第3話 絶望!お金が足りない

文字数 5,872文字

昭和43年3月7日
退職の日まで残すところ2週間になった。
工場から寮へ帰ってくると大学から1通の郵便が届いていた。
合格通知書と一緒に入っていたのは入学金と前期の学費の請求書だった。
学費は1ヶ月1万円とわかっていたが、一括納入だとは気がつかなかった。
大学入学案内の注意書きを見落としていたのだ。
3月31日までに振り込まないと合格は無効になるという注意書きがあった。
入学金25万と前期授業料6万円で31万円揃えなければならない。
4月7日の入学式の案内も同封されていた。


手元には現金が24万しかない。
3月の給料が2万円入っても、生活費を除くと5万円足りない。
・・・・・・・・・・・・当時の5万円は現在の約20万円。
自分にお金の手当てができるあてがない。
田舎の家にはお金が無い事はわかっている。
家にはまだ合格の事は連絡もしていない。
行商でいくらにもならない日銭を稼いでいる父ちゃんには相談できない。
内職で生活をつないでいる母ちゃんに言えば悲しませるだけだ。
貧乏人はお金のことになると弱い。どうしていいか考えつかない。

去年家を出るときに父ちゃんに言われた事を思い出した。
その時は自分には関係ないと思って聞き流していたものだった。
「いいか、たかし、どんな事があっても人から借金だけはするなよ」
今、その言葉が頭から離れなくなっている。
5万円で未来が変わってしまう。合格はしたもののお金が足りなくて入れない。
開いたと思った扉がまた閉まろうとしている。
目の前が真っ暗になってしまった。

清水や市原の新入社員が5万円も貸してくれるはずがない。
田舎の友達と言えば加藤しかいない。
加藤も弟の大学入学でお金には余裕はないはずだ。
篠原さんや利重さんの先輩もいるが、お金を借りられるような間柄ではない。
伊藤主任に相談する手もあるが、辞めていく人間に大金を貸す筈がない。
大学に行きますとかっこいい事を言ったあとで金を貸して下さいとは言えない。
これからお世話になる安田さんや宮田さんに言うのはもっと恥ずかしい。
入学はあきらめるしかないのか。
どう考えても自分には5万円の手当てはできない。
目の前の24万と大学からの請求書をずっと見比べていた。

31万円か。足りない・・・・・・。
力尽きて体から魂が抜けたようになってしまった。
夕食は食べる気がしなかった。
お風呂にも入りたくなかった。
作業服を着替えるのもだるかった。
畳の上に寝転んで何時間も呆然と過ごした。
部屋を出て人と顔を合わすのが嫌だった。
あきらめの境地に入った。
人生って思い通りにならないものだとつくづく思った。

退職願は出してしまった。もうこの工場には居られない。
またお願いしますではあまりにもかっこ悪すぎる。
そんなことが許されるはずもない。手の打ちようがない。

両国の会社へはお情けで入れてもらった。
大学に行くはずの時間は何をして過ごせばいいんだ。
気持ちが弱気になってきた。
望みが叶ったあとで、どんでん返しを食らったようだった。
林の中へ行って、あの小さな沼の底へでも飛び込みたい気持ちだった。
思考が前に進まない。頭の中で悩みがグルグル廻っているだけだった。
自分にはお金の工面をする力がない。工場から帰ってきてもう3時間近くになる。


夜の9時ごろだった。部屋のドアをたたく音がした。
入ってきたのは高校の1年先輩の野村さんだった。
顔を合わすと簡単な挨拶をする程度の人だった。
「早川いるか、開けるぞ」
「はい、どうぞ・・・」
「おい。食堂のおばちゃんが心配しているぞ、食事はどうするんだって」
「はい、あとで食べに行きます」
「早川、大学に合格したんだって?清水に聞いたけど」
「ええ、そうなんですが・・・・」
「どうしたんだ、元気ないな。体でも具合が悪いんか?」
「いいえ、大丈夫です」
「調子が悪いんだったら、言えよ」
「体の調子は大丈夫なんですが・・・」
「何かあったんか・・・・」

普通にしようと思っても悲しい顔は隠せない。目から涙が出てきてしまった。
野村さんに借金をお願いするほど親しくはなかった。
言ったとしても恥をかくだけだと思った。
泣いている自分を見て、野村さんはそのまま帰れなくなってしまったようだ。
野村さんは部屋の中に入ってきて座り込んだ。

「どうしたんだ。何でもいいから話してみろよ」
野村さんにいきさつを話した。野村さんはしばらく黙って聞いていた。
「他の悩みなら相談にのってあげられるけど、お金の事はな~」
「すみません、先輩にまでつまんない事言っちゃって」
「5万円か?きついな~」
「ええ、もうあきらめようかと思っているんです」
「それにしても、24万円もよく貯めたな」
「はい、生活費をひと月2千円以内と決めていました」
「よ~くそれで生活できたな、頑張ったんだな~」
「実家にいるときよりはずっと楽だったです」
「そうか、家はそんなに生活が厳しかったんか?」
「ええ、でも考えてみれば、まだ来年もありますから」
「ちょっと待てよ、そんなに結論を急がなくてもいいんじゃないか」
「3月31日までなんで、もう少し考えてみます」

