第4話 残り少ない工場の日々

文字数 6,299文字

有給休暇の残りを事務所に行って宮原さんに聞いた。
宮原さんは自分の事務机の所で雑誌を読んでいた。
「すみません、私の有給休暇ってあと何日あるんですか」
「ちょっと、待って下さい。今お昼休みなんですけど」
いやに宮原さんの態度が冷たい。
「じゃあ、あとで教えて下さい」
「はい、あとで調べておきます」
「伊藤主任が、宮原さんに聞いてこいって言われたんですけど」

宮原さんの態度が急に変わった。人は相手の肩書よって対応が違う。
「今まで、何回取ったんですか」
「去年の9月頃1回取ったんですけど」
「それじゃあ、あと4日あります」
「そうなんですか、あと4日もあるんですか」
「有休使うんなら有給休暇届け出して下さい」
「特に休みたいって言うんじゃないですけど」
「4日も休んだら、あと何日も会社に来る日がないじゃない」
「宮原さんは、俺がずっと来ていたほうがいいですか?」
「好きにしたら!あのさ、まだ新しい住所教えてくれないの」
「ああ、忘れていた。ごめん、ごめん」
「どうして、そういうふうにいい加減なの」
「別に、いい加減じゃないよ。忘れていただけだよ」
「それがいい加減でしょ!」
「すいません、あとで書いてきます」

何でまだ彼女でもないのになんでこんなにきつい事いわれるんだろう。
少しは優しい言葉をかけようかなと思っていたのに。
宮原さんとは性格的に合わないのかもしれない。

「ねえ、東京のどのへんなの」
「墨田区両国2丁目××-××ですけど」
「その会社、電話番号あるんでしょ、何番なの」
「ええ、03-663-××××です」
「ほら、みんな知ってるんじゃない」
「ええ、何回か行って来ましたから」
「じゃあ、何で早く教えてくれなかったの」
「ただ、忘れていただけです」
「本当にわからない人ね、それと、どこへ住むの?」
「その会社の4階にある独身寮です」
「何人くらいの会社なの?」
「まだよくわからないけど、20~30人の営業所みたい」
「若い女の人もいるの?」
「うん、事務の人が5~6人いたかなあ」
「じゃあ、早川君は東京の人になっちゃうんだね」
「東京の人かあ~、いいなあ」
「ねえ~、早川く~ん」
「なに、気持ち悪いな、猫なで声なんか出しちゃって」
「同期で同じ職場なんだから、少しは優しい言葉をかけてもいいんじゃない?」
「だって宮原さんはいつも俺の事を怒ってばかりいるじゃないか」
「もう、いいよ、馬鹿たかしぃ!」
宮原さんは優しさと冷たさが混ざっている。宮原さんが寂しそうな顔になっていた。

東京の人か。響きのいい言葉だった。家を出てまだ1年しか経っていない。
群馬の山猿が千葉の狸に昇格し、今度は東京の人になるのか。異例の出世だ。

3月16日から4日間の有給休暇を取る事にした。
休憩室に帰って伊藤主任に有休の事を話した。
伊藤主任は私が宮原さんの事を好きだと思っているようだ。
「伊藤主任、宮原さんがあと4日間あるって言っていました」
「そうか、宮原さんは他には何か言ってなかったか?」
「はい。新しい所の住所や電話番号聞かれました」
「何だそれだけか。期待外れだったんじゃないか?有休はいつから取るんだ」
「伊藤主任の手伝いはどうするんですか?」
「うん、お前の仕事は岸野がやってくれるよ」
「ああそうですか、じゃあ、ありがたく休ませて頂きます」
「いいよ、あとで有給休暇届けを出しておけよ」
「はい、じゃあ、3月16日から4日間の有休取っていいですか」
「いいよ、田舎でも行ってゆっくり両親と会って来いよ」
「はい、ありがとうございます」

