第5話 生活の貧しさと人間性

文字数 5,755文字

寝台列車は暗闇の中をゆっくり進んでいった。
時々ベッドから降りて、通路の長椅子に座り外の夜景を眺めた。
名古屋の夜景がきれいだった。遠くから名古屋城がライトに浮かんでいた。
東京駅で買ってきたお酒をちびちび飲みながら夜景を眺めた。
いままでの生活とは別世界だった。


父ちゃんや母ちゃんは今までこんな事をしたことがあるだろうか。
二人とももう50歳を過ぎている。
自分と同じ年の頃はどんな事を思っていたのだろうか。
父ちゃんや母ちゃんに青春はあったのだろうか。

田舎のおばあさんは不良どうしが一緒になったといっていた。
田舎の家の裏に250ccのバイクがほこりを被って置いてある。
真っ黒いバイクだった。今はさび付いていて動かない。
あれが父ちゃんの青春の姿だったのだろうか。
父ちゃんは兵隊に招集されて舞鶴の海軍にいたとも言っていた。
召集令状も見せてもらった事もある。青春の時代を国に捧げてしまったのだろうか。
父ちゃんはカメラが好きだった。田舎の家には昔の写真がいっぱいあった。

朝3時から出かけていく父ちゃん。1日中内職をしている母ちゃん。
収入の殆どが食費に費やされていた。来る日も来る日も同じような生活が続いた。
家族6人が食べるだけでせいいっぱいの生活だった。

住んでいる家は少し傾き父ちゃんは太い丸太2本で家を支えた。
土でできた壁はひび割ればかりが目立っていた。
風の吹く日は家が揺れて恐かった。雨の降る日は雨漏りが恨めしかった。
裸電球のコードに触って感電したこともあった。

その生活を家出するようにして抜け出してきた。
今は姉ちゃんも兄ちゃんも働きに出ている。
多少生活は楽になっていい筈だった。
パチンコにお金を使う兄ちゃん。競艇にお金を捨てる父ちゃん。
貧しさを自分で作っている。貧しさはお金だけではなかった。
心まで貧しかった。あの家では貧しさはいつまで経っても抜け出せない。

夜中の12時ごろ大阪の夜景が見え始めてきた。
寝台列車は静かに闇の中を進んでいく。
ベッドに戻りうとうとしながら眠りに付く。
電車の音が次第に小さくなっていく。
ゴトゴトゴト~ン、ゴトゴトゴト~ン、ゴトゴトゴト~ン ゴトゴト~ン・・・・

気がついた時には電車は岩国の駅に止まっていた。朝の6時ごろだった。
「お弁当~、お弁当~」の声が聞こえた。一番安そうなお弁当とお茶を買った。
デッキに貼ってある鉄道地図で「岩国駅」を確かめた。
寝台列車に揺られてここまで10時間以上が経っていた。
はるかかなたの異国の地へ来たような気がした。
父ちゃんや母ちゃんの手が届かない所まで来た。
これからは父ちゃんや母ちゃんのお世話にならなくても生きて行く。
気持ちだけは一人前になったような気がした。

相席に座った三人のうち二人は岩国駅で降りていった。
二人ともサラリーマン風の40代の男の人だった。
見知らぬ人のまま同席し、見知らぬ人のまま去って行った。
10時間同席しても会話がなければ赤の他人のままで過ぎる。
少しだけでも会話をして相手の名前を知れば知人となる。
どんな所にも運命の扉を開ける鍵が落ちている。
寝台列車は再び山口へ向かって走り出した。
ゴトゴトゴト~ン、ゴトゴトゴト~ン、ゴトゴトゴト~ン・ゴトゴト~ン・・・


陽が昇りあたりは明るくなってきた。
東京から比べると30分ほど日の出が遅くなるようだ。。
夜が明けると寝台列車の音がゴトゴト~ンからガタガタ~ンと変わった。
ガタガタ~ン、ガタガタ~ン、ガタガタ~ン、ガタガタ~ン、・・・・

7時ごろになると車掌さんが「おはようございます」と挨拶にくる。
2段ベッドを座席に直していく。相席の方が2段ベッドの中から起きてきた。
30代のサラリーマン風の人だった。

「おはようございます」と声をかける。
「おはようございます」と返事が返ってくる。
自分と他人との見えない壁がその挨拶で少しだけ開けられる。
「いいお天気ですね」と声をかけられる。
「そうですね」と返事をする。
「どちらまでですか?」
「宇部までです」
「観光ですか?」
「ええ、そうです」
「お若そうですね、学生さんですか?」
「いいえ、まだ違います。千葉の工場で働いています」
「まだ、といいますと?」

