第76話 常識(5)

文字数 2,972文字

三人は、テーブルの傍に、好きにキャンバスを置いた。
アストルフォも、別に、本当に絵が上手くなると思っているわけではない。
ただ、ジョンの告白は、アストルフォの心を軽くかき乱したが、その後、確かに安らぎをもたらした。重要な事である。時間はあるから、ジョンの好きな事でもやってみる。そのぐらいの気持ちにはなった。
どちらかと言うと得意ではないコンテも軽快に滑る。躊躇う程の技量もない。
隣りのコービンは、ニヤつきながら、手を動かしている。彼の画力は知らないが、描いた傍から、何かしら楽しんでいるのは確かである。
そして、ジョン・インガーソル。彼の絵の上手さが尋常ではない事を、コービンはまだ知らない。きっと、驚き、褒めたたえるのだ。彼が繰り出す美辞麗句が、今から楽しみである。
因みに、ジョンのプライベートに関するお喋りは、随分前から絶好調である。ジョンがまだブレーズだった頃、頑なに隠し続けてきたトップ・シークレットは、今や騒音となりつつある。
「一年ぐらい前だった。彼女と会ったのは。」
コービンが、キャンバスを見たまま、笑顔で尋ねた。
「誰?」
ジョンには、不要な質問だったらしい。ジョンは、手を忙しく動かしながら、キャンバスを顎で指した。
「この娘だよ。アンジェリーナ。」
コービンの頬が揺れた。
「この娘って、知らないけどさ。美人?」
ジョンは笑うだけで答えない。嫌いではない反応である。アストルフォは、ジョンを一瞥して微笑んだ。
コービンは、話を先に進める男である。
「どこで会った?」
ジョンは、包み隠さずに答える。
「近所の人が、いい娘がいるから、会ってみないかって。僕もいい年だったからね。」
アストルフォとコービンは、少しだけ笑った。なかなか、最近にない出会いである。知ってはいたが、ジョンは真面目な男なのだ。
コービンは、少しだけ関心を持ったのか、ジョンの方に目をやった。
「なんだい、誰の紹介?男か女か?大体、一方的に紹介なんてのは、何かあるんだ。損しかしない。」
ジョンは笑った。
「どんな経験が君にそう思わせたのかは知らないけどね。取敢えず、質問に答えるなら、アンジェリーナのゴッド・ファーザーだよ。」
ゴッド・ファーザー。穢れなき世界の話に、コービンは眉を上げ、キャンバスに向き直った。
言葉がないと見ると、ジョンはまた口を開いた。
「真面目な娘だった。最初は教会で会ってね。ローマ・カトリック。僕は、…。」
アストルフォは、話したくて仕方がない様に見えるジョンを笑顔で揶揄った。
「その話は、聞かなきゃダメ?」
アストルフォの感覚的に、男の恋愛話は〇〇〇〇である。ジョンは、小さく笑ってから、話を続けた。
「まあ、いいじゃないか。調子が出るんだ。僕はつまり、賛美歌やティー・タイムで、ゆっくりと相手を知ったんだ。ゴッド・ファーザーも見てるし、…。」
「清らかだ。」
コービンがチャチャを入れると、また、ジョンは笑った。
「僕だって思った。僕は三十まで一人だった。僕だけが知ってる事だけど、それは気持ちの悪い男だった。」
笑ったコービンの鼻が鳴ると、ジョンは、コービンを指さし、言葉を続けた。
「コービン。僕も分かってるんだ。君が言った様に、友達と一緒にとかなら別だ。でも、まだ若いのに、ゴッド・ファーザーに勧められた娘と、毎週、教会で話して、交際が発展するのを待つなんて。そんな話がこの世に残ってたとしたら、どうする?」
コービンの口元がひねた笑いを見せた。
「そりゃあ、ないね。まずは、そのゴッド・ファーザーとその娘はできてる。そして、君の財産を奪うために、罠を仕掛けてる。訳の分からない契約を、山の様にさせられる。カードでありとあらゆる物を買われて、臓器も売られる。そのうち、君は排ガスで自殺だ。君の親も危ない。保険金どころじゃない。全部、吸い取られる。それが普通だ。」