野村さんが深刻な顔で考えている。
「俺も先生に言われてたんだよな」
「先生って?」
「お正月に高校の同窓会があったんだよ。高橋先生が担任なんだよ」
「自分も高橋先生でした」
「うん、お前と清水のことも聞いたよ」
「そうなんですか」
「田舎から出て行って寂しいだろうから、先輩として面倒見てやれって」
「でも勤務が変則ですから、なかなか一緒になる事がないですよね」
「いや、その気になればいつでも来られたんだけどな」
「すいません、つまんない心配かけちゃって」
「それにしても5万か厳しいな」
「もう気にしないで下さい。話を聞いてもらっただけで少しは落ち着きました」
「まだ冬のボーナスが使ってないから、あるにはあるけど返すあてはあるのか」

わ~。またどんでん返し。お金の手当がつきそうになってきた。
間違いなく神はいる。何か見えない力が私についている。
規則正しく食事をしていたことが幸いした。
私が食事に来ないので、賄いの伊藤さんが心配してくれたのだった。
食事に来た高校の先輩の野村さんに127号室の様子を見るように頼んだのだ。

このチャンスを逃がすまいと言葉を慎重に選んだ。
「アルバイト先が決まっていますので、月に2万円くらいになると思います」
「なんていう会社なんだ?」
「株式会社アマリリスという会社です。両国に販売会社があるんです」
「あれ、その会社、太田に工場があるじゃないか?」
「知っているんですか?太田の工場は大谷樹脂工業っていうんですけど」
「それ、飯田にあるんじゃねえか?それ高校時代の俺のアルバイト先だよ」
「太田市飯田という所にある成型工場です」
「あの工場は夜遅くまでやってたから、3年間そこでアルバイトしてたんだよ」
「野村さんもアルバイトをしていたんですか、けっこう忙しい会社みたいです」
「じゃあそこに、天田さんていう人がいるの知ってるか」
「ええ?もしかしたら、それ私のおじさんですけど」
「嘘だろ~~、俺天田さんに世話になっていたんだよ」
「竜舞に住んでいる、天田一郎といいますが」
「知っているよ、奥さんはハマさんて言うんだろ」
「はい、そうです」
「俺、天田さんに可愛がられて、時々家に遊びに行ったんだよ」

また運命の糸がつながった。信じられないようなつながりだった。
野村さんと急に親しくなったような気がした。
共通の話題があると共通の意識が生まれてくる。
お金を貸してもらえるような気がしてきた。

「へえ~、正月にも遊びに言ったんだよ」
「いつですか、私も2日の日には行きましたけど」
「2日の夕方だよ、なにおまえもそこにいたんだ?」
「自分は1時ごろ帰りました」
「へ~、天田さんの甥っ子か?」
「今度会ったら話してみます」
「よろしく言ってくれよ、また遊びに行きますって」
「3月末にはお礼に行こうと思っています」
「そうかい、親戚だったんだ」
「あの~、さっきの話なんですが、何とかなりそうですか?」
「なんだよ、お前来年にするって言ってたじゃないか」
「エヘヘ、本当は今年行きたいんです」
「お前もちゃっかりしているな~、ちょっと甘い顔をするとこれだよ」
「先輩!何とかして下さいよ」
「5万円か?考えちゃうな」
「だって、さっきボーナスがまだ使ってないって言ったじゃないですか」
「お前、泣きっ面で聞いていて、そんなことは覚えているんだな」
「自分だって、少しは世渡り上手になってきましたから」
「間違いなく返すんだろうな」
「授業料を毎月払おうと思っていましたから、8月までには絶対返せます」
「普通はさ、誰もこんな大金は貸さないど!」
「はい、いい先輩に出会えて幸せです」
「本当に、お前は調子いいな」
「野村さんボーナスっていくら出たんですか?」
「5万円とちょっとだよ」
「あああ、ちょうどぴったりですね」
「調子がいいなお前って、馬鹿なのか利口なのかわかんねえな」
「あ、それよく人から言われます」
「ここへきて損したよ。伊藤さんが見てきてくれって言ったから来ただけなんだよ」
「いいじゃないですか、かわいい後輩なんですから」
「俺だって、俺なりの計画があるんだよ」
「それ、何に使おうと思っていたんですか」
「車を買おうと思って貯めているんだよ」
「じゃあ、すぐに必要ってわけじゃないんですね」
「あのなあ、人の懐あてにすんなよな」

