第4話 戴冠(3)

文字数 6,308文字

事務所に着いたのは午後四時頃。スカイラーの申し出で彼女の車に同乗し、送ってもらった。相変わらずの景色を車窓から眺めていると、ものの五分。すぐである。これなら分かる。この近さは確かに魅力的。セオドアがあのロッジを選んだ理由に、やっと納得がいった。
車から降りたアストルフォの目の前の事務所は、郡の監視施設を転用したもので、二階建てのログ・キャビン。庇に雪が残り、キュートな仕上がりである。表には、車が三台。車体の傷が目立つシルバー・メタリックのセダン、F国のファイア・オパールのコンパクト・カー、おそらくは二十年物のダイヤモンド・ブラックのフル・サイズ・バン。現場にありがちな並びで、緊張する必要はなさそうである。
ここでも、スカイラーの後を追って、階段を上がり、彼女が開けた扉をくぐると、パーティションのない広めの空間が広がった。
レッド・パインがいまだに香る事務所の中には、男が二人。一人は、事務机のチェアに腰掛け、一人はその横で、机に腰をあてて立っている。
二人の視線を受けると、スカイラーが口を開いた。
「ルロワさん。アストルフォよ。」
スカイラーが、アストルフォに目をやりながら紹介すると、チェアに座っていた男が立ち上がった。背は百九十センチメートル程度で、肩幅も広い。短く刈ったグリズルド・ヘアに、所謂、強面で、眼光は鋭い。どう見ても、四十歳以上。後半?年上である。アッシュ・グレーのシャツに、ネービー・ブルーのジャケットを羽織るラフな出で立ちの彼は、しかし、ゆっくりとアストルフォの方に歩み寄り、右手を差し出した。紳士は握手を求める。断る理由はない。アストルフォは、太い指とざらついた手の平に、スノー・ホワイトの手を預けた。
「グレイソン・エバンズ。グレイソンでいい。」
低いダミ声で挨拶をすると、グレイソンは、微笑んで言葉を続けた。
「どう呼ぶ?ボスか?サーか?」
アストルフォは笑った。どう答えるべきか。スカイラーも、にこやかに二人を見つめているのを一瞥してから、彼への答え。自分らしさは後悔がない。
「アストルフォでいいよ。」
グレイソンは、小さく頷いた。無駄口は叩かない様である。
「資料は見てるわよね。ヒート・パワー・エンジニアリングの…。」
スカイラーが、グレイソンと言う男を説明しようとすると、アストルフォは笑顔で頷き、説明を止めた。
次が控えている。
グレイソンの体に隠れていたもう一人の男は、アストルフォと同年代。少し上だろうか。背は同じぐらいで細身。髪はブルネットで、カールは天然だろう。グレイソンと違い、見るからに大人しそうで、アイビー・グリーンのつなぎで身を包んでいる。
遠くから、手を真っ直ぐ差し出して、歩いてくる不器用な彼を見て、アストルフォも手を差し出して近付いた。彼を真似た事には、誰も気付かなかったが、アストルフォは、握手をしながら、話しかけた。
「レオ・オルティースだね。セオドアから聞いてる。」
セオドアから、彼は真面目で信頼できる技師だが、大人しくて損をするタイプだと聞いていた。実質、仕事は彼以外していないのに、何も求めないと言う。
「レオと呼んで下さい。」
目線を合わせないのは、何なのか分からないが、返事は必要である。
「オーケー、レオ。じゃあ、僕もアストルフォで。あと、普通に話して。」
空いた手も重ねて、両手で彼の手を握ると、レオは、はにかむ様に笑い、何度か頷いた。
いい奴。おそらく、セオドアの言っていた通りだろう。ただ、レオとの時間も長くは続かない。待ち構えている男がいる。小さな事務所でも、主賓は忙しい。
「アストルフォ!」
グレイソンの太く大きい声。発した彼は、事務所の端のブラウンの皮張りのソファの前にいる。腰を曲げたグレイソンは、トロリーのロー・テーブルを引き出し、ウイスキーのボトルとタンブラーを並べるのに忙しい。スカイラーは、両手を胸の前で組み、呆れて見えるが、口元は笑っている。
