第61話 通底(1)

文字数 1,966文字

木の香りに満ちた部屋のアストルフォとブレーズに、一つの事件が起きた。
ガーリックとオレガノの香りを振りまくケフテデスと、フランベしたサガナキで、ドメーヌ・スコーラスのサン・ジョルジュを飲んだ夜。
二人は猛烈な睡魔に襲われ、チェアに腰かけたまま、崩れ落ちる様に眠りに着いた。
それは、睡眠薬を盛られる日のパターン。
目覚めたのはベッドで、当たり前の様に朝だった。
ワイン一本でこうも酔わないし、二人揃って、意識のないまま、ベッドに移動したとも思えない。明らかに異常事態が起きている。
アストルフォが、この世の全てを疑いながら、二段ベッドから降りると、分かり易い異変がそこにあった。
下のベッドに、知らない男が寝ていたのだ。毛布もかけていないその男は大柄で、腹は少し出ている。ブルネットを短く刈り揃えた男は、眠っていても、愛嬌のある顔立ちで、悪い人間には見えない。彼をアストルフォの経験で評するなら、中年男である。
アストルフォは、自分が目覚めた理由が、この男のいびきだと思った。
気配を感じて、視線を脇にやると、ブレーズが上半身を起こし、眩しそうな目で、アストルフォを見ていた。
視線が合えば、挨拶するのは義務である。
「おはよう。」
「おはよう。」
二人は、この状況でも、その義務を果たした。
ブレーズは、ベッドから降りると、アストルフォの脇に立ち、問題の中年男を観察した。そして、彼の感想。
「盛られた。」
薬の事である。アストルフォも異論はない。
「そうだね。」
アストルフォの返事に改めて頷いたブレーズは、意見を求めてきた。
「どうする?起こすかい?」
その発想はなかったので、アストルフォは笑った。何かが起きる事は絶対である。取り敢えず、暫くは遠慮しておきたい。
「そっとしとこう。」
ブレーズも笑い、二人はコーヒーを淹れるためにベッドを離れた。向かう先は、キャニスターの並ぶテーブルである。
今日選んだ豆が何かは知らないが、ドリップが進むと、華やかなコーヒーの香りが室内に広がった。ミルの時点で抱いた期待が、裏切られる事はない。その香りは、チェアに腰かける二人だけでなく、眠っている新入りの鼻腔にも届いた。
おそらくは、いつもと同じ様に目覚めた彼は、二人の存在を認識しながらも、まずは部屋の中を見渡し、俯いた。
男を観察していたブレーズが、口を開いた。円滑なコミュニケーションのために、逃してはいけないタイミングである。
「おはよう。」
ブレーズが声を掛けると、アストルフォも微笑みながら、男の方に目をやった。自分の見栄えを意識したのは、久しぶりである。
男は、当然の反応をした。
「おはよう。」
まずは、誰にでも挨拶をする人間。普通である。
次に口を開いたのは、その男だった。
「悪いけど、ここはどこかな。本当に迷惑な話だと思うけど、記憶が全然ないんだ。」
ブレーズとアストルフォは、顔を見合わせて、小さく頷いた。ここでは、それが普通である。
口を開いたのは、ブレーズ。
「僕もよくは知らない。おそらく、確かな事は、平原と森に向かうどこかという事なんだろう。」
彼の好きな詩的表現。ブレーズが顎で窓の方を差すと、男の目は差された方を向いた。
余りに平穏な、生き物のいない世界。
トリが横切ってもいいぐらいの時間が過ぎた頃。
アストルフォの声のない笑いに構う事なく、男は焦りを体全体に現した。周囲を見回す顔の動き、一つ一つの仕草は突発的で、かつ早い。自分の置かれている状態が異常である事までは確実に理解した様である。
気の毒になったアストルフォは、自分の経験を振り返りながら、声をかけた。
「最後の記憶は?」
男に反応はない。いや、反応し続けているのか。数秒置いて、男はアストルフォの方を向いた。
「いや、何?済まない。」
アストルフォは、また小さく頷いた。当たり前の反応。きっと、そうなのだ。
ブレーズとアストルフォは、まずは待った。気持ちの整理が必要な筈である。
男の動きにそれほど多くのバリエーションがあるわけではなく、見ていた二人が滑稽さを感じ始めた頃、男の視線が二人に戻って来た。
大きく見開かれた目には、普通ではない光が宿っている。
この時点での刺激は禁物である。ブレーズとアストルフォは、やはり静かに待った。
心には、見えない波がある。静寂が続けば、波はやがて穏やかになり、三人の思考のベクトルが揃っていく。
口を開いたのは、その男だった。お喋りなのだ。
「ハイ。」
ブレーズとアストルフォは小さく笑った。そこから、やり直すらしい。
「ハイ。」
このやり取りに、敵意がない事以上の意味はない。
男は、一度、視線を外して考え込むと、ベッドから足を降ろした。
「僕はコービン・キャッシュだ。君達は?」
自己紹介は大事である。二人は、順に名乗った。
「ブレーズ・スヴェーデンボリ。」
「アストルフォ・ルロワ。アストルフォと呼んで。」
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