昼休みが終わりロッカーにヘルメットを取りに行った。
後ろから岸野さんが小声で話しかけてきた。
「お前あまりいい気になるなよな、みんな喜んでいるわけじゃないんだぞ」
「すみません、岸野さんにもお世話になりっぱなしで」
「お前の仕事がみんなこっちへ回ってくるんだぞ」
「すいません、ご迷惑をかけまして」
「それとお前、俺がお前を軽く蹴った事を伊藤主任に話したろう?」
「あ、すみません。でも岸野さんの名前までは出さなかったんですけど」
「分かるに決まっているよ、あのあと主任からだいぶきつく言われたんだぞ」
「すみませんでした」
「早川が辞めるから、あとはお前がやってくれだってよ」
「そうなんですか、すいません」
「同じ給料で、こっちは仕事だけ増えるんだぞ」
「4月から誰かまた代りの人が入るんじゃないかと思いますけど」
「勝手なこと言うんじゃないよ」
「すみません・・・」
「新入社員でチヤホヤされてそれでたった1年でさようならか、いいご身分だな」
「すみません」
「俺はなあ、お前のいつもニヤニヤしている所が気に入らなかったんだよ」
「すみません、気をつけます」
「仕事だって部品にシール付けたり、並べ替えたり余計な事ばっかりして」
「すみません、勝手な事をしました」
「シールを剥すのが面倒なんだよ!あとのこと考えろよ」
「すみませんでした」
「もういいよ、お前がいなくなってせいせいするよ」

喜んでくれるばかりではなかった。同じ事でもそれを快く思っていない人もいる。
人の心のもう一面を岸野さんから教えてもらった。誰もが持っている二つの心。
自分の周りには両方の立場の人がいる。接する態度によっては対応が反対になる。
気をつけなければならないと思った。
岸野さんともっと話しをして親しくなっていたらまた違ったかもしれない。
見た目が恐そうだったので無意識に岸野さんを避けていた。
自分ではそのつもりはなかったが、岸野さんにはあまり声をかけていなかった。
岸野さんは有頂天気味だった気持ちを冷静にしてくれた。

寮に帰って岸野さんの言葉を思い出してみた。
私が有給休暇を取って遊んでいる間にも工場では仕事が進んでいく。
そこでは普段通りに汗水垂らして働いている人がいる。
そのおかげで自分が休暇を取れる。休暇を取れることは岸野さんのおかげでもある。
人は見えない所でもお世話になっている。気がつかない人にもお世話になっている。
見えない所は気がつかなかった。言われなければ気が付かなかった。

複雑な気持ちになってきた。憂鬱な気持ちになってしまった。
日曜と祭日を合わせると6日間の連休になる。

嬉しいような、寂しいような、申し訳ないような気持ちだった。

伊藤さんの情けで4日間の有給休暇をいただいた。
日曜日や祝日を入れて6日間の休暇となる。太田の実家に6日間はいられない。
実家では日曜日以外は遊んでいられない。みんな生活のために働いている。
病気でもないのに休んでいるわけにはいかない。
普段の日に6日間の休みをとっても、何をするか思いつかなかった。
休みは取ったのに行く場所がない。何していいかわからない。
考えてみれば連休中に泊る所もない。貧乏人は暇の使い方がわからない。
家には行きたくない。工場にはいけない。寮の部屋に隠れているのはなおおかしい。
せっかく休暇を取ったのに、会社から放り出されたような感覚になった。

いっそのこと知らない所へでも行ってみたくなってきた。
家からも工場からも寮からも遠く離れた所へ、一人旅をしようと思いついた。
それくらいは許されるような気がした。
小心者で気の弱い私は一人になるといつも感傷的になってしまう。
世の中で自分だけが一番さみしい思いをしていると考えてしまう。
どっかでこの思いを吹き飛ばすようなことをしてみたくなった。
この休暇を新しい人生の門出にしたかった。
折りたたみバックの中に大学ノートと詩集と下着を詰め込んだ。
ゆっくりとした気持ちでこれからの人生計画を立てようと思った。

日程を大学ノートに書込んだ。
3月16日(木) 一人旅1日目(場所未定)
3月17日(金) 一人旅2日目(場所未定)
3月18日(土) 太田実家 加藤、渡辺
3月19日(日) 太田実家 竜舞のおじさん
3月20日(月) 自由行動(場所未定)
3月21日(火) 春分の日 寮に帰る
たいした計画にはならなかった。
分刻みの学習計画と比べると、計画といえたものではない。単なる思い付きだった。

