第18話 知己(1)

文字数 3,205文字

木の香りに満ちた部屋のアストルフォとブレーズ。
その日のブレイクファーストには、昨晩、ブレーズが話した通り、牛乳とヨーグルトが出た。
普段なら最後に食べるヨーグルトだが、腹の調子を整えると聞くと、一番に手が伸びる。別に調子が悪いわけではない。頭痛の方が、遥かに大きな問題である。
スプーンから舌の上に流れ落ちたヨーグルトは、ペースト状でクリーミー。蜂蜜の香りに加えて、チーズの様な濃厚な味わい。酸味も全くない。スプーンが何度も往復する時間。
牛乳も待っている。グラスに目をやった時点で分かったが、炭酸が入っている。口中に広がるジンジャー、おそらくはジンジャー・エールの香り、アップルも混ざるだろうか。生クリームのテイストも感じられる。牛乳を飲んで、爽快さを感じたのは、生まれて初めてである。
目の前のブレーズは経験済みの様で、アストルフォの顔がほころぶのを眺めていたが、やがて、その小さな幸せを、無視できない質問で終わらせた。
「昨晩の話を覚えているかい?」
フラッシュ・バック。思い出すのはあれである。良く言って、取り乱した。確実にそれ以上。ヨーグルトの話ではないだろう。
あんな姿を見たのに、ブレーズは、まだ、自分と喋りたい様である。話した内容は、断片的ならば、思い浮かぶ。幾つかのトピック。結論はどうだったか。記憶に混乱があるのだ。
「たくさん話したから、どの事だったかな。」
そうは言っても、あの事を言っている可能性が高い。恥ずかしい。ブレーズは、そこを狙ったのかもしれない。
ただ、まさに今、口にした様に、決着していない事が幾つもある。ブレーズが面倒な男で、相変わらず幾つかの罠を仕掛けている可能性もある。そう。面倒なのだ。
妙に疲れたアストルフォを、元気なブレーズは待っていられない。
「この状況を解決する方法さ。」
ブレーズの眉が、少しだけ上がった。馬鹿にしている雰囲気はない。まあ、それなら、昨晩のブレーズの最後の発言の事。そう解釈するのが普通だろう。
二人は互いを信頼できていない。するわけがないが、平静を保ったブレーズでさえ、昨晩の睡眠を奪われた事は確かである。おそらく、それが二人の直近の生活にとって一番の問題で、解決するための方法は限られている。
ブレーズは、アストルフォの方を見ながら頷くと、言葉を続けた。
「互いの事を話そう。」
まあ、そうだろう。見る限り、ブレーズの肩の力は抜けている。リラックス。ゆっくりとでいいが、会話は必要。そう言っている様に見える。
ただ、その気持ちは、一瞬で消え去った。思い出したのだ。そもそも裏切ったのは、目の前の男である。しかも、無駄に。何をするにも、確認が必要である。
「でもさ。君はプライベートな事は、言わないんだよね。」
ブレーズは、牛乳の手前に陣取るパン・ケーキに、ナイフを刺した。プリンの様な厚手のパン・ケーキの頂部には、蜂蜜とバターを混ぜ込んだソースが、ふんわりと盛ってある。話も大事だが、放っておけない代物。ブレーズは、フォークを刺した所で、初めて口を開いた。
「それは目的による。昨日の時点で、犯人を知るために必要とは、僕には思えなかった。」
過去形は、質問を待つ答えである。
「じゃあ、今は?」
そう。今はどう思うのだろう。ブレーズは、パン・ケーキを口に運び、咀嚼しながら、言葉を続けた。
「今も、互いの事を知ろうとは思うけど、無駄に何でも話すわけじゃない。一人の人間を知る方法は、別に肩書だけじゃないし、人間関係だけでもない。」
この時点で、既に面倒である。アストルフォは鼻で笑ったが、ブレーズは構わない。
「考え方が分かるだけで、全然、違ってくる。自己中心的なヒーローも、義理堅いギャングもいる。この状況で知るべき事がどっちか。考えれば、すぐに分かる。力を合わせられるか。それだけだから。だから、話題は何だっていい。互いに、幾らでも話す事が出来て、相手を深く傷つけない話題。それでいいんだ。」
