第11話 奇跡がここで起きる

文字数 6,367文字

毎回1レース毎に千円を捨てるように使う。
父ちゃんに怒られても1万円の損は覚悟している。
1万円は母ちゃんの内職の2~3か月分だ。
私の質素な生活なら3か月生活できる。
そんな大事なお金の価値を知ってもらいたい。
父ちゃんにもうやめろよと言ってもらいたい。
子供の前で競艇は面白いだろうだなんて言えるはずがない。

場内アナウンスが1レースの開始を伝えていた。
当たらないとは思いながらも気分が高ぶってきた。
父ちゃんと二人で観客席の一番前のほうに進んだ。
何かこの風景に記憶があった。
水の上を6艘のモーターボートが軽快なエンジン音を立てながら練習していた。

「父ちゃん、なんかこの場所見たことがあるような気がするんだけど」
「うん、たかしが5歳の頃一度連れてきたことがあるよ」
「俺と父ちゃんだけで?」
「うん、あの頃たかしは毎日寝小便をしていたんだぞ」
「うん、・・・・」
「毎日のようにかあちゃんに怒られていたんだよ」
「うん、あの時のかあちゃん恐かったな」
「パンツ脱がされて、ケツひっぱたかれて、大声出して泣いていたんだよ」
「ああ、なんか思い出してきた」
「兄弟の中でおめえだけだったな、毎日寝小便をしていたのは」
「あれは、夢の中で便所が出てきて、そこに向かって小便しちゃんだよね」
「かあちゃんにパンツ脱がされて、外に追い出されたていたな」
「うん、恥ずかしかった。かあちゃんキチガイみたいに怒ってたんだよ」
「あのあとな、かあちゃんがどっかへ連れてってやれって、とうちゃんにお金くれたんだよ」
「ああそうだ、とうちゃんがバスに乗って船を見に行こうって言ってたんだよね」
「とうちゃんだって、他に行く所なんかありゃしねえから、ここに来たんだよ」
「ここだったんだ。おれ海って小さいな、船ってこんなに小さいのかって思ったよ」

父ちゃんは私が本を夢中になって読みだした頃から私と話をしなくなった。
二人だけで話をするのは久しぶりだった。
父ちゃんは自分のもとから、少しずつ私が離れていくのを感じていたに違いない。
二人だけで話すと、小さい頃の私への優しさを思い出しているようだった。
子供が自分の手が届かない所へ離れていくのを気が付き始めていたのだ。
これといった助言ができないもどかしさを、親の威厳だけで取り繕うとしていたんだと思う。

「おお、スタートするぞ。たかしの買ったのは内側の白と外側の緑だぞ」
「いいよ、どっちみち当たるはずがないよ」
6艘のモーターボートが一斉にスタートして波しぶきを上げ始めた。
観客席は騒々しいくらいに怒涛のような応援が始まった。
折り返しの旗を曲がる時は、各船がぶつかるんじゃないかと思えるほど近づく。
コーナーで曲がるとき舟が大きく揺れる。その波しぶきがすごい。
6艘のエンジンの音もけたたましかった。
2周目には6番と1番はかなり引き離されていた。


お金を捨てるようなもんだとは思ったものの、少しは期待もあった。
やっぱり損をしたなという気持ちになって落ち込んだ。
千円あればけっこう物が買える。でもこれもいい経験だなと納得させた。
父ちゃんの買った券は1番2番を争っているようだった。
父ちゃんの声が段々の大きくなっていた。
3周目になった。先頭の2艘がコーナーで接触し、大きく揺れて転覆した。
その大きく揺れた波で、あとから来た2艘も転覆してしまった。
遅れていた2艘は転覆したボートをよけるように走り抜けてゴールに入った。
父ちゃんは地団太踏んで悔しがっていた。

「チキショ~、まったく、馬鹿やろ~」
「なに、父ちゃんダメだったん?」
「最後の最後まで、取れたと思ったんだけどな」
「しょうがねえじゃねえ、ひっくり返っちゃったんだから」
「たかし、おめえのはどうした」
「よく見てなかったけど、ひっくり返った中には入っていなかったみたいだよ」
会場は怒号で騒然としていた。ハズレ馬券が宙に舞う。
恐いような光景だった。場内がザワザワしている。
しばらくすると、沼の中のスタート近くにある電光掲示板に着順が点灯された。
その掲示板を見て、会場では怒号のような声と舟券が舞い上がった。
恐ろしいような光景だった。