人はちょっとした会話の中にも本音が漏れる。
「まだ」と言う言葉にそれが表れた。相手がそれに気がつけば会話が続いていく。
「4月から、東京の大学に行きます」
「ああ、そうですか、おいくつですか」
「19歳です」
「いいですね、若い人は夢が有って」
「いいえ、なんとかここまでやっこられました」
「そうですか、働きながら受験勉強ですか、大変だったでしょう」
「寮生活をしていましたから、それほど苦労は感じませんでした」
日常のありふれた会話は気持ちが安らぐ。
「ああ、僕は角田と言います、下関で乗り換えて博多まで行くところです」
「あ、早川といいます。角田さんはお仕事ですか?」
「博多のデパートで展示会がありますので、商品の説明係で出張するんですよ」
「どちらからきたんですか?」
「住んでいる所は千葉の松戸です。勤め先は浅草橋です」

簡単な挨拶からでも人柄が伝わってくる。
優しそうで心の広そうな人だった。30代の前半くらいに思えた。
「じゃあ、もう勤めていた会社は退職したんですか」
「いいえ、まだ今月いっぱい勤めます」
「そうですか、頑張りますね、じゃあ今日は?」
「はい、会社から退職前に有給休暇をもらってきました」
「そうですか、お若いのにしっかりしていますね」
「いいえ、とんでもないです。まだ子供です」
「お生まれはどちらですか」
「群馬県の太田市です」
「やっぱりね、私の妻が高崎なんです」
「言葉でわかりますか?」
「ええ、何となく」
「角田さんはどちらの生まれですか?」
「千葉県の佐倉という所です」
「ああ、巨人軍の長嶋と同じですか」
「そうです、佐倉は長嶋で有名になりましたが、他は何もない所です」
「じゃあ、両親や兄弟はその佐倉っていう所にいるんですか?」
「いや、今はその家はありません。父は僕が小学3年の時病気で亡くなりました」
「ああ、すいません、変なこと聞いて」
「いいんですよ、それから佐倉の家から松戸のアパートに引っ越したんですよ」
「そうですか、じゃあお母さんや兄弟も一緒に松戸のアパートに?」
「いいえ、僕は一人っ子です」
「そうですか、すいません。立ち入った事まで聞いちゃって」
「いいえかまわないですよ、今は幸せですから」
「小学校から、中学まで松戸だったんですか?」

窓の外の景色が目に入らなくなってきた。自分とは違う人生を歩んでいる人がいる。
「おはようございます」の挨拶で始まった会話がどんどん深くなっていく。
相席に二人しかいなかったせいか、角田さんと色々と話をした。

「母が松戸のダンボール工場に勤めて僕を高校まで出してくれたんです」
「じゃあ、今はお母さんと二人暮らしですか?」
「母も5年前、58歳で亡くなりました」
「ええ!そうなんですか、じゃあ今、角田さんはお一人なんですか?」
「いいえ、同じアパートに妻と2歳の子供との3人暮らしです」
「ああそうなんですか。自分なんか両親二人とも揃っていて幸せなんですね」
「そうですよ、生きている間しか親孝行はできませんよ」
「実は、貧しさが嫌になって家出するように出てきてしまったんですよ」
「貧しいなんて何でもないですよ、両親がいないと寂しいもんですよ」
「はい、丈夫な体に生んでもらっただけでもありがたいという事ですよね」
「そうですよ、体が健康なら何でもできるでしょう」
「ほんとうですね、こうやって旅行もできるんですからね」

角田さんがサンドイッチと牛乳を取り出した。
私もさっき買った弁当とお茶を出して食べ始めた。
会話が途切れても角田さんの存在が気にならなくなってきた。
「私、胃がないんですよ」
「ええ、胃がない?」
「3年前、手術して胃を取っちゃったんですよ」
「じゃあ、食事はどうするんですか」
「最初の頃は流動食でしたが、だんだんに腸が胃の役目をするそうですよ」
「ええ!そうなんですか?」
「会社の健康診断で初期の胃癌が見つかったんです」
「うわ~、ものすごい人生なんですね」
「親父がなくなった年齢と同じ35歳でした」
「お父さんは35歳で亡くなったんですか」
「ええ、一時絶望感でどうにもならない時もありました」
「まるで、小説の中のような人生ですね」
「ええ、小説みたいでしょ。その時の病院の看護婦が妻なんですよ」
「うわ~、信じられないですね」
「両親もなく僕一人だったでしょ。どうでもいいやっていう時もありましたよ」

私が片思いだ初恋だと言っているころに角田さんは絶望の日々を送っていた。
私は貧しさと不幸せを同じものだと思っていた。
角田さんの幸不幸は、私の生活の貧しさとは次元が違う事を教えてくれた。

3月17日(金)AM8:30


小郡駅に着いたのは朝の8時半だった。角田さんに名刺を頂き別れを告げた。
角田さんはいつでも訪ねてくるようにと言ってくれた。
角田さんの会社は両国からは近かった。必ず訪ねてみようと思った。

