第15話 人生は人の絆と人の愛

文字数 5,611文字

午後1時ごろに家を出て千葉に向かった。去年の今頃もこうして千葉に向かった。
同じ家を出るにも心の中は1年前とまるで違っていた。
大学受験で頑張ってきた1年と、この有休の6日間が同じような長さに感じた。
退職まであと4日間となった。

上野に向かう電車の中で小説現代の読み残した所から読み始めた。
カバンの中にはビニール袋に詰めた稲荷寿司が入っていた。
千葉の寮に着いたのは4時頃だった。
1年前この寮に着いた時その大きさに圧倒された。
3階建ての独身寮が私に覆いかぶさるように大きく見えた。
その周りに立ち並ぶ何棟もの社宅の光景に体が震えたのを覚えている。
たった一人で大人の世界に入って行けるかなという気持ちだった。
大人は恐いという感覚があった。

今こうしてみてみると白い建物が優しい感じに変わっている。
その中で暮らしている何人かの人たちと知り合いになった。
白い建物はそこに住む人々の人生を優しく包み込んでいる。
白い建物は生活の匂いがしていた。
寮の入り口の管理人室に荷物が届いていた。
秋芳洞のお土産屋さんから送った「山口ういろう」だった。
たった6日間しか経っていないがもうずいぶん昔の事に思えた。
「賞味期限:常温30日」の表示を見て安心して選んだお土産だった。

まず食堂に立ち寄った。
「伊藤さん、今帰りました。また明日の朝から食事お願いします」
「あら、ずいぶん久し振りって感じね、どこまで行った来たの?」
「南は山口県の秋芳洞、北は群馬県の太田の実家までです」
「へ~、一人旅をしてきたの、楽しかった?」
「はい、おかげさまでゆっくりできました、はい、これお土産です」
「あら、ありがとう。夕飯食べるんだったら、一人分くらい何とかなるわよ」
「はい、田舎から稲荷とキンピラを貰ってきましたので大丈夫です」
「そうよね、お母さんの味が一番いいわよね」
「いいえ、私は伊藤さんの作った食事が一番うまかったです」
「あら、お世辞もうまくなったんだね、1年前とはだいぶ変わったわね」
「ええ、私もずいぶん世間に揉まれましたから」
「あら、ずいぶん大人びた事も言えるようになったんだね」
「あの、野村さんと利重さんと篠原さんは何番勤務になっていますか」
「ちょっと待ってね、今、食事予定表を見てみるから」
「ああ、それから清水の予定もわかったらお願いします」

伊藤さんは奥に行って食事予定表のノートを持ってきた。
食堂には何人かの工員と学生服姿の坊主頭の人が食事をしていた。
学生の食事をする姿がぎこちない。不安な気持ちが伝わってくる。
伊藤さんがそれぞれの食事予定表をメモ用紙に書いて渡してくれた。
食事予定表で何番勤務かわかる。清水は一番勤務だった。
これがあれば部屋にいつ頃行けばいいかが判断できる。


「伊藤さん、もう新入社員が入ってきているんですか?」
「ええ、昨日あたりからね、今年は独身寮に7人入るんだって」
「ああ、もうそんな時期になるんですね、懐かしいですね」
「あの子は、茨城県の土浦市って言っていたわね、最初はみんなおんなじね」
「私も最初は不安でした、でも伊藤さんと話して安心しました」
「嬉しい事言ってくれるわね、お世辞でも嬉しいよ」
「小夜子さん、元気にしていますか?」
「ええ、今部屋にいるんじゃないかな、呼ぼうか?」
「いいえ、いいんです、ちょっと聞いてみただけです」
「小夜子も早川君の事が気になっているみたいよ、いいわよ、デートに誘っても」
「いいえ、とんでもないです、私なんか」
「その気になったらいつでも誘ってね、早川君なら安心だから」
学生がご飯のお替りにやって来た。おどおどしている。
恐る恐るご飯の入った大型電気炊飯器の蓋を開けている。
去年の自分を見るようだった。

部屋に帰ってガラス窓のカーテンを開けた。
私の部屋からは社宅の1階の伊藤さんの部屋の窓が見える。
伊藤さんの部屋の窓のカーテンが開いていた。
窓からはこっちを見ている小夜子さんの姿が見えた。
私が窓ガラスをあけると小夜子さんはカーテンを閉めた。
社会に出て1年経ったが、女心はいつまで経っても判らないような気がした。

1年間住み慣れたこの部屋の中には何もなかった。
参考書や問題集はダンボールに入れて押入れにしまってある。
受験勉強のない生活がもう1ケ月以上になっている。
受験勉強のない寮生活の1日は本当に長い。
特にこれといった趣味もない。時間を潰せるものが何もない。
この暇な時間をどうして過ごしていいかわからなかった。
この頃詩集を読んでも感激が少なくなってきている。
忙しい合間に見た詩集だったから、読んで気持ちが安らいだのだ。