確かに終業時間前だが、この反応なら、よくある事だろう。アストルフォは、取敢えず、大男だが小回りが利くグレイソンの傍へ歩いた。
「ここで?」
アストルフォが笑顔で尋ねると、グレイソンは不思議そうな顔で手を広げた。
「ベンジャミンが来るんだろ?」
何故、彼が来るなら、ここになるのかが分からないが、グレイソンは構わない。
「お前も手伝え!」
アストルフォの後ろを見たグレイソンが手を振り、大きな声を出すと、視線の先に居たレオが動き出した。
立ちっぱなしのアストルフォの質問は続く。
「ベンジャミンを待たない?」
初対面で酔っているのは、少し気まずい。しかし、グレイソンは、手早く、タンブラーにウイスキーを注いでから、アストルフォの方に顔を向けた。
「シラフで話すのか。〇〇〇〇みたいな事しか言わないぜ。」
仕事上のボスに言うことではない。アストルフォは、本心で笑った。
やっと、レオがソファの傍に来た時には、グレイソンはナッツの袋を手にしていた。
「お前はとろいな。じゃあ、あれだ。燻製だ。いいか?スカイラー。」
三人の視線がスカイラーに集まり、彼女がやはり微笑みながら頷くと、レオも微笑み、表に出た。今度は、彼の足取りが早かった。
よくは分からないが、楽し気な雰囲気になってきている。今まで腰が引けていたが、グレイソンを酒の前で一人にしておくのも悪い。その酒は、自分のためなのだから。
アストルフォは、まだ、見慣れない事務所の内装や家族の写真の並ぶデスクの群れを眺めながら、グレイソンの隣りに座った。ソファの皮の歪む音。くたびれ加減が丁度いい。
グレイソンは、一番近くのタンブラーを手に取り、テーブルに残るタンブラーの一つに当てると、誰を待つでもなく、口に運んだ。フルーティーな香りが、隣りまで漂ってくる。
アストルフォは、ボトルを手に取った。見た事がある様でないラベル。
「タリスカーだ。57°ノースって書いてる。」
グレイソンの答えは早い。
「ベンジャミンが、セオドアを送る時に持ってきた奴だ。早く酔える。」
何をそんなに酔いたいのか分からないが、彼は面白い。アストルフォが、微笑みながら、ボトルをテーブルに置いた時、扉が開いた。入って来たのはレオ。意外と早く戻って来た彼の手には、魚の燻製が数匹吊るされている。一尾が四十センチメートル程度。プレートにのせる食べ物としては大きい。レオは、スカイラーに向かい、魚達を高く掲げて、礼を言うと、ソファに向かって歩いて来た。
魚の説明をしたのは、グレイソン。持ってきたレオでも、つくったスカイラーでもない。
「スカイラーが釣ったマスだ。燻製した後、風で乾燥させてる。この時期は寒くて、よく乾く。今日で多分、四日だ。塩抜きの時間も短くしてもらったから、酒が進む。」
どうしても、酔いたいらしい。アストルフォは、また笑い、スカイラーに目をやった。彼女は、自席の横に移動はしたが、立ったまま、笑顔でこちらを見つめている。自慢のマスの感想を聞きたい。そんな感じである。
「君は飲まないのかい?」
一応、必要な問いかけである。スカイラーは笑顔のまま答えた。
「飲めないの。それに、仕事があるわ。」
いつも通りの答えなのか、グレイソンは、スマートフォンを取出し、どこかに電話をした。口調は荒っぽい。
「俺だ。今日の仕事はもう終わりだ。事務所に戻ってこい。」
一体、どんな仕事なのか。ただ、終業時間は近いので、責める程ではない。目の前のスカイラーも、手を広げて、構わない様に伝えてくる。それは、多分、さっきの答えの続き。
その間に、レオは、プレートを出し、マスを置くと、手を洗いにいった。神経質である。
アストルフォは、残されたマスの燻製に目をやった。
魚の燻製はおぼろげに知っているが、目の前にある物とは違う。これは干物に近い。ジャーキーやベーコンと同じなら、香りが落ち着き、身がしまって、味が濃縮されているだろう。