1レース 1着 1番 
     2着 6番
あれっと思った。大学の受験番号を見た時と同じような感覚がした。
私の買った券の番号が合格している。横にいた父ちゃんの様子がおかしい。
黙りこくって、さっき買った券を何度も掲示板と見比べている。
「父ちゃん、もしかしたら」
「たかし、黙ってろ、静かにしろ」
「どうしたん、当たったんだろ?」
「いいか、でっけえ声を出すな」
「なんで、何かあるん」
「たかし、こっちへこい」
「なに、・・・・」
父ちゃんは観覧席の後ろのほうへ行った。
人の少なそうな所へ行くと小さな内緒話のような声で話してきた。
「たかしの買った1-6 あれいくらの予想配当だった」
「72000円って出てたよ、やっぱり当たったんだ」
「うん、いいかでっけえ声を出すな」
「じゃあ、72000円になったんだ、かあちゃんからお金借りなくてすむかな」
「馬鹿、これは特券だ、10倍だよ」
「なに、100円で72000円?じゃあ72万円ていうこと」
「いいか、父ちゃんのいう通りにしろよ」

私も足が震え唇がカチカチなり始めた。父ちゃんの顔も緊張しているのがわかった。
手も小刻みに震えている。親子そろって小心者だった。
悪い事でもしているような気分になってきた。
「すぐに取替えに行くと、悪い奴らに大金を見られたら大変だから少し待ってるんべ」
「じゃあどうするん」
「すぐに行かないで、1時間くらい待って、人がいない時にいくんべ」
「うん、俺よくわかんないから、父ちゃんに任せるよ」
「しばらく、ほとぼりが覚めるまで2~3レース見ているべえ」
「父ちゃん、次ぎのレースの券は買わないん?」
「もう、いいよ。もう競艇はやめるよ」
「なんで、どうしたん」
「ついてねえやつは、一生ついてねえよ」
「そんなことないんじゃねん」
「たかしが、父ちゃんの何十年間のツキをみんな吸い取っちゃったんだな」
「そうかな~、俺が運がいいとすれば、父ちゃんだってその親なんだから」
「こんなん一生に一回あるかどうかだ。もう俺のツキは死ぬまで来ねえよ」
「じゃあ、父ちゃんにこれみんなやるよ。俺は自分で生活できるからいいよ」
「おめえは運がいいんだな。肺炎の時だって死んでもおかしくなかったしな」
「俺、死にそうだったんだってね。かあちゃんもそう言っていた」
「それから、たかしに運がまわったんだろうなあ」
「そんなことねえよ、みんな努力だけだと思うけどな」
「馬鹿、努力で大穴が取れるかよ」
「でも地道に頑張っていれば、何かいい事があると思うけどね」
「バカヤロ~、こんな時に親に説教するんじゃねえ」

観覧席の後ろのほうで父ちゃんと時間を潰していた。
父ちゃんの言葉が少なくなってきた。何か考えているようだった。
父ちゃんは2レース目のボートをボーっと眺めていた。

私はお金の使い道を考えていた。思い浮かぶのは一つしかなかった。
みんなで家を建てる資金の一部にしようと思った。
かあちゃんが何ていうか心配になってきた。

3レース目が始まるころ、観覧席に人が集まり始まった。
裏のほうの船券売り場から観覧席に人が流れてくる。
「たかし、もう少したったら取替えに行くぞ」
「うん、人が少ない時のほうがいいかもね」
「いいか、あんまり喜んでいる顔をしちゃあだめだぞ」
「わかってるよ」
「父ちゃんから離れるなよ」
「うん、父ちゃん、これで家は建たないかな」
「バカ!このくらいじゃ家なんか買えるか。帰ったらかあちゃんと相談してみんべ」
父ちゃんと換金窓口に向かった。
3レース目が始まりかけていたので辺りには人がいなかった。
父ちゃんが換金窓口で当たり券を出した。

