第38話 帰郷(4)

文字数 2,741文字

ソフィーが夕飯の準備のために席を立つと、ヴァレンティンとアストルフォは裏庭に出て、ベンチに並んで腰掛けた。久しぶりの林は紅葉。ドッグ・ウッドは、ここにも立っている。
冷たい空気には、ソフィーが持たせてくれた温かいコーヒー。
こうもコーヒーが飲めるのは、フォンダン・オ・ショコラのなせる業だが、ヴァレンティンは食べていなかった。
気になったら、聞いてみる。それが家族。
「甘いものはやめた?」
ヴァレンティンは、口元を緩めて、アストルフォの顔を一瞥した。
「制限してる。血糖値が高めだ。」
アストルフォは小さく笑った。神経質に管理していそうである。そう言えば、帰郷した時の暗号を口にするのを忘れていた。
「体はどこか悪くない?大丈夫?」
どう見ても健康そうなヴァレンティンは、今度はアストルフォの方を向かなかった。
「どこも悪くない。残念なぐらいだ。皆、たまに会うと病気自慢だが、父さんは何も話すことがない。」
二人は微笑み、林を眺めた。ゴールドフィンチがいる。
「山に出された後、ウイリアムとはどうだ。」
厳しい響きが混ざっている。父親は気付いている。そう、ウイリアムはそういう男である。ソフィーといる時に仕事の話を避けたのは、それを知っての事。
ヴァレンティンの言葉は続く。
「あの男は、学生を送ると、ある程度は手元に置くが、自分と似た人間以外は外に出すんだ。人間にはいろんなタイプがある。多様性があっていいと思うが、我慢できない。常に自分の理想のチームをつくりたいんだ。エゴイストだ。人懐っこいから続いてきたが、どうかとは思ってたんだ。」
何となく同情されている様な気がしたが、どうも違う。
それを知っていれば、最初から自分を紹介しなければいい。自分とウイリアムが似ていると思う人間はいない。
この同情に聞こえる言葉は、きっと彼の予定通りのものである。
自分が育てた子供に、自分のコネで生活する術を与え、その小さな世界で満足する様に、言葉を選んでいる。馬鹿ではないから分かるのに。
アストルフォは、自分が自分を知っている事を、自分の創造者たる父親に少しだけ教えた。
「いや、同期に凄く優秀な女の子がいてさ。もう、シンポジウムのパネラーだよ。僕が残れるわけがなかった。悔しさの欠片もない。」
アストルフォが小さく笑うと、ヴァレンティンは微笑んだ。
「シンポジウムか。ウイリアムの事だから、そのうち、新聞や雑誌にでも載せるな。」
目に浮かぶ様である。
「そうだね。」
アストルフォがコーヒーを口に運ぶ間も、ヴァレンティンの言葉は続く。
「じゃあ、お前が目指すのは電力王だ。高尚な話はその子に任せて、とにかく、儲けろ。地球をクリーンにして、お前はリッチになるんだな。」
薄っぺらい励まし。ヴァレンティンの人生にはない言葉である。自分でもよく分からないが、多分、情けないと思った。
アストルフォの視線がゆっくりと落ちたのを、ヴァレンティンは見逃さない。
「父さんはあれだ。大学の頃に先生にもう少し勉強していけと言われて。本当に、ずっと先生について回っていたら、年をとってしまった。」
優しい笑顔のヴァレンティン。
「教員の仕事は、本来は学生に教える事だから、それはやる。教わってきたことを、業界の動きに合わせて、少しずつ変えながら、分かり易く教える。社会にはばたくために必要な基本中の基本を、確実に身につけさせて、最高の研究に関心をもてる機会を与える。世界を変えられる様になる機会だ。優秀な子供もいて、偉くもなる。でも、殆どの子供は無関心だ。授業の時間は座ってるだけ。教科書に答えが書いてあるしな。研究室にいても、マスターになる気のない子は、就職が待ちきれない。義務で学校にいる。お前もそうだったろ?」
アストルフォは、また小さく笑った。おそらく、自分の仕事の方が下らなかったと言いたい。ヴァレンティンはそういう男である。行く末の分かる話は、まだまだ続く。
「学校は、常に最高の人材を求めていると言って、研究の成果を期待する。でも、正直言うと、父さんみたいな人間には、研究は心のよりどころだ。子供は分からないし、そのくせ、親が全力で守りに来るから、面倒くさい。彼らとは対立せず、とにかく逃げて、理想論を語る。一つのテーマで、何時間でも話せる様になる。どの分野だって、その道の永遠の課題みたいなものはあって。それを、どうきれいに解くか。数学的に美しいのがいいんだが、そう上手くはいかない。そういう時は実験だ。社会問題とその課題を結び付けて、押し売りをして、金を確保する。大風呂敷を広げた実験計画を、書いてある通りに全部やって整理すれば、あとは望んでいた世界が待ってる。二十年もやれば、学会でも数人しかトレースできなくなる。しかも、時間がかかるから、例え、出来るとしても、誰もトレースしない。そうなると、もう自分だけの世界だ。」
羨ましい。予想は少し外れたかもしれない。そして、ヴァレンティン。
「貴重な人生を費やして、誰も分からない論文を書き続け、業界の皆が昔から知る課題を解く。でも、実はそこがポイントだ。」
そう言われても分からないので、次の言葉を待ってみる。
「昔から皆が課題だと思っているのに、業界が成り立ってるんだから、それは、きっと解かなくてもいいんだ。不便はない。じゃあ、父さんは何故その課題を解こうとしていたのか。」
そこで、ヴァレンティンは不意に止まった。今から口にする答えが正しいのか、自分で自分に問いかけている。最終確認。おそらく、それ。
「多分だ。これも多分。周りの皆が課題と言ったから。そして、父さんも課題だと思ったから。それだけなんだ。皆が解けないといった課題を解きたい。アスリートみたいなもんだ。誰が一番速く走れるかとかな。まあ、でも、こう言ってみると分かるが、それは趣味程度のものだったんだ。」
子供の教育は立派な仕事だと思うが、ヴァレンティンのメイン・ストーリーは、自分の仕事を卑下して見せる事。予想は正しかった。
アストルフォは、両手でコーヒー・カップを支える父親の顔を見た。穏やかな表情の彼が、また口を開く。
「一生を趣味に費やすことが出来た。今ではそう思ってる。蝶を追いかけてたら、老人になってた。そんな気分だ。でも、悪くない。」
アストルフォは、何度か頷くと、コーヒーを口に運んだ。親の正義は揺るぎない。一度きりの人生で選んだ仕事が下らなくたって、別に構うな。そう言いたかったのだろう。
改めて、ついさっき、心に浮かべた気持ちは正しかったと思う。小さなつぶやき。
「羨ましい。」
今日、会った二人目の羨ましい人。
ヴァレンティンも、コーヒーを口に運んでから、口を開く。
「いいだろ。」
二人は笑い、ヴァレンティンは愛する息子に、優しい目を向けた。
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