面白いほど急に親しくなってきた。
何とか借りたいという気持ちで、野村さんの気持ちを和ませた。
「あの~、少し利子をつけますよ」
「お前なあ、俺は金融業者じゃないんだよ」
「でも、あったほうがいいでしょう」
「それはいいけどさ、お前とはまだ今日話をしたばっかりだよ」
「いいじゃないですか、りっぱな先輩なんだから」
「絶対に返せよ、絶対にな。俺だって心配だよ」
「間違いないですよ、8月には利子を付けてここの寮へ持って来ますよ」
「じゃあ、いくら利子をつけるんだよ」
「やっぱり欲しいんじゃないですか、5千円でいいですか?」
「さっきの深刻な表情が嘘みてえだな、あれじゃ誰だって帰れなくなっちゃうよ」
「けっこう芝居がうまいでしょ?」
「あれは芝居だったのか? もう死んでもいいみたいな顔をしていたぞ」
「エヘヘ、想像にお任せします」
「憎たらしいな、幼い顔をしているくせに、何を考えているかわかんないよ」
「先輩、それよりいつまでにお金の準備できますか」
「本当にがらりと変わっちゃうんだな、じゃあ今度の日曜日にでも取りに来いよ」

叔父さんの優しいお世話はこんな所までも根を伸ばしてくれていた。
人のつながりはどこでどう絡んでいるかわからない。
人は共通の人を通じて親しくなっていく。

気が小さくてお調子者がまた一つの壁を乗り越えた。
運命は私を上げたり下げたりして振り回している。

退職願いを提出後、工場の仕事は何事もなく過ぎていった。
市原も大学入学を喜んでくれた。
「やっぱりお前、ただの馬鹿じゃなかったんだな」
「いや~、大学よりも市原みたいに彼女がいるほうがいいよ」
「今はいないよ、この間別れちゃったよ」
「どうしたん?ふられたん?」
「そうなんだよ、別の男ができちゃったみたいなんだよ」
「いいじゃん、また新しいのを作れば」
「ふざけんなよ、俺のほうは真剣だったんだよ」
「市原は世渡りがうまいからすぐにできるんじゃねん」
「お前、他人事だと思って簡単に言うなよな、俺にとってはショックだったよ」
「原因は何だったん?」
「どうも相手が大学生みたいなんだよ」
「そうか、まさか学歴って言う事じゃないんだろうな」
「それもあるかもな、俺も大学でも行こうかな」
「そうだよ、まだ若いんだから、その気になれば何とかなるよ」
「ふざけんなよ、ガキみたいなお前に言われたくないよ」
「まあ、気を落とさずに頑張って仕事をしなよ」
「なんか立場が逆転しちゃったな、あまりいい気になるなよな」
「そうだな、気を付けるよ。ふざけて悪かったな」
「お前って、そういう所が憎めないな」
「もう何日もないけど、市原も元気で頑張れよ」
「何で俺がお前に慰められなけりゃならないんだよ」
「5月の葉山の合宿に参加するから、その時また一緒に飲もうよ」
「ああ、そうだな、またウィスキーでも飲むか」

誰だって工業高校よりも工業大学のほうがいい。
行きたくても、みんなそれぞれ他人からは見えない事情がある。
自分ができたからって他の人が同じようにできるかどうかわからない。
もっと複雑な事情を持っているかもしれない。
人の話を聞く時はそこまで考えて聞かなければならなかった。
自分の事ばかり考えているこの気持ちが恥ずかしくなってきた。

貧しさからなのか、もって生まれた性格なのか私は自己中心的な気持ちが強い。
このへんから直さなければならないと思った。
国語や数学を勉強してもこの性格が直るわけがない。
人生そのものの見直しをしなければならないと思った。
こんな思いも大学に入学できたから考えられる事だった。
あまり有頂天にならないようにしなければならない。

人の優しさはどこから生まれてくるのだろう。
天田のおじさんだって伊藤主任だって中学校しか出ていない。
学歴やお金ではないものが何かが必ずある。その何かを見つけたくなってきていた。

昼休み。愛妻弁当を食べ終わった伊藤主任が話しかけてきた。
「早川、有給休暇がまだ残ってるんじゃねえか」
「去年1日休みを貰って田舎へ帰らせていただきましたけど」
「たしか新入社員でも5日間はあるはずだけどな」
「でもいいです、何もやることがないですから」
「一度、事務所に行って宮原さんにでも聞いて来いよ」
「はい、聞いてきます」
「もったいないから、3月25日までには取っておけよ」
「そうですか、休んでいいんですか。その分給料は少なくならないんですか」
「お前馬鹿か、だから有給休暇って言うんだよ」
「有給のキュウって給料の事なんですか?私は遊ぶ為の遊休だと思っていました」
「何だそれ、本気で言っているのか?」
「ええ、だから病気でもない時にずる休みして遊んでいていいんだなって」
「よ~くそれで大学に入れたな、つまんない事言っていないで早く聞いて来い」
「はい、今行って来ます」
「それとなあ、3月25日に送別会をするから体を空けておけよ」
「あれ、その日は夕方6時に東京から友達が迎えに来るんですけど」
「もう土曜日に決めちゃったんだよ。そっちは日曜日にでもしてもらえないか」
「大丈夫だと思います。たいした用事じゃないですから」

伊藤主任はどこまでも優しい。
辞めていくこんなちっぽけな私に最後まで優しくしてくれる。
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