お世話になった人へお土産を買ってこようと、頭に浮かぶ人を書き出してみた。
伊藤主任、清水、市原、しばらく考えて岸野さんを追加した。
職場に何か詰め合わせ1箱。コーラス部に何か詰め合わせを1箱。
バスの運転手さんにも何か買ってこようと思った。
太田の実家、加藤、渡辺、天田のおじさん。両国の宮田さん、安田課長さん。
これからお世話になる両国の食堂のおばちゃん。
この1年でお世話になった人の数が20人を超えていた。
この人たちがいなければ、大学には合格していなかった。
どんなに自分だけでやろうと思っても、必ず誰かのお世話になっている。
食堂の賄いのおばさん3人にもお土産を買ってこようとノートに追加した。
財布の中に今までためたお金をすべて詰め込んだ。
入学金、家への仕送り金、生活費で25万円以上はある。
これから部屋を6日間も空ける。お金が増えると余計な心配が出てくる。
鍵のない部屋に置くより自分で持っていたほうが安全な気がした。

2月17日の入学試験以来これといった勉強をしていない。
合格後の1ヶ月は勉強らしい事を一つもしていない事に気がついた。
1ヶ月間を惰性で過ごしてしまった。何の成果もない1ヶ月だった。
このままでは人間が堕落してしまう。早めに次の目標を具体化しなければならない。
この6日間の休暇を区切りに新しい人生を計画立てようと考えた。

どこかに行くといってもどこにも行くあてがなかった。
先輩が山口県の生まれが多かったのでいつも山口県の事を聞かされていた。
ふと山口県に行ってみたくなった。ぶらり旅だからそれでもいいかと思った。
途中でまた気が変わったらそっちへ行けばいい。

♪♪知らない町を 歩いてみたい
♪♪どこか遠くへ 行きたい
♪♪知らない海を 眺めていたい
♪♪どこか遠くへ行きたい
♪♪遠い街 遠い海
♪♪夢はるか 一人旅
♪♪愛する人と めぐり逢いたい
♪♪どこか遠くへ 行きたい

♪♪愛し合い 信じ合い
♪♪いつの日か 幸せを
♪♪愛する人と めぐり逢いたい
♪♪どこか遠くへ 行きたい
・・・・・・・ジェリー藤尾 遠くへ行きたい

合格して喜んだのは1週間くらいだった。
自分には勉強とは違う大事なものが身についていない。
自分の生き方への反省が多くなってきている。
大学には合格したが心は貧しいままだった。

昭和42年3月16日(木)
空は晴れていた。朝8時頃工場行きのバスが出て行ったのが窓から見えた。
いつも乗るバスに乗らなかった。私にはもう永遠に乗ることのないバスだった。
あの運転手さんはまだ延々と続く仕事なのだ。
あのバスは私の歯車のかみ合いから離れていった。何か気の抜けた思いがした。

寮を12時に出発した。
田舎では私の行動範囲は周囲ほんの5km位だった。
千葉の工場へ入ってからも毎日が工場と寮との往復だけだった。
時々慰安旅行や合宿はあったがそれは自分の意思ではなかった。
今回の一人旅は山口県へ行こうと決めた。決めたのはそれだけだった。
気の小さい私にとっては外国への冒険の旅のような気持ちだった。

東京駅には午後1時ごろに着いた。駅の構内のポスターに秋芳洞の案内があった。
最初はそこに行って見ようと思いついた。
鉄道地図を見て、宇部の小郡という所までの特急寝台車の切符を買った。
新幹線が大阪まで開通していたが、高嶺の花のような気がして手が出なかった。
こんな所にも生活のステージがあった。
この日から大学ノートに日記を書き始めた。それが今でも続いている。
1日最低2ページを自分に課した。心に思った事をすべて記録しておこうと思った。
何を見ても、何を聞いても、その日の事を書いておこうと思った。
政治、宗教、教育、社会の出来事についても自分の意見を持つようにしたかった。

