第14話 団欒(2)

文字数 4,578文字

五分程経ったろうか。これ以上、湯につかるとのぼせてしまう。頭の中が、そんな温度になっている。
まあ、この施設は満喫しただろう。毎月の請求書も、これなら気にならない。
アストルフォは、微笑みながら立上り、振り返った。目は、お湯から自分の体へ。体から湯気が上がる。体の芯まで温まったので、表面が多少冷えても心地いい。
そして、今は慣れた熱い湯を蹴りながら、視線を上げた瞬間。
その瞬間、アストルフォの体は、凍り付いた。驚き。いや、怯え。熱さも寒さも超える、そのぐらいのサプライズが待っていたのである。
彼の目に入ったもの。
それは、一頭のシカである。林の奥深くなら分かるが違う。温泉の淵に。濡れた岩の上に立っているのだ。
山を見ていたグレイソンも、水の音が続かない事を不審に思ったのか、アストルフォの方を振り返った。
枝の張り始めた角は雄のもの。頭頂部の傷跡が片目の形を少しだけ変え、決して、きれいではない。人相があるとすれば、悪い。毛は顔の周囲だけホワイトが勝ち、全身の毛は、カーキーにバーント・シェンナが混ざる。耳は大きく、時に向きを変える。
背丈は、角を入れるとアストルフォ程度で、肉付きもいい。筋肉質。身近な哺乳類としては大きく、イヌの比ではない。まして、温泉の中にいると、目線が低くなる。体感としては、シカの高さは二メートルを優に超える。
圧倒的な存在感は、武器のそれに近い。アストルフォとグレイソンは、黙って、シカを見つめた。
ただ、シカは何をしているわけではない。
一切の音を出す事なく、アストルフォとグレイソンを見つめ返している。それだけである。
音も出さない。
たまたま、水場で居合わせた動物同士の目が合った。そこまでは確かだろう。あとは、シカが自分を仲間と思っているか、敵と思っているか。表情はないので、考えは読めない。
アストルフォは、シカの角を見た。この突起で突かれるのは怖い。かと言って、走って逃げられるものか。シカと競争する事など、考えた事もない。
アストルフォの中に答えはなく、結果、彼の動きは止まった。
しかし、グレイソンは違った。
勢い良く立ち上がった彼は、大声を出して、その場で暴れ、派手に湯を散らした。
体を大きく見せ、威嚇したのだ。
お湯は熱いので、先に言ってほしかったが、ファースト・コンタクトでの、最大限のインパクトを狙ったのだろう。正しい選択である。
全身を毛に覆われているシカは、瞬時に三メートルほど離れたが、その場を去るわけでもない。警戒を強めたのか、やはり止まったまま、こちらを見ている。
飛沫程度では足りないのだ。あるいは熱さに強いのか。
ただ、周囲には他に何もない。
グレイソンは、今度は湯を両手ですくい、シカを狙って撒いた。
人間なら、十分すぎる程、熱いお湯である。可哀そうだが、仕方がない。
首を大きく動かしながら跳ねたシカは、湯の殆どをかわした。野生動物の瞬発力は侮れない。今にも走り出しそうな姿勢で、こちらを見ている。流石に、お湯の怖さは伝わっただろうが、決め手にかけるのか。
グレイソンが、また、身構えた時、しかし、繁殖期でもないシカは、熱さに近寄る無謀は避け、不規則に駆けながら、林の中に入った。
取り敢えず、姿は消えたが、遠くに行った保証はない。
グレイソンは同じ姿勢を保ったが、暫くすると、ゆっくりと腰をかがめて、湯につかった。視線の向かう先は変わらない。まだ、緊張は解けないのだ。
アストルフォは、その時になって気付いたが、いつの間にか、ホワイト・クラウンド・スパローのさえずりは消えていた。人間とシカの駆け引きは、鳥から歌う気持ちを削いだのだろうか。それとも逃げてしまったのか。まだ、声がしないという事は、この場所が、ホワイト・クラウンド・スパローなら、まだ、安心できない空間という事。そういう事である。
