第35話 帰郷(1)

文字数 2,890文字

A国W州S。アース・ミッションは、W州北部にある人口七十万人強のその街に本社を構えている。街の四割を占める水域の合間に、超高層建築がそびえ立ち、大通りにはロック・スターも闊歩する。
その日のアストルフォは、工事の進捗の報告のため、半年ぶりに本社に足を運んだ。いつもの報告は郡の事務所までで、セオドアと世間話をする程度。彼のつくった書類の数字が変わっただけなので、話は早い。何なら、説明をするのも彼である。いつか、内勤に戻るとすればセオドアの元だと思うと、午前十時の本社は眩しい。
二百人程度の社員が集う事務所ビルは、大通り沿いの公園の奥。
ライト・グリーンの木々に優しく飾られる三階建ての鉄骨造。メタル・ブラックのメッシュの手摺にからむアイヴィー。大胆にせり出すセコイアの板材で区切られた、ガラス・カーテン・ウォールの開放的な壁面。社員が育てるプランターで飾られたテラス。
三階の過半は屋上で、打合せスペースを兼ねたカフェとして使われている。
その南端。手すり際の一席にアストルフォ。向かいには同期入社のネヴァヤ。二人が揃って、そろそろ三十分になる。
アストルフォの趣味はよそ見である。相手がいても、かかさない。
カフェから見る公園の眺めは、基本的に会議で発言しないアストルフォの会社人生で、最も見慣れた光景だった。
芝生のグリーンは一色ではない。子供の動きは予想がつかず、母親は強い。平日に走る老人と、芝生に横たわる若者。
いい眺め。
あの退屈な、早く終わってほしかった時間に見た景色が、こうも美しいとは気付かなかった。
ただ、本題も忘れてはならない。よそ見は、それがメインになるとよそ見ではない。
ネヴァヤと同席している理由。彼女は、今、管理部に所属している。アストルフォの報告の相手は、彼女なのだ。
ノート・パソコンを前にしたネヴァヤは、管理書類の入力を終えると、プライベートの彼女に戻った。
アストルフォと同じぐらいの長さのブルネット。ココア・ブラウンの肌に、パンジー・カラーのワン・ピースのスリムな彼女は、周囲の景色から浮き出して見える。
「チェック・リストは、後からメールで送るから、一週間以内に対応を済ませて、セオドアに報告して。宿題は幾つかあるけど、連絡先のリストも、一緒につけるから。」
ネヴァヤは同期入社だが、年齢は五歳離れている。ドクター・オブ・フィロソフィー。入社した頃から、彼女に面倒をみられるのは普通だと思っていたが、その関係はいまだに変わらない。
「ありがとう。」
微笑んだアストルフォは、かつてのヘビー・ローテーションだったホット・チョコレートを口に運んだ。
ネヴァヤは、パソコンを閉じながら、質問をした。マウスは異常に小さく、ネヴァヤが細い指でキャップをすると、ペン・ケースにきれいに収まった。
「現地はどうなの?」
アストルフォは、湯気まで甘く見えるホット・チョコレートから視線を外した。
「どうって?今、言った通りさ。普通だよ。」
百パーセント達成可能な目標しか立てていない。決して、高い評価はもらえないが、責められる筋合いもない。
アストルフォの全てに対する無関心はいつも通り。
ネヴァヤは笑った。彼女はアストルフォを分かっている。
「あの、こんな事があって、大変だとか。どんな人がいるとか。どういう所に遊びに行ってるとか。何かあるでしょ。」
近況が知りたいらしい。
アストルフォは、取敢えず、カップを口につけると、公園を眺めた。
「いや、特に。つつがなく、しゅくしゅくと。」
二人は、揃って、小さく笑った。
ネヴァヤは、長い睫毛で縁どった大きな瞳で、アストルフォを観察してから、口を開いた。この場に最適な話題を、彼女は持っている。
「ベンジャミン・ウィルソンと、この間、会ったわ。」
思わぬところで、つながっている。アストルフォは、目を少しだけ開き、肩を上げた。
ネヴァヤは、アストルフォの言葉を待たない。
「あなたの事は言ってなかったけど。」
確かに、ベンジャミンと自分は年も離れている。自分とネヴァヤの関係を知る筈もないので、名前を出すなら、セオドアかウイリアムだろう。
「どこで?」
ネヴァヤの返事は早い。
「W州のシンポジウムよ。上手だったわ。」
上手なのは知っている。おそらく、この間のプレゼンは、至る所で繰り返されているのだ。
「僕も聴いたことがあるよ。余裕があって、楽しんでる感じだね。」
「そうね。私は全然ダメだったわ。緊張して、あがりっ放し。」
小さな事件。今の感じだと、ネヴァヤはパネラーである。確認。
「何?ステージに上がったの?」
ネヴァヤは笑顔で何度も頷いた。聞いてほしそうである。分かりやすい期待を裏切れる程、気は強くない。
「客席は何人ぐらい?」
「会場がほとんど一杯だったから、何百人か、そのぐらい。」
この間と同じぐらいである。どこかの大学で、セッションごとに数十人でやるレベルではない。時々、発表に行っていたが、そこまでとは思わなかった。
「何を喋ったの?」
「わが社のクリーン・エネルギー分野の取り組みよ。」
ネヴァヤの表情は、少しだけ申し訳なさそうに見える。
「随分、ざっくりしてるね。」
「ざっくりしてるでしょ。」
もっとマニアックな事をやっていると思った。
基本的に、彼女の仕事には関心ないが、さすがに無視できない。入社した頃に、研究について、長々と語られた記憶がある。
「地球のコアのモニタリングは?僕達のデータとか集めて、分析してたんじゃないの?」
「データを採りたい時は、それなりの準備をして、正式にお願いするわ。」
ネヴァヤは笑いながら答えた。思ったままを口にしたのだが、笑われている。確かに、ルーティンのデータが、彼女の研究の成果にいきなり変わるとは思えない。ただ、彼女が研究そのものをやめた可能性もある。
一応、聞かなければならない。
「何?研究はやめたの?」
「データを採ったり、実験したり、論文を書いたりするだけが研究じゃないわ。シンポジウムや委員会の方が、どちらかと言うと大事なの。今の私にはね。」
結構な事である。言葉のないアストルフォが取敢えず頷くのを見ながら、ネヴァヤは話し続ける。
「でも、自分の研究だけじゃ、まだ無理だから、ウイリアムが応援してくれたのよ。うちの会社の全部の成果を話すなら、誰かが相手をしてくれるって。」
彼女は、一度、目を伏せた。自分が特別待遇なのが、申し訳ない。それが、彼女の基本姿勢である。
アストルフォは、ホット・チョコレートに救いを求めてから、感想を告げた。
「いいね。羨ましい。」
ネヴァヤは、口角を少しだけ上げ、知的な眼差しで、アストルフォを見つめながら応じた。
「羨ましいでしょ。」
嫌味はなく、下らなくも見えない。上品なネヴァヤ。
アストルフォは、軽く笑うと、チェアの背にもたれ、足を組んだ。
「ネヴァヤは偉い人だったんだ。そんな気がしてはいたけど。いつか、遠くに行ってしまって、僕の事なんか、相手にしてくれなくなるんだ。」
ネヴァヤは顔を横に振り、笑いながら口を開いた。
「こっちのセリフよ。」
何を言われたのか、よく分からないが、アストルフォは、優秀なネヴァヤと一緒に笑った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み