暇は人間を堕落させるような気がする。
社宅前の雑貨屋さんに行って、ビールとかっぱえびせんを買ってきた。
テレビで「やめられない、とまらない」というキャッチコピーで宣伝していた。
雑貨屋の入り口には雑誌が並んでいた。吉永小百合の表紙の週刊誌も買ってきた。
興味半分で、セブンスターとマッチも買ってみた。

 
残すところ退職まであと4日間工場勤務する。
3月25日が送別会。26日にはアルバイト先の宮田さんが車で迎えに来てくれる。
それから大学入学までの4月7日までは2週間ある。
何をして過ごせばいいのかわからなかった。
・・・・暇は人間を不安にさせる。

目標のない生活は、こんなにも辛いものだという気持ちにさせられた。
酒もタバコもうまいものではなかった。
週刊誌も吉永小百合の記事以外たいして興味あるものはなかった。
・・・・暇はお金を浪費する。

4月7日からは再び忙しい毎日になる。
大学とアルバイトで寝る時間以外は暇がなくなる。
私にはそのほうが合っている。暇な時間を作らない人生設計をしようと思った。

そろそろ1番勤務の人が帰ってくる時間になった。
今日は清水と野村さんの部屋に行く。
・・・・暇は時間が過ぎるのが遅い。

やっぱり暇は人間を堕落させるような気がする。
タバコが2本目になった。ビールは飲み終わった。
かっぱえせびんも食べ終えてしまった。
かっぱえびせんは袋が空になるまで止まらなかった。
・・・・暇は人間の心と体を変えていく。

つい余計なものを飲み、余計なものを食べてしまう。
暇の過ごし方で人間は大きく変わりそうな気がした。
・・・・暇が人間を作るのかもしれない。

これから先2週間も退屈な日をすごさなければならない。
何か目標を見つけなければならない。
「小人閑居して不善を為す」の言葉が頭の中に浮かんだ。
よく意味がわからないが今の自分の事のような気がした。

秋芳洞のお土産を持って2階の野村さんの部屋に行った。
野村さんは1番勤務から帰ったばかりだった。
「野村さん、いますか?早川です」
「おお、入れや、お金の催促かい?」
「はい、失礼します」
野村さんの部屋はきれいに整頓されている。
小さな本棚には化学関係の本や高分子関連の技術書が並んでいた。
野村さんは今の仕事が楽しくってしょうがないという感じがした。
着る物もビニールでできた簡易衣装ケースの中に収納されていた。

「お金は準備できているぞ、今持って行くか?」
「ほんとにすみません、助かります」
「大事なお金なんだからな、絶対に返せよ」
「はい、8月の夏休みに返しに来ます」
「わざわざ来なくても、銀行振込みでもいいぞ」
「お礼もしたいし、みんなの様子も見たいから」
「どっちでもいいけど、何だこのお土産は?」
「有休を取って、山口県まで行ってきました」
「うすだろ~なんだよ、泣きついて人に借金しておいて、自分は旅行かよ?」
「それはそれ、これはこれですよ」
「おまえも調子がいいな、お金のことが心配になってきたよ」
「大丈夫ですよ、信用して下さい。先輩に迷惑かけませんから」
「わかったよ、もう俺食事に行くからな」
「じゃ、失礼します。来る前には電話します」

野村先輩がせっかく準備しくれた5万円だった。
もうすでに払い込みは済んでいるが借りたほうがいいと思った。
何でも正直に言ってしまうことがすべてではないと思う。
野村先輩に優しさをそのまま受け取っておきたかった。

次は清水の部屋に行った。清水はお風呂へ行く準備をしていた。
「ああ早川か、どうしたん、しばらく見なかったな」
「うん、有休をとって田舎に帰ってきたんだよ」
「何で、群馬に行って秋芳洞のお土産なんだよ?」
「初めて夜行寝台に乗ってみたんだよ、山口県まで行ってきたよ」
「へえ、俺もそのうちオートバイ買って行ってみるかな」
「山口県って遠いぞ、ここから1000kmくらいあるんじゃねん」
「早川、俺も会社辞めるよ」
「ええ、なんで?」

清水が急に会社を辞める話をしてきた。清水がぽつぽつと話し始めた。
「面白かねえよ、毎日壁のパネルを見ているだけの仕事なんて」
「最初の頃、楽な仕事でよかったって言ってたんじゃねん」
「最初はそう思ったけど、なんかこの頃つまんなくなっちゃったよ」
「どうするん?」
「田舎に帰ってから、考えるよ」
「親は何て言っているん?」
「やっぱりダメかってさ、帰って来いって」
「父ちゃんの仕事は何?」
「小さな農家なんだけど、次男だから関係ないんだよ」
「いつ辞めるん?」
「4月いっぱいにしたんだよ」
「最初は楽しいって言っていたのになあ、ステレオ買ってビール飲んで」
「そんなん、2~3ヶ月で飽きちゃうよ」