アストルフォは、口中に染み出す涎に負け、タンブラーを手にとった。グレイソンがテーブルでタンブラーを鳴らしたので、合わせて鳴らし、揃って口に運ぶ。
酒には詳しくないが、誰が飲んでもウイスキー。まずは度数が鼻に訴える。舌に残る刺激や磯の香りは、おそらくタリスカーの個性。飲んでいるうち、舌に感じるとろみが、徐々に甘さに変わっていく。いいものを飲んだ。そう思える。
戻って来たレオがアストルフォの隣りに座ると、三人は揃ってテーブルでタンブラーを鳴らした。
「ここでは、よく飲むのかい?」
レオに尋ねると、彼は視線を泳がせながら微笑んだ。答えるのは、グレイソン。
「街に出るには早い時と、天気が悪くて泊まる時だ。」
確認を求める答え。謎を残している。頷くレオを見ながら、アストルフォは、義務を果たした。
「街って?」
多分、グレイソンのお楽しみ。口角が上がっているので、そう見える。
「ベンジャミンが来たら、多分、行くぜ。スカイラーと待合せたレストランの手前に、農場があったろ。」
確かにあった様な気はする。
「そこの畦道を十分も走れば、牧場に出る。夜になると、チェアとテーブルが並んで、酒が出る。木の間のイルミネーションも光る。酔ってくりゃあ、ぼんやりといい感じに見えてくる。妙に高いが、俺は嫌いじゃない。この辺りじゃあ、あそこぐらいしか、遊べる店はない。」
何となく、悪くはなさそうである。期待は残しつつ、アストルフォは、まずは、目の前の御馳走、アンバーのマスを口に運んだ。ソミュール液の染みた身が、まとまって口に入る。弾力が強い。しっかりとした皮も、触感にアクセントを添える。川魚の臭みは一切なく、チェリー系のチップの香りが風で飛ばずに残っている。塩気は強いが、大丈夫。タリスカーが待っている。アストルフォは、タンブラーを口に運んだ。マスは川魚だが、磯の香りと相まって、海が思い浮かぶ。
「美味いか?」
グレイソンは、アストルフォに顔を近付けて、感想を求めると、自分はナッツを手に取り、口に放り込んだ。御馳走を譲ったのか、牧場に備えているのか。
「ああ、美味しい。ありがとう。」
後で酔っ払いの相手をさせるのは気の毒なので、アストルフォは、スカイラーの方を向いて、早目に礼を言った。笑顔で顔を横に振る彼女は、まだ、立ったままで、流石に申し訳ない。
「座るかい?」
かたちだけ尋ねると、横でグレイソンが口を開いた。
「もうすぐ、うちの奴らが二人戻ってくる。あいつらが来てからじゃ、抜けにくいから。そういうルールだ。」
まあ、そういう男達が出入りしているのだろう。アストルフォが目をやると、彼女は微笑みながら、頷いた。しかし、悪い。アストルフォは、スカイラーに、もう一度、話しかけた。
「本当に美味しい。味にムラがないし、手間がかかってるのが分かるよ。丁寧だ。どんなスモーカーを使ってる?」
スカイラーは口を開けて笑った。
「同じスモーカーを使っても無理よ。マスを釣るところからじゃないと。」
そう、アストルフォは失礼である。グレイソンが口を挟む。
「マスはな。しめ方が大事なんだ。」
そうらしい。この言われ方なら、基礎知識だろう。
「二人とも、彼女と一緒に釣りに?」
アストルフォの問いかけに、レオが笑顔で顔を横に振った。
「スカイラーはフライだから、僕には無理だ。」
レオが答えた。しかも、こっちを見て。アストルフォは嬉しくなった。
そして、グレイソンの反応は、また、違う。
「俺はな。こっちだ。」
グレイソンは、ライフルを構える仕草をして、片目を閉じた。分かり易いジェスチャー。
「ハンティング?それも凄いね。」
グレイソンは、タンブラーを空けると、タリスカーを注ぎ、また、口に運んだ。
「別に凄かぁねえんだ。また、いつか話すがな。あれは、時々、必要なんだ。」
アストルフォは笑った。自分で話しておいて、勿体ぶっている。年齢から判断する限り、定番のコースがある。楽しみはとっておけばいい。