東京駅を出発してから17時間かかった。
恐ろしく遠くへ来たような気がして気持ちが不安になってきた。
小郡駅に降りたものの、どこに行くあてがあるわけでもなかった。
1泊2日を予定していた一人旅だったが、すでに寝台車で1泊していた。
東京から1000km以上も離れてしまった。早く帰りたくなってきた。
帰りにも17時間かかる。
駅の窓口に行って小郡駅発14時半の東京行きの寝台特急を買った。
東京駅には明日の朝8時に着く。電車の往復だけで2日を使う事になってしまった。
思いつきの一人旅とはいえ計画がずさん過ぎた。
このまま帰ると東京駅と小郡駅を寝台列車で往復しただけになってしまう。
あとで悔いが残るような気がした。少しでも何か見て帰ろうと辺りを見回した。
お世話になった人へのお土産も買いたかった。

駅前のバス停に「秋芳洞コース」の定期観光バスの案内があった。
小郡駅を10時に出発して3時間の周遊コースになっていた。
案内のバスガイド付きとチラシに書いてあった。
これなら帰りの寝台列車の出発時間に充分間に合う。
早速これに決め案内所に切符を買いに行った。
案内所には中年のおじさんが二人いた。一人はバスの運転手のようだった。
まだ他のお客さんは誰もいなかった。


案内窓口のおじさんは新聞を広げて暇そうにしていた。
奥にいる運転手さんは雑誌を見ながら片手で鼻毛を抜いていた。
どっかうちの父ちゃんと似ている所があった。

「あの~、このチラシに載っている秋芳洞コースを1枚下さい」
「はい、720円になります」
「あの~、秋芳洞にはお昼を食べられる所はあるんですか」
「はい、秋芳洞の入り口に食堂が2軒とお土産屋があります」
「どこから乗ればいいんですか」
「あそこに見えるあの観光バスに乗って下さい」
「もう乗っていいんですか」
「まだですね。9時半から乗車開始になりますけど」
「どの席に座ってもいいんですか」
「はい、どこでも空いている席に座ってください」
「わかりました、どうもありがとうございました」
「お客さんはどちらから来たんですか?」

案内のおじさんは何か私に興味を持ったようだった。
じろじろと珍しいものを見ているような目だった。
「おにいさんは関東の人?どっちらきたの」
「え~と、東京駅からです。ああ、出てきたのは千葉です」
「はあ、今日はお休みですか」
「はい、休暇を取ってきました」
「どこか泊まる所は決まっているの」
「いいえ、特に決めていません」
「お宿をご紹介しましょうか?」
「いいえ大丈夫です」

私の服装はいつもの普段着だった。
茶色い格子のズボンに、白いシャツ。その上に草色のカーデーガン。
下着の入ったしわだらけの黒いナイロンバッグ。
観光客に見える格好ではないことは自分でもわかった。
おじさんは私が家出をしてきた少年と勘違いをしているようだった。
駅前には交番がある。ちょっといやな雰囲気になってきた。

おじさんは私の姿を不審そうに眺めていた。
「はあ、じゃあ今日はうちに帰るの?」
「はい、そうです」
「こちらへは、もう何日くらいいるの?」
「いいえ、さっき来たばかりです」
「そうすると、秋芳洞を見にわざわざ東京から?」
「いいえ、特にどこという予定がありません」
「親御さんは、ここへ来た事は知っているの?」
「いいえ、特に断ってきていません」
「連絡入れたほうがいいよ」

どうも家出をした少年に見られているようだ。
大人が子供を諭すような雰囲気になってきた。
たしかに私は童顔だが一人前に働いている。
田舎のおじさんに子供に思われたのが悔しくなってきた。
「すいません、私は家出をしてきたわけではありません」
「そうだよな、また帰るんだから家出じゃないだろうけどね」
「はい、明日は実家に帰ります」
「実家はどこなの?」
「群馬県の太田です」
「さっき千葉って言わなかった?」
「千葉は勤めている工場です。そこの寮に住んでいるんです」
「そうかそうか、田舎は群馬の太田なの?あの中嶋飛行場あった所?」
「はい、そうですけど」
案内所に中年のおばさんの二人連れや家族連れが入ってきた。
おじさんは家族連れのほうに行って応対を始めた。
顔だけこっちに向いて、子供を諭すように言った。
「じゃあ、今日はいっぱい楽しんで、早く家に帰ったほうがいいよ」
「・・・・・・」
返事をしないで案内所の外に出た。詮索好きのおじさんにやっと解放された。
まだ私は大人として認められていない。
姿格好も状況に合わせてそれなりの準備が必要だった。

9時半、秋芳洞行きの観光バスの一番前の席に座った。
案内所にいた運転手がニヤニヤしながら乗りこんできた。
何か話しかけられそうな気がして一番後ろの座席に移った。
出発の10時近くになると座席の半分くらいが埋まった。
中年のおばさんのグループと子供を連れた家族連れで20~30人だった。
みんな手には水筒やお弁当の入っていそうなバックを持っている。
私だけが一人 場違いな感じがした。

案内所のほうから小さな旗を持ったバスガイドさんが近づいてきた。
ガイドさんが乗り込むと運転手は入り口のドアを閉めた。
小柄でほっそりした、わりときれいなガイドさんだった。
小さな口元の赤い口紅が印象的だった。

座席を一番後ろにした事を後悔した。
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