清水には清水なりの悩みがあった。
傍からは自由で楽しそうに見えても、本人の心の中までわからない。

「清水、彼女はできなかったん?」
「ううん、できねえ。やっぱり田舎のほうがいいような気がしてさ」
「そうか、田舎に行って何かやることあるん」
「まだ決めてねえけど、ここにいるよりいいよ」
「そうか、けっこう楽しそうに見えたけどな」
「こんなちっちゃな部屋でテレビばっかりみていると、気が変になっちゃうよ」
「そんなもんかなあ~」
「早川はいいよ、目的があってやることがあったんだから」
「やっぱり、暇ってさあ、いっぱいあってもダメなんだな」
「そうさ、田舎ならさ、友達もいるしさ、知っている所もあるしさ」
「そうか、親から離れた開放感だけじゃ、1年も持たないだな」
「やっぱり生まれ育った所が一番いいよ、俺小舞木だからいつでも来いよ」
「うん、俺はあさってには辞めるけど、新しい住所と電話書いておくからな」

清水は辞める事を決心していた。
就職して1年目、それぞれ人生を見直す時期なんだと思った。
清水が何か悩んでいる。
「早川はいいな、1年間でこんなに差がついちゃうんだな」
「俺だってたいした事はないよ、清水だって遅くねえど」
「早川、受験に使った参考書どうするん?」
「ダンボールにしまってあるけど、興味あるん?」
「ちょっとな、考えていることがあるんだよ」
「大学でも行きてんか?」
「あのさ、足利工業大学ってあるだろ、あそこなら俺でも狙えるかなって」
「へ~、やればできるよ、参考書は全部清水にやるよ」
「じゃあ、あとで取りに行くよ。やっぱり人間何か目標がないととダメだな」
「清水、オートバイ買うって言ってたがな」
「そういうんは、目標って言わないみてえな、金出せば誰でも買えるよ」
「へえ、オートバイで日本一周なんて、夢があっていいなと思っていたけどな」
「楽ばっかり考えてちゃあ、何もできねえし、面白くないよ」
「俺もこの頃、暇で暇でやることねえよ」
「ええ、早川でもか?」
「大学入学まで、あと2週間あるんだよ、もう退屈でさ」
「あのさあ、2週間もあれば車の免許取れるぞ」
「うそだい、みんな半年もかかるって言うぞ」
「それはさあ、働きながらだからさ。だって1週間に何回も練習できねえだろ」
「そうだよな、清水も免許とるん?」
「うん、車の免許はこれからは絶対に必要になるぞ」
「そうだな、俺の今度のアルバイトも荷物の運搬なんだよ」
「ええ、車でか?免許持ってるん?」
「持ってねえ。自転車とあとは先輩の車の助手だって」
「おれさ、田舎へ帰ったら、まず車の免許を取るよ」
「へえ、いくらくらいかかるん?」
「足利自動車学校のパンフを見たらさ、合宿もあるんだって」
「へえ、何日くらい?」
「だいたい2週間くらいなんだって」
「全部でいくらくらいかかるん?」
「30~40教程でセットで5万くらいだって」
「清水、それ東京にもあるかな?」
「あたりめえだろ、田舎よりずっと車が多いんだぞ、どこだって教習所はあるよ」

うわ~大きなヒントが転がっていた。
人とは何でも話すべきだと思った。情報はいろんな所に転がっている。
2週間あれば免許が取れるんだ。連続して練習する事なんか気が付いてなかった。
情報はどこにでも転がっているが、話してみないとその存在に気が付かない。
野村さんから借りた5万円と4月7日までの暇な2週間が結びついた。

運転免許が取りたくなった。また世渡りの道具が増えそうだ。
日曜日には宮田さんが車で迎えに来る。宮田さんもまだ免許取立ての初心者だった。
またチャンスが向こうからやってきた。人は一人では生きられない。
身近な人との歯車がいくつも噛み合って進んでいく。
人と話せば何か情報が入る。もうおとなしい良い子は卒業する。

それぞれがこの青春を精一杯に生きている。
生まれたときの周りの環境と、自分の目指す人生が一致しないのは誰にでもある。
人は諦めるか努力するかを自分の意思で選択しなければならない。
目標に向かってよ~しやるぞという人と、こんなもんかなと希望を捨てる人。
この青春の1日1日の過ごし方で、未来は大きく差がついていく。
目標に近づく為には一歩一歩階段を登っていかなければならない。
一生の中の1年はそんなに長いものではない。今年だめなら来年もある。
誰でもその気になれば目標はできる。目標は決心につながる。
決心は行動になる。行動が結果となる。動機は些細なものでも何でもよい。

清水も気が付き始めた。世の中は楽園ではない。努力の結果が自分の未来を作る。
私が受けたお情けはみんな無償の愛だった。
目標を作り、決心し、実行していなければ見えてこないものだった。
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