、ポットに手を伸ばすことなく、入口を指差した。
「僕の予想では、もしもディナーに辿り着きたければ、あの扉を閉めた方がいい。」
少しの間に忘れていた扉。アストルフォは、ブレーズの指先を目で追った。
「下を見てごらん。」
アストルフォは、チェアを立ち、扉に近寄ると、腰をかがめた。内開きの子扉がある。鍵はかかるのだろうか。
音もなく子扉を内外に開閉し、精巧な蝶番に感心していると、ブレーズが説明を加えた。
「食事の時間になると、そこが開いて、食事が支給される。あと、十時と三時にお茶とお茶菓子。時計は、そこだ。」
ブレーズが新たに指差した方向にあったのは、オーディオ・ラックのモニター。五時三十七分。おそらくは午後。
アストルフォは、眉をひそめて、ブレーズの方に振り返った。ブレーズは頷くと、言葉を続けた。
「それから、おそらく、明日の朝までに君の服が支給されるだろう。今、着ているのと同じものだ。そして、子扉から今の服を出しておくと、クリーニングして戻してくれる。」
何かがおかしい。自然と目が細くなったアストルフォと目を合わすと、ブレーズは殊更大きく頷いた。
「長くなるよ。僕と同じならね。さっきの話。僕がここにいる時間だが、髪の長さは関係ない。前に、睡眠薬を盛られて、眠ってね。気付いたら、散髪されていた。爪も手入れしてくれる。髭剃りは、洗面に電動のがある。」
刃物はもらえないという事は分かる。だが、不気味である。監禁した男を、薬を盛って眠らせ、散発し、爪の手入れをする。髪に触られ、手を握られている。想像する限り、サイコパス。
ブレーズは、現状を理解するために、忙しく頭を使うアストルフォの顔を観察すると、挽きたての粉に、お湯を注いだ。そのぐらいの暇がある。香りは、ゆっくりと室内に広がり、アストルフォの目をブレーズに向けた。
ブレーズは、かねてのちっぽけなアストルフォの質問に答えた。
「八十四日だよ。」
八十四日。二か月半の監禁は長い。ブレーズは、幾度かに分けて、お湯を注いでいく。
「その間、…。」
アストルフォが口を開くと、ブレーズが声を重ねた。
「そう、一人だよ。誰も来なかった。」
アストルフォは、ブレーズの大きく開いた瞳に、僅かな狂気を感じた。コーヒーの香りは、強くなっていく。モカではない事は確かだが、やはり何かは分からない。
ブレーズの言葉は、肌で感じられる様な濃い香りとともに、途切れることなく続く。
「ある時、不意に眠ってしまった。気付くと、ここだ。誰もいない。暴力を振るわれる訳でも、金を知人に求める様に強いられる訳でもない。趣味になりそうなものが少しだけある部屋で、食事だけを提供される。あとは、時々、睡眠薬を盛られて、小ぎれいにされる。」
ブレーズは、一度、俯き、思い直した様に、また、話し始めた。
「言ってしまうと、君が現れるまでの僕の中の答えはこうだ。僕は、精神社会の住人になったんじゃないか。植物人間か何かになって、周囲が僕にしてくれている事を、脳が都合のいい様に変えて、幻覚を見せているんじゃないかって。それなら、この部屋は、僕の存在がなくなるまで、ずっと続くんだ。逃げる事は出来ない。」
かなり煮詰まっていた。彼の瞳に狂気を感じたのは、多分、今の話を思い浮かべたせいだろう。ただ、ブレーズの話は、まだまだ続く。
「でも、最初に言ったけど。君のせいで、それがただの妄想だった事が分かった。僕は君を知らない。僕が、心の中で君をつくり出したとは、とても思えない。その髪形も服装も。僕の知識にはない。全く、分からない。」
こっちもであるが、それは問題ではない。アストルフォは、心を開きだしたブレーズのために、とにかく言葉を絞り出した。
「そうだよ。君は健康で、生きてる。どんな環境だって、生きてなきゃ。大事な事さ。二人で力を合わせれば、きっと、ここから出られるよ。」
アストルフォの前向きな言葉に、ブレーズは微笑み、やがて、ゆっくりと揺れながら笑い始めた。自分を瞬時に取戻したのだろうが、アストルフォにしてみれば、解せない。理由も告げずに、一人だけで笑うのは、やはり失礼である。
「何だい?」
聞かれたブレーズは、アストルフォの方に目をやると、笑いを耐えて、質問に答えた。
「悪い。でもね、僕はどこまで君を信用するんだろう。」
また、面倒。呆れたアストルフォが、チェアに深く身を任せるのを見ながら、ブレーズは説明を続けた。
「睡眠薬を盛られるかどうかぐらいはいいさ。今まで、何度も盛られた。でも、逃げるって。それに失敗すると、次に何があるか分からない。相手は、こんな事が出来る奴なのに。」
それでも、アストルフォには言葉の意味が伝わっていない。そういう顔をしたのだろう。ブレーズは、更に説明を加えた。
「これを説明する僕も、どうかしてるけどね。例えばだ。僕の監禁の経費が嵩んで、処分の理由を考えてるんだったら?君が敵の仲間で、僕に逃亡をさせて、その上で捕まえて。その罪を追及するんだったら?」
疲れる。アストルフォは、首を背もたれに預けた。それは被害妄想だろう。
だが、そうでもない。よくよく考えると違う。考えてみると、ブレーズだけ平静と思ったのが間違い。そうである。アストルフォが増えるという事が、自分がとって代わられる危機感を、ブレーズに与えている。
彼の発想には、八十四日分の苦悩が混ざっている。
ブレーズは、両手を広げて、口を開いた。
「さあ、選んでほしい。もうすぐディナーだ。あの扉を閉めれば、子扉から食事が配られる可能性は限りなく高い。ただ、僕の経験上、一度、閉めれば、あの扉は開かない。逃げるのに、手間が一つ増えるのは確かだ。君の答えを、示してほしい。」
いきなり、決断を迫られた。
アストルフォは思った。ブレーズは、きっと、悩んでいる。彼自身が、扉が開くという千載一遇のチャンスにあって、どう行動するべきか、答えを出せていない。彼は、取敢えず、その答えの先にある不幸の責任を、アストルフォに押し付けようとしている可能性が高い。そうに違いない。
でも、ほんの数秒考えれば、分かる。それは、どうでもいいのだ。自分の考え通りになるなら、それに越した事はない。
では、正解は何か。
アストルフォの心の中は、しばらく揺れた。大きく。心の動きは体に現れる。頭が少しだけ揺れる。考える間に、視線は散る。そういうもの。
微笑むブレーズの顔が、目に入る事も何度か。
ただ、結論は、多分、予め、決まっていたのだろう。
彼の言う事が全て真実であれば、敵は尋常ではない。そんな敵と対峙するには、相当の準備が必要であるが、自分には、その用意はまだない。
例え、八十四日間、閉じ込められるとしても、断食して、やみくもに暴れるよりはマシ。
リスクはとらない。
アストルフォは、ゆっくりと扉を閉めた。心のどこかで、ブレーズが止めるのを待ったのかもしれないが。とにかく、十分な時間をかけた。
直後に金属音。オート・ロック。その筈。
これでいい。これしかないだろう。コーヒーの香りの中で、アストルフォは、自分に言い聞かせた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み