ジョンは、笑顔で顔をくしゃくしゃにしながら、言葉を続けた。
「普通が何かだけど。そう。君が言う様に、それが普通なのかもしれない。僕はそこまで疑わなかったけど、さすがに違和感はあった。でも、思ってたのと違った。面白かったのは、相手も僕と同じ様に、僕に遠慮してたんだ。二人は、教会に似合う自分を演じながら、相手を探った。どこまで、自分を出していいのか。」
アストルフォが、微笑みながら口を挟んだ。
「いい印象だったろうね。」
ジョンは、我が意を得た様である。
「そうなんだ。こんなに教会に通う熱心なクリスチャンに、下品な冗談は言えないし、妙なアプローチも出来ない。実際は、人に言われて、異性に会いに行ってるだけなんだけど、…。」
ニヤついたコービンが、口を挟んだ。
「好きな説教や賛美歌について、語るのかい?」
ジョンは、偏見にもう慣れた様である。
「そう。最初はね。でも、馬鹿にしないでほしい。ボランティアやイベントもあるし、話題には別に事欠かない。因みに、その彼女の実家は、うちの母親の実家の近所で、その辺りの話をすると盛上ったよ。」
コービンとアストルフォは、平和なティー・タイムを思い浮かべて笑った。
二人が笑う間に、ジョンの目は不意に遠く窓の外を見つめた。
いつもと変わらないライト・グリーンの若草と、鬱蒼と茂る大木、それに雲一つないベビー・ブルーの空。
「二人で何度か出かけたんだ。彼女の用事の手伝いとか、そんなもんだったけど。僕にはデートだった。その頃は、彼女の気持ちは分からなかった。でも、それを確かめたくて、初めて、彼女に服を買った時、本当に喜んでくれた。」
自分のキャンバスを見ながら話を聞いていたコービンが、ジョンに少し厳しい眼差しを向けた。
「ちょっと、気持ち悪いな。」
仮に口を開くなら、褒めるべきタイミングである。アストルフォが小さく笑うと、ジョンは、首元で手を素早く振ってから、笑った。
「人によっては、そう思うかもしれないと、言わせてもらうよ。でも、次のデートの時、彼女がその服を着て来てくれたんだ。僕はうれしかった。本当は嫌だったらどうしようと思ってたから。僕は、本当にうれしかったんだ。」
アストルフォは、ジョンに向かって、静かに感想を口にした。
「いいね。」
ジョンは、キャンバスから、一瞬、目を離し、アストルフォに微笑んだ。
「ありがとう。本当にそうなんだ。自分が誰かと恋に落ちたりするなんて、全く想像してなかったし。家庭を持たなきゃいけない、義務みたいなもんだと思ってた。だから、嘘みたいで。本当に、無理に付き合せてたらどうしようとか、そういう不安が強かったから。相手も同じ気持ちだったと思うだけで。あの時の僕は、本当に幸せだったんだ。」
しかし、ジョンの特別な思い出は、コービンの笑いのツボにはまっただけだった。
「人生最高の瞬間はそこじゃないだろう。付き合い始めがそうなら、付き合ってからはもっと幸せな筈だ。」
コービンは俗物である。アストルフォは、苦笑いしながら、ジョンの顔に目をやった。ジョンは、どんなジョークを返すのか。それが気になったのである。
ただ、ジョンの表情は、思いのほか厳しくなった。
「その後はない。」
アストルフォとコービンは、ジョンの顔を見たまま動きを止めたが、キャンバスに見入るジョンには分からない。
「その日に、僕は気を失って、この部屋に来たんだ。まさに、人生最高の日に、僕は社会との関わりを断たれた。」
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