シカに抵抗する術はお湯しかないので、安易にこの場を離れる事は出来ない。いつまで、待てばいいのか。判断する基準は分からない。考えていたアストルフォの頭に浮かんだ事が一つ。濡れた体を、寒気に曝し続けるのは間違いである。アストルフォは、グレイソンに続き、ゆっくりと湯につかった。
何かを警戒しながら温泉につかるのは初めてだが、今までとは全く違うものに感じられる。笑うものでも、くつろぐものでもない。心から頼れる強い味方になったのだ。
グレイソンは、やはり遠くを見たまま、口を開いた。ただ、視線の先は、山ではなく、シカの逃げた方向で、照準は絞られている。
「ミュール・ジカだ。でけえな。普通のは、もう少し小柄だ。」
種類は関係ない。安心できるかどうか。それが知りたい。
「あいつが、どのぐらいの速さで走るか、知ってるか?」
グレイソンの問いかけ。アストルフォも、さっき考えたが、きっと、グレイソンも同じ事を思ったのだろう。知りはしないが、人間より早い筈である。
返事が遅れると、グレイソンは、アストルフォを一瞥し、言葉を続けた。
「死ぬかと思ったな。」
グレイソンも覚悟したのかと思うと、アストルフォの口元は緩んだ。
「本当だね。」
グレイソンの目は、また、シカの行方を追った。アストルフォが横顔を見ていると、グレイソンが口を開いた。
「今度、リベンジに行くぞ。」
リベンジ?よく分からないが、おそらく、これは猟の誘い。シカと戦うのは、それだろう。今、出会ったシカを見つけられる可能性は絶対にないので、ずいぶん乱暴な話。人間なら、戦争と同じである。
そこで、アストルフォの頭は、急に現実的な問題に引き戻された。初めて会った時、社交辞令で付き合う素振りを見せはしたが、正直、哺乳類を殺すのには抵抗がある。分かっている。大きいのは絶対に無理である。どうしたものか。
アストルフォが答えに迷っていると、グレイソンは小さく笑った。
「何だ。シカが可哀そうか?」
聞くまでもないだろう。アストルフォの答えは、ほぼ固まった。あとは、グレイソンを傷付けない様に断るのだ。
「いや、興味はあるよ。男らしくて、格好いいんじゃないかとは思う。」
グレイソンの頭は動かない。
「その後の答えは、決まってる。遠慮するだ。そうだろ?でも、どうなんだ?俺は好きでやってるからな。やりもしねえで、嫌うんなら、理由を言えって思うぜ。遠慮な訳、ねえからよ。」
それは確かにそうである。アストルフォは、グレイソンの機嫌を損ねない答えを探した。
「じゃあさ。まず、僕は肉を食べる。好物さ。ウシもブタもニワトリも、全部、大好きだ。馬鹿じゃないから、当然、彼らが生きてた事も知ってる。ニワトリにだって、愛情が通じる事もね。知ってる。命を奪ってる感覚がないのはおかしいし、時には猟でもして、自分達がしている事を自覚する必要があるとは思うよ。大事な事だと思う。」
グレイソンが口を挟んだ。
「でもが続くんだろ?」
アストルフォは微笑んだ。
「そう。でもさ。でも、それにはタイミングがあって、いつでもいいって訳じゃないよね?今の僕の心は十分に繊細で、命の大切さに気付く様な刺激的なシーンを見せられると、マイナスの方が大きいんだ。僕の心の中は、僕にしか分からないから、もしも気を悪くしたなら、許してほしい。でも、僕的には、ちょっと無理そう。そういう事なんだ。」
グレイソンは、体を少し動かしたが、顔の向きは変わらない。
「断る奴は、皆、似た様な事を言う。でもな。そう、でもだ。でも、俺は、命がどうとか、そんなセンチメンタルな気持ちになる気はねえんだ。言ったろ?リベンジだって。」
アストルフォは首を傾げたが、そもそもグレイソンはこちらを見ていない。彼は、見えないシカを探している。