意図は分かる。パン・ケーキに手をつけようとしていたアストルフォは、取り敢えず、先に質問をした。
「何?例えば?」
正確には何を考えているのか。気にならなくはない。
パン・ケーキを食べ進めていたブレーズの動きが止まり、宙をぼんやりと眺めた。彼が口を開いたのは、数秒後。
「何かあるだろう。例えば、そう。政治とか?」
アストルフォは、思わず吹き出した。そう、彼に最も向かない話題の一つ。関心がない。出来れば、死ぬまで語らずにいたい。
「政治はどうだろう。」
ブレーズは、もう一度、同じ言葉を口にした。
彼の目は、明らかに、アストルフォの次の言葉を待っている。はっきりと言わなければならない。間抜けは御免なのだ。
「あの、僕はさ。興味ないんだ。全然だよ。六代前の大統領も怪しい。」
政治はない。取り敢えず、相手が誰であったって、一緒にいる時間を、楽しく過ごせばいい。揉めるぐらいなら、昨日の事だって、忘れればいい。困っている人がいれば、普通に助ければいい。大きい道路や橋だって、わざわざ税金でつくる必要はない。広い海で、波に揺られる様に生きていたい。政治だなんて、何を語るのか。ありえない。ある意味、持論である。
ブレーズは、誰もが思い浮かべる答えの一つに遭遇し、淡々と整理した。
「何の話か、勝手に限定するから、そうなるんだ。レッドかブルーかとかさ。そうじゃなくて、個人が先か、社会が先かとか、どんな世界が理想かとか。その程度の話さ。もちろん、本当は、君が政治家だったら、それはそれで簡単な話じゃないから、そう言ってくれたらいい。」
面倒くさい。アストルフォの気持ちは、常にシンプルである。
「いや。だから、別に何も思いつかないんだよ。関心がないから。」
ブレーズは、鼻で笑ったが、新しい話題を口にするわけでもない。目付きも、さっきと変わらない。アストルフォの言葉を待っている。この話題から離れられない何かがある。そうなのだ。もう、頭の中に、話したい事が渦巻いている。聞きたいのではなく、聞かせたい。絶対、そうである。
アストルフォの中で小さな結論が出た時、ブレーズが口を開いた。
「君が思いつかないなら、僕が話題を提供しよう。何も大袈裟な事を言ってるわけじゃないんだ。簡単な事さ。」
長くなりそうである。
「いいかい。まず、今の社会をどう見るかさ。政治論とか、完成されたものじゃない。本質的なところ。ゼロからでいい。おそらく、幾つかの階層で物事を考えていく必要がある。大きい方から行こう。気候変動に人口増加。世界的不況、資源の枯渇。どうだい?」
どうもこうもない。〇〇〇〇。アストルフォは、小さく何度か笑うと、ブレーズから視線を逸らした。
世の中には、幾らでも情報は溢れているだろうが、教科書に書いている事までが、皆が納得できる結論。教科書を読みたまえ。それが答えだろう。
知的水準を計ろうとしているのか、何なのか。まあ、記憶を辿れば、幾らでも話すことが出来るだろうし、人口増加で、深く傷つくのは不可能。それは言える。ただ、語るのが恥ずかしい。聞く振りは出来るが、話すのは勘弁してほしい。そこだけは譲れない。
「それって、君の話を聞いたら、僕も喋るの?」
アストルフォは、この状況で最大限の抵抗をした。それは、うっすらとでも伝わった筈である。
ブレーズは、パン・ケーキを口に運ぶと、手を広げた。
「うん。まあ、君は何か話したくなったらでいい。いや、僕は話したくて仕方なかったんだ。多分。」
多分ではない。そうに決まっている。ずっと考えていたのかもしれない。何なら、八十五日間。
その上で、である。この部屋には二人しかいないのだから、彼の気持ちには答えなければならない。かなりの確率で、この先も、ずっと二人だけなのだ。
同情。哀れみ。
言葉より先に、優しい笑みが浮かぶ。
言葉が溢れ出しそうなブレーズは、アストルフォの気持ちを知ってか知らずか、口元を緩めた。
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