窓口は中年のおばちゃんだった。
「あ、おめでとうございます。1レースの1-6ですね」
「あ、そうです」
「特券ですか、すごいですね。この舟券21枚しか出なかったんですよ」
おばちゃんは1万円札の束を扇のように広げて数え始めた。
誰かに見られないかと思ってはらはらドキドキだった。
おばちゃんは現金をそのまま父ちゃん渡した。

「すいません、何か新聞紙にでも包んでもらえませんか」
「じゃあ、これどうぞ、あの~、出口の所まで警備員をつけましょうか?」
「いや、いいです」
「じゃあ、この中に入れておきますから気をつけて帰ってください」
おばちゃんはお金を入れた茶色い封筒を渡してくれた。
茶封筒は思ったほど厚くない。父ちゃんは内側の胸ポケットに封筒をしまいこんだ。
それから普段は閉めない前ボタンを閉めた。
父ちゃんでは一生かけても貯められないような金額だった。
父ちゃんはこんな事を求めて競艇場に来ていたのかもしれない。
父ちゃんはもう競艇はしないといっていた。
一生に一度のツキが、今回で来てしまったのかもしれない。
この先何十年通っても、こんな事は2度とないと思ったようだ。

競艇場の入り口の右側に立ち食いのうどん屋さんがあった。
「父ちゃん、天ぷらうどん食べていかない?」
「たかし、とにかくうちに帰るんべ、飯はそれからだよ」

太田駅行きのバス停でバスを待った。帰りのバスは何人も乗っていなかった。
帰りには、父ちゃんの青春時代を聞こうと思っていた。
そんな雰囲気ではなかった。父ちゃんは、虚ろな目で何か考え事をしている。
「父ちゃん、帰ったらかあちゃんに何ていう?」
「たかし、少し黙ってろ」
「やっぱり家は無理かなあ~」
「今、考えているんだ。静かにしていろ」
父ちゃんにとっては一生に一度あるかないかの出来事だった。
運否天賦は自分では決められないが、なにか見えない力もあるような気がした。

父ちゃんは背が低い。150センチしかない。
そのため丙種合格で、戦争に召集されたのは終戦に近い頃だった。
舞鶴の海軍に入ったが、一度も戦地に行く事無く戦争が終わった。
同世代の青年の多くが戦争で命を失っている。
父ちゃんは生きていた。これ以上の幸運はない。
父ちゃんの最大の運はその丙種合格の召集令状だったのだ。
父ちゃんの背が高かったら私はこの世の生まれていない。
私の幸運は父ちゃんが戦地に行かずに生きていた事だ。
何が幸いし、何が災いするか誰もわからない。運不運は人間には判断できない。

父ちゃんは何も手に職がなかった。教育も中途半端で本も満足に読めない。
体を使って仕事する以外には生きる方法がなかった。
父ちゃんは、荷車を引いて物を運ぶというのが仕事の原点になっている。
4人の子供を体を張って食わせるだけが精一杯の能力だった。
今にも倒れそうな家に住んでいても、どうする事もできなかった。
家を建てるなんていうことは一生かかってもできる事ではなかった。

毎日の稼ぎの中から小銭をためて日曜日に競艇に行く。
本命を買って少し元手を増やし次ぎのレースで大穴を買う。
この繰り返しを10年以上やっている。
父ちゃんは競艇をまるで仕事ように繰り返していた。
私が物心ついた頃には競艇をやっていた。
かあちゃんに怒られても子供が泣いていても競艇に行った。
雨が降っても風が吹いても競艇に行っていた。信念のように競艇に行っていた。
競艇で儲けて酒を飲んだり女遊びをしたりするのが目的ではなかった。
家を建てたかったんだ。父ちゃんにとっては競艇が家を建てる為の資金作りだった。
それしか方法が思いつかなかったんだ。手段が悪かった。
母ちゃんのへそくりも、父ちゃんの競艇も同じように家族のためだった。

もう何百回にもなっているだろう。最初は予想屋の意見を聞いて本命を買う。
専門家の意見を50円で買っていた。本命で少し資金が増えたら大穴を狙う。
いくらやっても大穴なんて当たるはずがなかった。
見えない力が子供を通して父ちゃんに大穴を実現させた。
しかし見えない力は一生遊んで暮らせるような大金までもたらさなかった。

