第39話 帰郷(5)

文字数 3,690文字

「趣味だと思って、あせらずにだ。上手くなろうと、楽しもうと思えばいい。詳しい人がいれば、コツを聞く。仲間を見つけて、一緒に上手くなる方法を探ればいい。趣味でお金が儲かれば、なおいい。父さんが思う限り、それが仕事だ。バリバリやろうなんて、無理はしなくていい。人間は、そんなに優秀に出来てない。」
アストルフォは、揺れながら笑った。ツボにはまったのだ。
「父さん、ありがとう。こうも仕事を諦める様に力説されるとは思わなかったけど。心には響いたよ。」
ヴァレンティンは、息子が大人である事に、今更、気付いた様な顔をしている。
折角なので、アストルフォは、自分の知る世界を、少し話してみたくなった。
「父さん。僕はまだこんな年だけど。もう、自分の世界が現実じゃない様な気がしてるんだ。」
ヴァレンティンの表情が曇ったが、アストルフォは構わない。話したいのだ。
「子供の頃に一番近くにいた大人は父さんで。父さんが普通で、自分も父さんみたいになると思ってた。でも、何だろう。受験とか、就職とか。父さんから聞いてた話と少し違うと思ったし。ほら、子供の頃もひどく怒られて。あの頃は分かってなかったけど、今は分かる。あれは、本当に僕が悪くて、怒られたんだ。僕はダメだった。きっと、父さんと僕は、全く違ったんだ。」
ヴァレンティンは、暗い話を始めた息子に対し、親の役目を果たした。必要なのはジョーク。
「父さんは天才だったからな。」
二人は小さく笑ったが、アストルフォの笑いはすぐに消えた。
「でも、父さん。今の僕からすると、父さんは本当にそのぐらいに見えてきてる。」
ヴァレンティンは、気まずくなったのか、林を見渡し始めた。ゴールドフィンチが小さく動き続ける林。何年も見続けてきた、何も変わらない林である。
アストルフォには、ヴァレンティンを逃がす気はない。
「会社に入って、ウイリアムと仕事をした事なんてないよ。話はしたけど。前に言ったセオドアとずっと一緒だった。本当に、趣味みたいなもんだったよ。楽しかった。けど、セオドアが現場に出て、地方に行って、代わりに僕がその現場に出て。何か、楽しいだけの時間じゃなくなってきた様な気はする。」
ヴァレンティンも教師をしていたので、学生の進む道は幾つも知っている。そのうちの一つである事は確か。
「今の職場の仲間は?」
仲間がいて、楽しくやっていればいいのかもしれない。おそらく、ヴァレンティンが望んでいるアストルフォの未来はそれ。
「皆、いい人で、何の問題もないよ。でも、何だろう。格差みたいなの。それを感じるよ。誰かが威張るとか、そんなレベルじゃなくて、どうしようもない感じの。」
ヴァレンティンの表情が曇るのは、今日、何度目か。
きれいなヴァレンティンだが、自分が我が子を送り込んだ世界を知ってもいい筈である。
「まず、見た目が違うんだ。ブランドもののスーツと、ドロドロの作業着の男が、一つの事務所にいる。髪の毛に手、爪、歯。全部、違う。ホワイトニングした歯と、歯石で繋がって見える歯。それから話す内容。経験やジョーク。全部だ。上品な感じの人が、荒っぽい人達を嫌ってるわけでもないんだ。皆、昔からの付合いで、接し方が違う訳でもない。平等だよ。でも、人間が、全然、違う。考えたら分かったけど、それは、皆、生活の軸が違うからなんだ。皆、全く違う世界の人間で、あそこには、たまたま、居合わせてるだけなんだ。それが分かると、そんな所で笑っても、本心じゃない気がする。どこか、装っていると言うか。さっきも言ったけど、現実の世界じゃないような。自分が産まれてから、見てきた世界が現実で、仕事で見る世界は、お金をもらうために、劇で役を演じている様な。そんな感じなんだ。」
幼い我儘な悩みにも、ヴァレンティンは自分なりの答えを見せる。
「それは、父さんもだ。お前が産まれてから、父さんは父さんの役をずっと演じてる。その父さんの見せた世界を、お前は本当の世界だと思ってる。世界中の親は、親を演じて、子供は、本心を偽った親の見せる世界を現実だと思う。そして、自分が親になると、やはり子供の頃に見た親を思い、親の役を演じる。自分の家ですら、そうだ。知らない人間も大勢いる世の中で、全く自分を飾らない事なんて、無理だ。」
それは諦める方法である。頭に浮かぶ当然の疑問。
「でも、子供の頃の友達との関係は?何かを演じた記憶はないよ。」
ヴァレンティンは頷いた。