「フライ・フィッシングにハンティング。趣味が増えそうだ。」
アストルフォの言葉に、皆が微笑んだ時、扉が開いた。
入って来たのはコケージャンの男二人。一人は年齢不詳だが、まあ中年で、後ろでマルーン・ヘアを束ねている。スカイラーと似た色だが、髪の質が違う。頭頂部も薄い。中肉中背。無精髭。フチなしの眼鏡が、かろうじて技術屋であることを伝えるが、その奥の目付きはグレイソンと似て鋭い。もう一人は幼さすら感じさせ、太り気味で、ブルネットをバズ・カットにしている。お揃いの作業着も、二人の個性を隠しきれない。
「アストルフォ、紹介しよう。」
グレイソンが手で呼ぶと、中年の男が、歩きながら、手短かにスカイラーに話しかけた。
「データは送っておきました。確認して下さい。」
「オーケー。」
笑顔で答えたスカイラーは、やっとチェアに座った。彼女は、シングル・モルトの香りが漂う事務所の中で、これから一人で仕事である。
スカイラーと話す機会は確実に消え、代わりに男二人がグレイソンの隣りに座った。離れていても、汗が香る。アストルフォの前が空くのは、多分、彼らの遠慮である。
グレイソンが、笑顔で口を開いた。
「こっちの親父が、ジャクソン・モリスで、こっちはこいつの甥っ子のノア・マルティネス。わが社の精鋭だ。」
レオが二人にタンブラーを回す。自己紹介の途中だが、二人の目はタンブラーに釘付けになった。
「宜しく。アストルフォ・ルロワだ。アストルフォでいいよ。」
アストルフォが名乗ると、男五人は、揃って、タンブラーをテーブルで鳴らした。
「じゃあ、お前らは帰るか?」
グレイソンのジョークに皆が笑う。ジャクソンのリアクションは大きく、甥の前で、しっかりとボスに媚びている。大人の仕事を教えているのだろう。
「そう、ジョークだ。今日は逃がさねえぞ。今日こそ、ベンジャミンと牧場に行く。」
ジャクソンとノアの表情が明るくなった。
「ボス。そりゃあ、先に言ってくれないと。髭も剃ってねえ。」
ジャクソンは笑いながら、顎をさすった。ノアは愛想笑いを浮かべて、頷いている。
グレイソンは、不意に取戻した鋭い眼光を、ジャクソンに向けた。
「髭を剃ったら、何が変わるんだ。」
「そりゃあ、今度、髭を剃った時に、もう一回連れてってくれりゃあ、分かりますよ。」
ジャクソンは無難に返したが、グレイソンの追究は終わらない。
「何が?」
「牧場の雌ウシが、…。」
グレイソンは、目を瞑って、顔を横に振った。
「そのジョークはやめとけ。」
また皆が笑うと、グレイソンはアストルフォを見て、少しだけ早口で説明した。
「ウシはA国語が喋れんから、見た目で選ぶと言いたいんだ。必ず言う。」
レオが小さく笑い、アストルフォも続いた。想像する限りでは、そのまま聞き続ければ、かなり酷いジョークだったろう。あるいは、言ってはいけない事実を言おうとしたのか。
それにしても、ジャクソンとノアの二人は、グレイソンに対して、かなり卑屈である。そうは言っても、彼らとの接し方を確認する必要がある。
「セオドアとは?」
そう。彼との関係に倣えば、大きな間違いはないだろう。
「ああ、ジェネラルですか?」
ジャクソンの答えは予想外だった。セオドアは、当然、ジェネラルではない。これは真似されては困る。アストルフォは笑った。
「可愛がってもらいましたよ。その前の現場でも…。」
ジャクソンの話は続いたが、ずっと敬語。口の前に手をやって話すのは、この類の男には珍しい。口臭を気にしているのか、歯並びか何か。グレイソンは厳しそうである。やはり、こうも気を遣われると申し訳ない。
早く酔ってしまおう。アストルフォは、グレイソンが酔いたがる理由が、何となく分かった。
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