父ちゃんは日曜日には決まって競艇に行く。
おおそらく15年はやっている。物心ついたころには母ちゃんと喧嘩していた。
間違いなく競艇のことだと思う。1回2千円は損してくる。
単純計算だけでもいくら損したか計算できる。
祭日やお盆にも競艇は開催される。年に50回は行っている。
1回に千円使うとしても、計算すればすぐにわかる。
15年×50回×2000円=150万円になる。
頭を使って工夫すればいかに無駄なことかわかる。

父ちゃんの頭の中には家を建てることしかなかった。
それでもこの72万では、家を建てる金額の半分にも満たない金額だった。
家を建てる土地もない。父ちゃん一人で考えてもどうにもなることではなかった。

午後の1時には家に着いた。弟は寝転んでテレビを見ていた。
母ちゃんはその横で内職をしていた。兄ちゃんはパチンコに行ったようだ。
姉ちゃんは宮田さんとどこかへ出かけたと言っていた。

母ちゃんは父ちゃんの顔を見て冷やかした。
「なんだい、今日はずいぶん早いな、もう千円も負けて帰ってきたん」
「それがなあ~、大変だったよ」
「財布でも失くしたんかい。父ちゃんいくらも持ってなかったろ~」
「馬鹿、そうじゃねえよ」
「なんだよ、まさか、たかしが有り金全部使っちゃたわけじゃねんだろうな」
「そうじゃねんだよ」
「なんだよ、はっきりしないな」
「たかし、おめえから説明しろ」

父ちゃんはオドオドしていてうまく説明できない。ほんとに気が小さい。
「かあちゃん、大穴当てたんだよ」
「いくら?」
「72万円だよ」
「なに、お金見せてみろ」
「父ちゃんお金を出してみて」

弟がびっくりして起き上がってきた。かあちゃんが封筒の中のお金を取り出した。
「かあちゃんもいつかはこういう事があればなと思ってたんだよ」
「1レース目から大穴が出たんだよ」
「どっちが買ったんだい」
「父ちゃんが俺に買ってくれたんだよ」
「じゃあ、たかしのもんじゃねえか」
「かあちゃん、誰のもんでもないよ」
「ちょうどたかしの4年間の学費になるんじゃねえか」
「おれは働きながら学校に行くよ。そのほうがいいんだよ」
「じゃあ、たかしはこれを何に使いたいんだ?」
「これで家を建てられればいいんだけどな、足りないだろうな」
「そうだな、あぶく銭なんか学費なんかには使わないほうがいいな」
母ちゃんはお金の有難さも恐さも知っているようだった。
私もかあちゃんと同じ考えだった。学費は自分の手で稼ぎたかった。

72万で家が建つかどうか見当がつかない。
「かあちゃん。これだけじゃあ家は建たないよな」
「貧乏人なんだから、新しい家なんて考えなければ何とかなるんじゃねえかな」
「あ、そうだよね、別に新しくなくってもいいよね」
「かあちゃんが知っている人がいるから聞いてくるよ」
「誰か知っている人がいるん?」
「ほら、農家の野村さんち知ってるんべ」
「うん、かあちゃんがよく田植えや稲刈りに手伝いに行くうちだろ」
「そう、たかしも牛の鼻取りをした農家だよ」
「うん、おれの同級生の武政君ちだろ」
「その野村さんの奥さんの兄いが大工の棟梁をしているんだよ」
「へえ~、お兄さんが大工の棟梁か?じゃあ詳しいね」
「野村さんの奥さんが、時々白菜や大根を持ってきてくれるんだよ」
「何で野菜を持って来てくれるん?」
「また忙しい時に手伝ってもらいたいからだろ」
「その農家の野村さんの奥さんがどうしたん」
「その時お茶飲みながら世間話をしていくんだよ」

母ちゃんは父ちゃんよりも少しは頭を使っている。
少しは先のことが考えられる。工夫もできる機転も聞く。しかも情報通ときている。
ただ決定権は父ちゃんが持っているので、母ちゃんの意見はほとんど潰される。
貧しさの原因はここにある。

母ちゃんの世間話は情報収集を兼ねている。
父ちゃんよりよっぽど色々なことを知っている。
情報はお金よりも価値があることが多い。
知るか知らぬかでその先に大きな差がついていく。
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