ホワイト・クラウンド・スパローの鳴き声が、また、聞こえ始めた。
「あいつが怖いと思ったままだと、嫌だろ。人間は強い。最強だ。それを実感するんだ。」
何か、おかしい事を言い始めた。同感できない事。アストルフォは、グレイソンのためだけの話が終わるのを待った。
「あんたが、さっき言った通りだ。肉、食ってるだろって。でもな。そりゃあ、動物なら、特別かって話だぜ。何かを腹にいれなきゃ、いけねえだけだ。自分より弱いもんは、何でも口に入れてみる。食えることが分かりゃあ、そいつを見れば、狙う。美味けりゃあ、探してでも狩る。それだけだろ。」
アストルフォの反応は鈍い。多分、皆がそうなるだろう。グレイソンは、声を出さないアストルフォの方に視線を向けた。シカの行方よりも、大事な話。
「正直なところだ。怒るなよ。あんたは、俺より年下でも、うちよりでけえ会社にいるから、俺より偉い。だから、俺を使っていい。そうだろ?」
頷きがたい問いかけであるが、事実である。グレイソンも、別にアストルフォの反応を待たない。
「同じさ。俺はシカよりも強いから、食っていい。法も認めてる。シカの肉は美味いから、猶更だ。」
グレイソンが、また、茂みに目を戻すと、アストルフォは口を開いた。会話は、人と人の言葉のやりとりで成立する。言葉を返す必要がある。
「僕は、君を食べちゃあいないと思うよ。」
笑うかと思ったが、グレイソンの反応は違った。
「そりゃあ、例えだ。言う必要があるか?食べてるかどうかは、考え方による。子供みてえな奴に、何かやれと言われて、ぶん殴るのが人間だとすりゃあ、俺はもう人間じゃあねえ。死んでる。食われてる。あんたがそうとは言わねえがな。俺は、とっくに骨になってるぜ。」
何というか。まあ、自分もそんなものである。そう言いたかったが、アストルフォは抑えた。それが理性だと、目の前の大人に言う自信がない。また、彼がその言葉に答えを持っていない筈もなく、その先に明るい会話が待っているとも思えない。
グレイソンは、言葉を続けた。
「話を戻すとな。繊細な気分かどうか知らねえが、あんたは気付かずに力を使ってるんだ。力がある。善人面すんなって事だ。自分がどんだけのもんか、実感すりゃあいいんだ。ライオンより強いってな。レオやスカイラーの頭を、こん棒でぶん殴ってる。最強なんだ。シカを撃つのは、憐れむためじゃねえ。プライドのためだ。」
言葉のままに受け取ると、結構な事を言われている。そこまで、嫌なものか。秩序の元に集った仲間。そのぐらいの気持ちだったが、どれ程、痛めつけられると、人間はこういう発想になるのか。いや、勝ち負けと思っているだけかもしれない。きっと、そう思うか、思わないか。その程度で、世界は全く変わるのだ。
「僕は、正直、プライドなんて意識した事がないよ。毎日、やるべき事を、ルール通りにやってるだけで、…。」
グレイソンは、また、アストルフォに目を向けた。
「ああ?」
眉間に皺が浮かんでいる。何か悪い事を言ったらしい。グレイソンは、立ち上がると、温泉から出た。首から下は、きれいなローズ・ピンクに染まり、湯気を上げている。
「うちに行くぜ。女房とランチの時間だ。」
それは決めていた事。
アストルフォも立上り、グレイソンの背を追った。サンダルを履き、バス・ローブを羽織る。足元が冷えるが、耐えられない事はない。
二人は、階段を急いで登った。
アストルフォは、途中、シカの行方が気になり、一度だけ、振り返った。
林の遥か奥深く、シカが姿を消した方を見たが、動物の姿が目に入る事はなかった。
温泉は、元通り、人間のエリアになったのだろう。
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