第1話 教誨

文字数 5,510文字

細長い部屋に、コチニール・レッドの絨毯が敷き詰められている。長いのは奥行きで、しかし、誰がいるわけでもない。壁と天井には、同じ色のカーテン。ゴブレット・プリーツ。素材はベルベットだろう。
永遠に終わらない細かい揺れは規則的で、地震によるものではない。考えられる最も確からしい答えは、この部屋がコンテナの類で、移動中であるという事。
体が動かないのは何故か。
アストルフォが、喉の渇きを感じながら、アンバーの混じるターコイズ・ブルーの瞳を動かした時、誰もいない部屋の中に、低い、年季の入った男の声、所謂、いい声が響いた。
「おはよう、アストルフォ。ビスク・ドール。今の状態に対する君の感想は、想像に難くない。だが、君に限って言えば、断片的な現在の情報だけで口を開くのは、利口ではない。まずは、時間をかけて、よく観察したまえ。真実を知ることは難しい。それは、概念的なものでなく、直観の対象であっても、君とウシ、トンボが目から感じる世界は、決して、同じではない。君とイヌ、コウモリが耳から感じる世界もそうだ。君は、君以外の存在が感じる世界を、当人が感じるままに知ることは出来ない。
ほんの三百年前の哲学者ジョージ・バークリによれば、君の知る世界は、君に知覚される事によって存在するんだそうだ。君が産まれた時に、君の世界が始まり、私の知る世界は、その遥か昔に始まった。私が死んだ後、私が知覚できない世界は、もう私の知る世界ではなく、おそらくは、君や他の誰かの知覚する世界だろう。ただ、世界が個人の知覚によって存在するからと言って、至る所で別の世界が生まれるわけではなく、何らかの連続性がある事は間違いない事実だ。その哲学者は、全てを俯瞰的に知覚する存在として、神を説明している。今、私が彼の話を持ち出したのは、神の存在を議論したいわけではない。君に真実が見えていなかったとしても、誰も君を責められないと言う事を、より端的に説明したんだ。
いや。そう、違う。まず、君は苦しんでいない。そもそも、責められている認識がない。納得していない。思うに、それは、私が問う真実が何か、君が未だに分かっていないからだ。分かっていないと、自分に言い聞かせている可能性もある。真実という言葉はずるいからね。絶対的な存在を指している様な印象を与えながら、全ての人間の心の内を知る必要がある点で、完全な定義ではない。曖昧で、主観から逃げられない。誰かにとっての真実は、君にとっては真偽を問う必要もない程の些細な事かも知れない。EPR相関は知っているか?箱の中のネコの話は?
そう、いや、いい。まあ、そんなものだ。結局、おもちゃが変わっただけで、哲学の域を出ない。二千年以上続いた四元素説が、ほんの二百年前に全て嘘になった様に、方法は永遠ではありえない。知覚、より限定的には直観の対象に関する厳密な議論も不毛だろう。ここで私が求めるのは、君の考える、偽ることのない思考。概念的なもの。君さえ正直になれば、君の事なのだから、それは確かだ。無理は言わない。まずは、君の記憶を辿ってもらうだけでいい。何故、君は今、ここにこうしているのか。例えば、私が君に危害を与えようとしているのであれば、それは何のためか。その答えを知るために、今の君に最も必要な事だ。それは、そう思うだろう?
