第62話 通底(2)

文字数 2,127文字

三人の自己紹介が終わった。ただ、次の言葉はない。
ブレーズは、相手の出方を待っている。そして、その男、コービンにとって、この状況はまだ不可解すぎるのだ。
両手を大きく動かした後、やっとコービンの声がついてきた。
「えっと、君達は?名前じゃない。君達は何?」
ストレートな質問に、また、二人は小さく笑った。
ブレーズは、新しい知性の登場に、喜びが隠せないでいる。ただ、彼の笑顔は、自分の頭の中に浮かんだビジョンのせい。きっと、そうである。
「君に同じ質問をしたい二人だ。」
自分が言われていなければ、ジョークだと分かるが、今は違う。アストルフォは微笑みをたたえ、コービンは苛立った。
「面倒はよしなよ。ここは病院?」
利口である。
「いや。」
ブレーズの即答に、コービンの立て続けの質問。
「精神病院も病院だ。」
答えるのは、ブレーズである。それもまた即答。
「いや、違う。」
コービンとブレーズの一問一答は早い。
「じゃあ、何かの施設?」
「施設って?」
「矯正施設とか?」
「いや。」
「記憶障害は?」
「ない。」
「二人いたら、分かるだろう。メモをとるとか。」
「いや、ない。」
コービンは黙った。この部屋では、シンキング・タイムは、いくら長くても許される。
ブレーズとアストルフォは、コービンの顔を見つめた。そして、彼は答えを出せる男の様である。
「僕は誘拐された。被害者だ。君達も同じ。加害者じゃない。取敢えず、それでいいかい?」
アストルフォは、コービンに言われて、自分をズンと引っ張られる様な感覚を覚えた。もう日常になっていたが、あってはならない状況に自分はいる。
ブレーズに目をやると、彼は微笑んでいる。
「いいよ。そう。君も被害者に見える。」
コービンは、ベッドから立上り、改めて部屋の中を見渡した。何かを探す様な目付きは、何に向けられているのか。
アストルフォとブレーズの視線を十分すぎる程受けた後、コービンは、意を決した様に口を開いた。
「逃げよう。」
決断が早い。ただ、彼は何も知らない。何もやる気のないアストルフォでさえ、そう思った時、ブレーズが一日の長として、答えた。
「気持ちは分かるけど。何か、手はあるのかい?」
ブレーズは、少し意地が悪い。警戒は必要だが、情報を隠し過ぎている。ブレーズは、自分と最初に会った時も、こうだったのだ。
コービンは、ブレーズの方を暫く見た後、足早に近付いて来た。
ブレーズとアストルフォは、チェアに座ったまま、少し身を起こしたが、コービンの目指す先は自分達ではなかった。
コービンは、空いていたチェアに手をかけ、持ち上げた。
次の行動は察しが付く。ブレーズとアストルフォは、声を上げた。
「ヘイ、ヘイ。」
コービンは、チェアを高く持ち上げて窓に近寄ると、思い切りガラスにチェアの足を打ち付けた。
チェアがガラスを打ち破るイメージ。一瞬、そのイメージが頭を過ったが、現実は違っていた。
ゴンという音と共に、コービンに返って来たのは、ガラスの破片ではなく、ガラスにはじかれたチェア。ガラスを砕く程度の固さを期待したチェアだった。
人間の顔が受け止めるには、あまりに重い塊。
コービンは、顔面に自分の振るった凶器を受けた。
「オウ。」
コービンは、短く叫ぶと、チェアを落とし、顔を両手で覆って、床にしゃがみ込んだ。
普通はケガをする。
ブレーズとアストルフォは、コービンに駆け寄った。
コービンの呻き声は止まらない。
二人は、コービンの傍らにしゃがみ、気の毒な男を見守った。それで何が変わるわけでもないが、心は伝わるだろう。
アストルフォは気付いた。コービンの手を血が伝っている。
「大変。血だよ。」
アストルフォの声は自然と大きくなったが、ブレーズは冷静である。
「顔からはよく血が出る。大したケガじゃないかもしれない。いいから、見せてごらんよ。」
冷静である。
コービンは、ゆっくりと顔を上げ、血の付いた両手をのけた。人の傷は、怖いが見てみたい。ブレーズとアストルフォは、コービンの顔を覗き込んだ。
診断を聞くのが怖いのか、痛みのせいか、しっかりと目を閉じた彼の顔は、手で押さえて広がった鼻血で一杯だった。
ただ、何処が切れているかは分からない。彼の顔に当たったのは、座面だった可能性が高い。
ブレーズは、見たままを言った。
「きっと鼻血だ。どこも切れてない。」
コービンは、恐る恐る目を開けた。何が見えるわけでもない。
「本当に?」
喋ると、コービンは苦痛に顔を歪めた。鼻を強打したのは確かである。裂傷はないと聞いたからと言って、痛みが変わる事はない。鼻のラインが変わったかどうかは、本人に聞く他ない。
ブレーズは立ち上がった。
「おいでよ。冷やそう。」
コービンは、ブレーズの言葉から、今の自分の状態をだいたい理解し、血をこぼさない様に鼻の下に手を添え、立ち上がった。
二人は、ゆっくりと洗面所へ消えた。アストルフォは、その背を見送ると窓に近寄り、コービンがチェアを叩きつけた部分を観察した。傷はない。強化ガラスだろうか。
床には、血が飛び散っている。アストルフォは、ウェット・ティッシュを持ってくると、床を拭いた。
コービンの行動は、幾つかあるもっともらしい選択肢の一つだったので、今の彼の姿は、見る事がなかった自分の姿に思えた。
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