「それは、お前がおとなしい子供だっただけだ。人によっては、子供の頃からそうだ。何かの役割を演じてる。何かの大会に選手として選ばれたり、学校のイベントを任されたりすると、皆、自分が何をするべきか考え、あるべき姿を演じようとする。」
次の疑問が湧いてくる。
「それは、何かの役割を演じてない人間というか、自分が好きな様に、生活を楽しんでる人間は、何も期待されてない人間で、失格って事?」
ヴァレンティンは小さく笑い、顔を横に振ると、肩を軽く上げた。
「こう考えたらどうだろう。その何の役割も演じていないと思われる子供の自我は、親が作り上げたものだ。ただ、幼い子供は、まだ、それが与えられたものだと気付いてすらいない。お前達が、肩を組まれたら一緒に揺れる生活を普通と思っているのは、それが答えだと、幼い頃から教えられたから。それで、社会に出て、教えられた内容が明らかに違う人間に会うと、違和感をもってしまう。おそらく、それは自我への不信感の芽生えだ。そこで不安になる。自分が無意識にとってきた一つ一つの行動の意味を、自問してしまう。この生活は何か。おかしくないか。ヒューマニズムの様で、実は違う。やみくもに、均質なものを求めているだけなんだ。ナマケモノの一生だ。」
意外と手厳しい。アストルフォは、コーヒーに逃げた。
アストルフォの言葉を待ったヴァレンティンは、それが無駄だと知ると、少しだけアストルフォに顔を寄せた。
「じゃあ、仕事自体はどうだ。上手くいってるのか?給料は?待遇はいいか?将来は?」
アストルフォは下を向いて笑った。現実は絶対である。
「父さん、全部、良すぎるよ。ありがたくてさ。将来なんて。とにかく、あそこにいれば、生活は保証されそうだ。パーフェクトだよ。」
ヴァレンティンは、本人に言わせてしまった事を後悔したのか、再び、話を戻した。会話は思った通りに進むわけではない。
「お前の頭の中では、今の生活は与えられた、借り物の生活になってる。だから、理想と違ってくると、逃げたくなる。こんな筈じゃあなかった。正しい世界に行きたいって。」
アストルフォは、今この場から逃げたくなってきた。説教は嫌いである。心に響けば、猶更。
父親を逃がさないと思った少し前の自分は、どこへ行ったのか。
「これはデジャ・ヴュ?」
アストルフォのジョークで、二人は小さく笑った。
ヴァレンティンは、しかし、まだ、話を止めない。言い終わっていないのだ。
「殆ど皆の人生に、別に目的なんかない。出来るのは、楽しむ事だけだ。趣味だ。いろんな人と付き合っていれば、人生の尺度も違うから、自分が負けてない世界が、どこかにある。仮に人生にゲームの様に勝ち負けがあるなら、その勝敗が決まるまでに、点をとれるターンがある。その時を喜べばいい。点をとられたら、逆だ。悲しむ。でも、それも、仲間と慰め合えば、人の優しさに気付く事が出来る。何となく目的を決めて、悲観する事はないし、目的を達成して、一瞬喜んだ後、抜け殻になる事もない。長い目で考えろ。攻守のあるゲーム。趣味だ。楽しむんだ。」
アストルフォの目の端。高い位置を何かが横切った。多分、ゴールドフィンチ。
残像を追い、アストルフォの目は宙に向けられた。
ヴァレンティンは、気持ちが途切れたのか、ベンチから腰を上げた。飽きっぽい我が子。そう思った筈である。
「中に入ろう。少し冷える。」
アストルフォがヴァレンティンの方を向いた時、家からソフィーが出て来た。手にはスマートフォン。小さく着信音が鳴っている。アストルフォが、世界の中で、自分が主張していいと思うぐらいの音量。
ソフィーに歩み寄ったアストルフォが、スマートフォンを手にした途端、着信音は切れた。画面を見ると、ネヴァヤ。愛する我が社の希望である。
大体、用件は想像がつく。W州の頃の仲間が集まるのだ。
何となく、切れかけている縁で、どっちでもいい様な気もするが、無駄に酔って、無駄に話し、無駄に朝までいるのも、無駄に働く自分には合っているのかもしれない。
父親に仕事を諦める術を力説された日は、こんな終わりでもいい。
考えている間にネヴァヤの送って来たラインは、アストルフォの想像通りだった。
自分は超能力者かもしれない。
ついでの予言。
明日、地球に直径十キロメートルの隕石が落ち、マグニチュード10の巨大地震で街が壊滅し、高さ千メートルの津波であらゆる生命体が流され、巻き上がった粉塵のせいで十年の氷河期に入るかもしれない。可能性はゼロではない。
でも、久しぶりの両親に、どう言ってディナーを断るか。アストルフォの悩みは、適度に深かった。
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