記憶に残る事件を洗い出し、関係者を全て挙げ、事件の経緯、時間軸を整理するといい。関係者は、単独では存在できない。お互いに影響し合う。直接的事象だけではなく、間接的事象、その背景まで思考するんだ。全ての糸が解ければ、君は分かる。君はなるべくして、今の状態になったと。君の立場にあれば、誰もがそうなったと。
納得がいかないのであれば、君の思考にバイアスがあるんだ。利己的。自我を捨てきれていない。思考の自由を信じている。しかし、他人、私と世界を共有するための共通の知覚を得るには、唯一の俯瞰的な視点をもちうる神を、どこかで肯定する必要がある。その全能の前で、全能でない君の自由は、見せかけに過ぎない。邪魔なプロセスだ。
親切をしよう。君は、アストルフォ・ルロワ。二十九歳。A国W州出身。F国人の父親ヴァレンティンとA国人の母親ソフィーの一人息子。ヴァレンティンは、W大の工学部の教官だったね。専門は再生可能エネルギー。もう退官している。二人が交際したきっかけは、ヴァレンティンが、ソフィーという名前を気にかけ、知人の紹介を断らなかった事。ソフィーは、彼が写真も見ずに自分と会うと決めた事を、未だに笑い話にしている。いい夫婦。そう、素敵な家庭は、ヴァレンティンの知性と、ソフィーの献身の賜物だ。彼女は、結婚を機に、W博物館のキュレーターの仕事を辞めている。優秀なヴァレンティンとの生活に、経済的な不安はなかったんだろう。
家は郊外で、裏に大きな林があった。今も二人で住んでいる。私なら、そんな物騒な家は嫌だが、ヴァレンティンは違った。鳥を観察したいからと言って、君が四歳の頃に、相続した遺産で、築二十年以上の中古の二階建てを買ったんだ。私が見た限り、かなりの豪邸だ。君は、その楽園で生活する権利を得た代償に、小学校まで鳥の観察に付き合わされた。まだ、野球をやってた頃。眠い朝にだ。だが、親とのスキン・シップは、親子の双方にとって大事だ。君は、極めて恵まれていたんだ。
野球を辞めたのは、小学四年の頃、木から落ちて、左足の小指を骨折して、数週間、練習を休んだのと、チームの監督の交代がラップしたのが、きっかけだ。知らない大人に威張られたくない。元々、上手い方じゃなかったから、迷う事はなかった。家族で野球を観戦すると、かなりの確率で君はそれを言わされる。その後は、スケート・ボード一筋。バードマン。私が知っているのは、それぐらいだがね。その頃の話はそのぐらいだろう。
W州を、君が一人で出たのは、大学の時だ。中学校から付合っていたペネロペとは、その時に別れている。彼女と付合った理由は、両親と同じで名前。響きだ。君は、友人には自然消滅と語っているが、ペネロペは認めていない。真偽は誰も知らない。
大学は、Y州のP大の工学部。寮生活を送っている。この頃の君は、あまり感心しない。腹立たしい。デカダンスだよ。数百人いる寮生に混ざる不良の自慢話と、ペネロペとの別れが、君の価値観を壊した。仲間と連れ立って、盛り場を回る。夜遊び。君は、さぞモテたろう。私から見れば、それは不幸だが、ある種の人間には逆に映るかもしれない。進化生物学者のリチャード・ドーキンスによれば、一定数の女性に対し、我が子を大切にして、一家庭に定着する男だけを与えた集団と、複数の女性と交際し、少しでも多くの子孫を残そうとする男だけを与えた集団、それとは別に、両者を混ぜて与えた集団では、両者の混ざる集団が、最も繁栄するらしい。表現の詳細は気にしないでくれ。私の記憶の範囲だ。完全な統計をとるのは困難だが、現在の人類の繁栄を思えば、遺伝子の系統は、おそらく、そういう分布になっているだろう。だから、生物学的に、君に否はない。私の感情に照らせば、相手とその親が、同じ種類の人間である事が必須だがね。
大学での専攻は原子力だ。成績は上の下。ただ、専門はリスク・アセスメントで、純粋なエネルギーじゃない。論文も見たが、避難する人の心理を解析しても検証できないだろうし、どの原発の報告でも、そんな解析をしているのを見た事がない。楽しそうだが、時間を無駄に使ったと思ってるんじゃないか。指導教官は、その後、失職してるから、彼に悪気はなかった。それだけは言っておこう。
そして、就職。社会人だ。君は、その失職する指導教官の勧めで、アース・ミッションに入社している。君の上司のウイリアム・ベネットはヴァレンティンの教え子で、二つ返事だった。ただ、アース・ミッションは、ベンチャーとの合併用に、ゼネラル・パワーのクリーン・エネルギー部門を分社化した二百人程度の会社だ。しかも、配属は地熱発電部門。君の専門とは一切関係ない。そう。コネ以外、就職できた理由は分からない。それは、君も否定しないだろう。
同期入社は君ともう一人の二人だけだ。会社が厳しい頃だった様だが、余程の事態だ。残る一人は、ネヴァヤ・ベーカー。ドクター・オブ・フィロソフィー。彼女については、これ以上は言わない。君のためじゃなく、彼女のためだ。
