第3話 戴冠(2)

文字数 2,794文字

レストランの奥の駐車場に車を止めていたアストルフォが車を出し、スカイラーの車の横に並ぶと、スカイラーはすぐに気付いた。また、微笑んでいる。音量を下げるのを忘れていたパンク・ロックが、耳に届いたのかもしれない。笑顔のままの彼女が車を出すと、二台はロッジを目指した。
州道の周囲には、乾燥した平原が広がり、遥か遠くに針葉樹の群れが並んでいる。レストランの裏手にあったダグラスファーやヘムロックはいつまでも続き、至る所にシトカ・スプルースやシダーも顔を覗かせる。近付いては過ぎてゆく。その繰り返し。更にその先の山脈とベビー・ブルーの空は、雲の形以外は変わり様がなく、三分ほど前から関心の対象外である。
そのうち、平原の彼方を歩く人影が目についた。確実に男。一人である。手にする長細い棒は、おそらくは釣り竿。あの長さなら、きっと、そうである。
やがて、男との距離が近くなり、平原の中を細い川が流れているのが分かった頃には、男の姿は後方へと過ぎ去った。シトカ・スプルースやシダーと同じ。確かに動いている彼の動きも、車の中のアストルフォにすれば、植物と変わらない。それは、当たり前。
スカイラーは気付いただろうか。
周囲に車が見当たらないので、男は川沿いをずっと歩いて来たのか。それにしては、周囲に何もない。来たからには戻るのだろうが。
アストルフォは、男が感じているだろう雄大な時間を羨んだ。
また、暫く走ると、徐々に道幅が狭くなり始めた。岩肌が視界を占めることで、高度が上がっている事が分かり過ぎる。遠目に見た岩肌の色合いは、自然の色彩の深みと山そのものを感じさせたが、車窓越しに近くで見るそれは、低木を従えながら、鉱物の複雑を教える。サーペンティナイトにマーブル。除雪した雪が各所に高く積まれているので、触れれば冷たい筈。
道のりは長い。更に進み、パンク・ロックに混ざるエンジン音が気になり始めた頃には、車外に広がる自然の彫刻は、仕事のために来た彼をして、小さく声を上げさせた。
純粋な感動。いい所、今までの人生で、稀にしか見なかった絶景の中で、アストルフォは新しい生活を始める。そう思える。
レストランを出て、四十分程走ると、二台はロッジの敷地に入った。背の高いヘムロックの間を縫うアスファルト舗装を抜けると、駐車場。敷地は広いが区画線は少ないので、来客への期待はささやかである。アストルフォは、スカイラーの隣りに車を止めると、予め身を縮め、覚悟を決めて、車外に出た。雪があるのだから寒い。それは絶対。
先に降りて、こちらを見ていたスカイラーは、アストルフォが何も羽織らないとは思っていなかった様で、驚き、そして笑った。彼女は本当によく笑う。
アストルフォが、リュックを肩にかけ、車中に溜まっていたペット・ボトルを手に持つと、スカイラーは早足でロッジに向かい、アストルフォも無駄な動きで寒さを紛わせながら、彼女の後を追った。
そして、ロッジ。
二階建ての三十八室を持つL字状のその建物は、二階の全ての部屋のベランダを、正面に向けている。この寒さの中、ベランダにいるのは、中年夫婦一組だけ。誰の目を気にするでもなく、スウェットにコートを羽織り、寛いでいる。
手摺はスチール・グレイの鋼製で、夫婦との距離を近く感じさせる。彼らの手には、マグ・カップが握られているので、温かい飲み物を楽しむ工夫だろう。数が多すぎると邪魔だが、一組だけの団欒は、小さな幸せで壁を飾っている様に見える。
ルビー・レッドの下見板張りの壁の中は、どんなだろうか。アストルフォは、少なくとも悪い想像はしなかった
丁度その時、ボトル・グリーンの大きくせり出す切妻屋根から、音をたてて、雪が落ちると、夫婦はその行方を、揃って目で追った。小さな事件である。
アストルフォは、微笑みながら、エントランスに入った。
二重扉を押して、ロビーに入ると、まずはコンシェルジュとの対面である。
スカイラーに紹介されたのは、ブラックの女性。名前はアビゲイル。三十過ぎ。そう見える。ふくよかだが、清潔感がある。身だしなみはいい。支給品のスーツだろうか。爽やかな笑顔。
背面のアイボリーの木枠の窓から、雪に反射した光を受けて輝く彼女は、必要な説明を素早く終えた。要領がよく、安心できる。
彼女について、アストルフォが気になった事が一つ。ホワイトのプレートに水を張り、ゴールデン・ポピーの花だけを幾つか浮かべ、デスクに置いているのは何故か。子供が摘んでしまったのか、切り花を大切にしているのか。
聞くほどの事はないので、アストルフォは精一杯の愛想を振って、初対面の自分を飾ると、先を行くスカイラーの後を追い、今、説明を受けた一階の角部屋、自らの新居に急いだ。
長目の廊下を進み、屋根と同じボトル・グリーンの扉を開けると、百平方メートル程度のワン・ルーム。それが自分の部屋。先に送った荷物もちゃんと届いている。ベッドの向こうの壁一面のサッシからは、雪山が目に飛び込んで来る。大きすぎる絵画。多分、それが一番正しい評価だろう。
アストルフォの反応を観察していたスカイラーは、微笑みながら部屋の中央を進み、サッシを開けて、ウッド・デッキに出た。ここもイタウバ。角部屋は、デッキの階段から庭に降りることが出来る。
アイボリーの漆喰で塗った内壁や、ホワイトの板張りの天井、暖炉に目を移しながら、アストルフォもデッキに出た。木の軋む音は風情というやつで、不快ではない。庭にはまだ花がなく、殺風景と言えばそうだが、先ほどの二階の夫婦を思えば、特別待遇である事は十分に分かる。
「どう、気に入った?」
スカイラーに感想を求められると、アストルフォは周囲の景色を見渡した。良さそうな場所。ちゃんと見もしないで、答えるのは失礼である。針葉樹の群れ、平原に山脈に雲と空。州道は、細い紐の様に岩肌を縫っている。この地に辿り着くまでに目にした全ての光景が、そこから一望できる。
変な意味ではなく、高みに登った様である。
「いいね。空気も美味しい。」
口ではそう答えてみたものの、人間は複雑に出来ている。道中は感動したが、それが本当に全てと分かると、また違う。ずっと、ここに住めるかという疑問が、当然の様に、頭を過ぎるのだ。敬愛するセオドアも辿った道。それ以外に、納得する術はないというのが正直な感想だが、人に言う事ではない。
アストルフォは部屋を振り返り、荷物の山に目をやった。終業時間まで、まだ時間がある。スカイラーは、アストルフォの視線から、彼の気持ちを察した。
「荷物を開ける?手伝うわよ。」
アストルフォは、笑顔でスカイラーを見た。
「本当に?何が出てくるか、分からないよ。」
スカイラーは、笑顔で顔を横に振りながら、部屋に入った。
アストルフォは、いいパートナーを手に入れた。悪くないスタート。アストルフォは、笑顔でスカイラーの後を追った。
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