荒木田先生に頂いた万年筆はさらさらと書けた。
文章をかっこよく飾ろうとも思わなかった。
体裁よくきれいに書こうとも思わなかった。
心に思った事や自分の考え方を思いつくままに書いておこうと思った。
それが文学を志す者の訓練になるような気がした。

受験勉強は終わった。
それは大学に入学するためには必要なことだった。
これからは何のために生きていくのかを考えたかった。
この気の弱い性格はおそらく貧しさからきていると思った。
お金がなくても堂々と生きている人もいる。
そんな性格を真似したい気持ちになった。

「寝台特急あさかぜ号」は東京と下関の間を結ぶ夜行列車だった。
午後3時半に出発して、翌朝の8時半が到着予定になっていた。
横浜、静岡、名古屋、岡山、広島、岩国と進み小郡に着く。
駅のホームで弁当を買った。ビールとお酒も買った。
自分の意思でビールやお酒を買ったのは初めてだった。
大人の真似をしてみたかった。

駅の構内に観光案内のチラシが置いてあった。
沿線の観光案内の何枚かをポケットに入れた。
★尾道で降りれば尾道観光に本四架橋で因島、大三島などの観光が出来ます。
★広島から原爆ドームや平和記念資料館などの観光に!
★宮島口で降りて宮島航路を利用すれば厳島神社などへの観光もできます。
★岩国で降りてバスに乗ると錦帯橋へいけます。
★新山口からバスで秋芳洞、萩などの観光に便利です。

寝台特急「あさかぜ」は午後3時半に出発する。


3時には電車に乗り込んだ。普段の日のせいか乗りこむ人の数は少なかった。
空いている4人のボックス席の窓側に座って出発を待った。
今までお守り代わりにしていた「日本文学概論」をバックの中から取り出した。

電車の中で、油で薄汚れた作業服姿の岸野さんの事が頭に浮かんだ。
この時間は伊藤主任と仕事をしている時間だった。
まだ自分の心の中には平日に遊ぶという事の罪悪感がある。
弁当を食べるのはいいが、昼間から酒やビールを飲む事への抵抗があった。

出発の直前になると、けたたましいほど大きい音でベルが鳴り出した。
新しい人生の出発を告げるような気がして面白かった。
車窓から見る景色はすべてが珍しかった。
横浜、熱海、静岡と外の景色ばかり眺めていた。
横浜あたりからだんだん人が乗り込んできた。
自分の席の隣も前も静岡で乗り込んできた人で4人となった。
それぞれ別の人生を持った人が目の前にいる。
それぞれ一人ひとりの別の世界だった。
他人と自分との間には、入り込んではいけない見えない壁がある。
その壁が一人旅を居心地良くさせている。

弁当を食べ、生ぬるくなった缶ビールを飲んだ。
静岡では窓の外に富士山が見えた。テレビでは見たが実際に見たのは初めてだった。
夕焼けの薄明かりの中で見た富士山は大きかった。山頂には白い雪が被っていた。


午後7時頃になると車掌が座席を2段ベッドに直していった。
それぞれのベッドはカーテンが閉まるようになっていた。
2段ベッドの2階に上って横になった。
カーテン一つでも孤独な世界ができる。孤独はなぜか安心する。

電車の音が快い。
ゴトゴトン、ゴトゴトン、ゴトゴトン自分を遠くへ遠くへと運んでくれる音だった。
これから先の事をゆっくり考えようと出て来た一人旅だった。
大学へ合格したあとは何も思いつかない。頭に思い浮かぶのは女の顔ばかりだった。
小中可南子、村岡良子、宮原澄子の姿が浮かんできては消えていく。
一人で旅出るなんて昨日までは考えていなかった。
これから先はすべてが初めての体験になる。
どんなことがおきても自分で解決しなければならない。
この1年で少しは臆病な精神が少しは改善されたのかもしれない。
財布の中には入学金などを含めて25万円以上入っている。
お金があるだけで気持ちに余裕ができる。豊かさとはこういうことなのか。

いや、そんなことで豊かさが手に入るはずがない。

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