その後の君のキャリアだが、プロジェクトで評価するのは正しくない。同じP大を出たセオドア・トンプソンのプロジェクトのメンバー。これが正しい評価だろう。四年前に、セオドアがC州の地熱発電プロジェクトを任されて、二人は初めて別れているが、業務上のやり取りはあった。その二年後。セオドアが、それまでのバイナリー発電の出力低下の打開策として提案した高温岩体発電の担当が、君に回った。熱水はあるから、坑井の数を増やして、水を補填するだけ。奇跡の土地だ。現地のスタッフも引き継いだ。馬鹿でも出来る。ただ、定番の地震の問題は手つかずで、君はウイリアムのセオドア一派潰しだと思っていた。その時、管理部門にいたネヴァヤに、君はそう言ってる。私は知っている。
そして、君は現地に向かった。C州のマウントF。偉大な火山に。
ここまでの内容に、君は責任を感じる必要がない。それが、私のささやかな親切だ。自分の非を探すには、まだ若い君の人生であっても、あまりに長すぎる。君は、両親の遺伝子と生活習慣、経済力に支配された住環境のもとで、想像される範囲の生活を逆らうことなく送って来た。不本意な点も幾分あったろうが、私から見れば確率論的な問題にすぎない。少なくとも私は気にしないし、何も言う気はない。問題はこの後だ。私を気にせず、自分も気にせずに、実験だと思って、自分の内面を解放して見てほしい。
今まで話した内容には、ヒントを探さないでいい。そこに戻る必要はなく、時間軸だけで考えてほしい。これ以降、何があったか。君の記憶のままに、順番に話してみてほしい。君と私には、十分な時間がある。私は幾らでも付合う。その準備がある。君も、その準備、心の準備をしてほしい。ただ、細かい事を言えば、私にも都合がある。日を改めると、何日か間が開くかもしれない。それだけは許してほしい。
分かっただろうが、つまり、君は、明日からの予定を気にする必要がなくなった。君の若さなら、ある程度の事件だが、受け入れざるを得ない事に気付いてほしい。全てが必然なんだ。
多分、君は思った。逃げなければいけない。そうだろう。聞くまでもない。なら、こうも思っただろう。私は君を逃がす気はない。正解だ。言っておく。これは絶対だ。勝手だと思うかもしれないが、今のこの状態に至るまでに、私は他の方法を幾度も模索した。君が気付かない様に、自然な選択肢を与えた。この状態は、その交渉の延長に過ぎない。
古い本。二百年前だ。カール・フォン・クラウゼヴィッツ将軍の戦争論。私と君の対立的状況。ここに、敵対的感情や戦闘力を粉砕する行為、敵の戦闘力に応じた戦闘力の準備の相互作用が加わると、暴力の行使が拡大される。分かり易い。私は、君を今のこの状態におくだけの力がある。力を行使して、君の自由を奪った。これ以上、君の望まない状況に陥らないためには、私への敵意のアピールや不毛な抵抗、まあ、言葉の暴力に過ぎないだろうが、そうした行為は避けることを勧める。君がするべきことは、さっきも言ったが、何が起きたか話す事だけだ。何分でも、何時間でも、何日でも、何週間でも、何か月でも、何年でも。私なら、生のある限り待つ。私には、それぐらいの覚悟がある。
だから、話してほしい。全てを。君が思考した、君の世界を。ありのままに。」
そして、男の言葉は途切れた。
長い話の終わり。男の声を長く聞き過ぎたせいか、こうも揺られる部屋にいて、静寂が感じられる。
男の姿はなく、動きを知る音もない。目の前と同じ程の空間が背後に連なり、そこに誰かいるのか、スピーカーでもあるのか、また、他の何か。
状況は全く理解できない。
言えるのは、声の主が、アストルフォに行動を促している事。
意識しなくても、言われた途端に、自らに非のありそうな話が幾つか浮かんだ。抑えられる訳がない。それぞれに僅かな言い訳も添えられる。しかし、アストルフォは、コチニール・レッドのカーテンが揺れるのを見つめながら、その全てを一度頭から消し去った。
人に言えない様な事は、公言する事を思うと、余りに軽薄で稚拙、短絡的で、謂わば、動物。事実なら、猶更、どうしようもない。口にしたら最後、仮に罠があるとすれば、その全てにかかる事になるだろう。
今の自分は、適当に話してよい状況ではない。
体が動かない時点で、それは理解している。
男は、何分でも、何時間でも、何日でも、何週間でも、何か月でも、何年でも、生のある限り待つと言った。それは、アストルフォを単に絶望させるだけではない。一人の人間の一生に関わる様な事であると、その重さを暗に伝えている。目的のために、アストルフォの一度きりの人生から、それだけの時間を奪ってみせると宣言した。そういう事。
話が聞きたいだけならいいが、その先に何があるのか。
唯一の救いは、男が顔を見せない事。顔を覚えられたくないという事は、いつか解放してもらえると言う事。
やっぱり、そう。話してしまえばいいのだ。男が言う様に、自分の記憶のままに。自分の頭の中を。自分の世界を。
それが自由になるための唯一の手段。
明らかなのだ。
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