空手バックパッカー VS チェンマイ・マフィア

文字数 2,782文字

湖のほとりの草原の空き地に、古いカローラのセダンが滑り込んできました。
タイではタクシーとしてよく見かける車です。

ルアンはそれを見てニヤニヤ笑っています。

停車した車から、4人の若くていかにもガラの悪そうな男たちが下りてきました。
それぞれが手にこん棒か、鉄パイプのようなものを持っています。

・・・これはかなりのピンチだな。

そのとおり、プノンペンのとき以上の大ピンチです。

彼らはつまりはここに来る前に立ち寄った、マフィアのボスの子分どもでしょう。
あの8000バーツはクルージングの代金ではなく、殺しの代金だったようです。
私はなんと自分で自分を殺す代金を支払っていたのです。

・・・僕の命の値段は8000バーツか。安い物だな。。

とても不思議なことなのですが、明らかな殺意を持つ複数の敵を目の前にして、私は妙に落ち着いていました。

過去の戦い・・ニコラのときも、ベビスのときも、プノンペンのショットガン強盗のときも。
臆病な私はたいへんビビっていました。

しかしそれらの戦いの最中にも、いつも戦況を俯瞰し分析し、作戦を考えていたもうひとりの冷めた私が居ました。

どうやら彼が今や私の主人格になったようです。

男たちのひとりがルアンに言います。

「こいつか?」

ルアンは答えます。

「こいつです。お願いします」

「そうか。女絡みのトラブルは怖いな。ははは・・」

・・・笑いながら人を殺せるクズどもか。

冷めた私はいつも、わずか数秒の間にも多くのことを考えます。

・・・こん棒持ったチンピラ・マフィアが4人。ルアンを入れたら5人か。

これはアクション映画ではありません。
殺意と武器を持った4人、あるいは5人の敵を、かっこよくパッパッと倒すなんて現実ではありえないことなのです。
にもかかわらず、私は妙な余裕を持って作戦を考えていました。

・・・ニコラは黒帯3人を瞬殺してた。ベビスは5人相手に戦えると言ってたぞ。彼らならこの状況でどう戦うのだろうな。

・・・笑いながら人殺しするようなクズは、どうせサディストに決まっている。それなら、いきなり即死させるような攻撃はしてこないだろう。まずは口で脅してから無抵抗の相手を存分に痛めつけて、泣きわめき命乞いする被害者の手足をあのこん棒でへし折ってから、後ろの湖に投げ入れるつもりだろうな。

衆を頼んだチンピラどもはヘラヘラ笑いながら、ゆっくりと近づいてきます。

私はカッサバ先生の教えのひとつを思い出します。自分のペースに相手を巻き込め。

「おいお前!覚悟しろよ。俺たちはな・・・」

・・・お前の演説を最後まで聞く気はない。試合開始の合図はこっちがかける!

私は素早く動きました。

ステップインして、脅し文句を言いながらいちばん近くまで迫っていた男のこん棒を左手の手刀で払い、同時に手首を曲げて引っ掛けます。
それに右手を添えて抑える。男の肘関節が見事に逆に極まっています。
さらに両手を自分の左わきに引き付けながら、男の膝関節を右足刀で踏み込みます。
解説すると長いですが、わずか1秒から2秒くらいの出来事。

「ぐわっ!」
という叫び声をあげて、男は横向けに倒れました。
私の左手には、男が持っていたこん棒が残っています。

破壊王ベビス直伝のバッサイ大の手です。

私が意識して使った空手技が決まったのは、実に初めてのことでした。
まずはひとり。奴はしばらく立ち上がれないでしょう。

最初の男が横向けに倒れたため、他の男たちの邪魔になり、彼らはすぐに反撃を仕掛けることはできませんでした。チンピラどもは無抵抗の相手を一方的にいたぶるつもりでしたので、思わぬ先制攻撃はかなり効果的だったのです。

・・・よーし、こちらのペースに巻き込んだぞ。次は自分の土俵に乗せろだ。

私は間髪を入れず、奪ったこん棒で男たちの脚を薙ぎ払うように振り回し、ほんの一瞬ひるんだ隙に全力で桟橋に走りこみます。

複数相手の実戦では、敵がアクション映画のように順番にかかってくるわけではありません。
背後を取られると圧倒的に不利になるため、狭い桟橋に入ったのです。
背後に湖を背負いましたので、私は前方だけに注意していればよいのです。

チンピラの残り3人は態勢を立て直して、こん棒を構えてこちらに突進してきます。
私は素早くカーゴパンツのポケットに右手を突っ込みました。

「フリーズ!!」

私は叫びました。

左手にこん棒、右手にナイトバザールの軍用品店で購入したペーパーナイフを逆さに持ち、大きく掲げています。
つまりこれは投げナイフの構えです。
もっとも生まれてこのかた、投げナイフなど一度もやったことないのですが。。

「下がれ!僕は投げナイフの名手だぞ。最初にかかってきた奴の心臓を射抜いてやる」

このハッタリはかなり有効だったようで、とりあえずチンピラたちは突進の脚を停めました。

・・・さて、最後は勝敗の判定は自分で決めろ・・か。
これがちょっと大変だが、背に腹は代えられないか。

このまま睨み合って突っ立っていてもジリ貧です。
かといって、最早敵は油断していませんから、1対3ないし4の戦闘に勝てるわけもない。
となると残る手はひとつです。

私は投げナイフの構えで相手を威嚇しながら、足だけでゆっくりとゴム草履を脱ぎます。
裸足になると同時に・・

「空手バックパッカーを舐めるなよ!!」

と、日本語で叫びながらナイフを投げました。

もちろん私は投げナイフの経験などないし、そもそもがペーパーナイフですから刺さるはずもありません。
それでもナイフを投げつけられたという恐怖に、チンピラどもは一瞬身をすくめました。
ナイフはどこか明後日の方向に飛んでいきました。

・・・今だ!

私はさきほど脱いだゴム草履を素早く手に履き、背後の湖に飛び込みました。
そして、クロールで泳ぎます。
私は小学生のころにスイミングクラブに通っていました。
自由形で市の大会で優勝したこともあります。
水泳は空手なんかよりもよほど、得意なスポーツなのです。

そうはいうものの、服を着たまま泳ぐのはかなりキツイです。
しかし命がけの水泳ですので、これは頑張るしかない。

50mほど泳いだあたりで、後ろを確認します。
桟橋にはチンピラどもがわめきながらこちらを見ていますが、さすがに後を追って飛び込んでくる奴は居ないようでした。
そのまま必死で泳ぎます。

私はそれから、おそらくは1時間くらい泳いだと思います。
いや実際にはもっと短かったかもしれませんが、そう感じるくらい長く泳ぎました。
時折、水面にあおむけになって浮かび休憩を取り、また泳ぎます。

どこだか分からない水辺にたどり着いた時には、疲労でぐったりしていました。
びしょ濡れのまま小一時間は動けませんでした。
しかし、あの連中が車で先回りしているかもしれないので油断はできません。
しばらくは林の中に隠れて様子を伺うことにしました。

・・・まあしかし、また勝ったな。僕は強いなあ。
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