第16話 退職の日までの2日間

文字数 5,269文字

3月23日は通常通り工場に行った。あと2日間で退職する。
多少の寂しさもある。
工場の仕事は同じように流れていた。
いつもの所でいつものように作業をしていた。
休憩時間もみんな私の退職の事は話題にしなかった。

事務所にもお土産を持って行った。
宮原さんが退職の際に提出する書類を何枚か渡してくれた。
「ここと、ここに名前を書いて25日までに提出して下さい」
「はい、はんこも押すんですか」
「はい、三文判でもいいです」
「わかりました、明日までには書いてきます」
「それから、作業服や安全靴、ヘルメットも返却して下さい」
「最後の日の終業後でいいんですね」
「はい、名札も忘れないようにね」

宮原さんは私の目を見ないで事務的に話していた。
何か宮原さんに特別にお土産を買ってくればよかったなと後悔した。
秋芳洞の時は可愛いバスガイドさんばかりに目がいっていた。
宮原さんの事をすっかり忘れていた。
宮原さんは身近すぎていつも頭の中にあるわけではなかった。
夢にまで出てくるという憧れの存在ではなかった。
近くにいても気にならない、遠くにいても思い出さない。
宮原さんはそういう感じの人だった。
それでも何となく私に好意を持ってくれていることは薄々感じていた。。
洗濯したり、掃除をしたり、食事を作ったり、子供の世話が似合いそうだった。

あと、2日間しかない。
もし宮原さんと仲良くなりたいとしても方法が見つからなかった。
宮原さんが本当に私に好意を持っているかどうかも自信がなかった。
心残りは宮原さんの事だった。
宮原さんとずっと一緒にいたいという気持ちは湧いてきていた。
それでも、何をどういう風に話をしたらよいかは思いつかなかった。
職場の中では個人的な事を話す機会もなかった。
今の自分の力ではどうにもならない事のような気がしていた。

3月25日(土) 退職の日
洗濯した作業服2枚を手に持って工場行きのバスに乗った。
顔なじみの運転手さんに挨拶した。
「お世話になりました、今日までです」
「そうかい、体に気をつけて頑張ってな」
「運転手さんもお元気で・・・」
「あんたなら、どこへ行っても大丈夫だよ」
運転手さんの一言のお世辞で胸が熱くなった。
バスの行き帰りでもメモ用紙を読んで勉強していた事を思い出した。

バスには学生服姿の新入社員が何人か乗りこんできた。
その中の一人が運転手さんに挨拶した。
「おはようございます」
運転手さんも挨拶を返した。
「おはようございます」
去年の3月26日と同じ光景があった。

工場に着く。総務の小池さんが立っていた。
すでに正門付近には14~5人の新入社員の姿があった。
「おお、早川君かおはよう、今日が最後だよな。帰りに総務課に寄ってくれる」
「はい、今日が入社式なんですか。今年は何人くらい入るんですか?」
「う~ん、全部で46人だよ、早いもんだな、あれからもう1年か」
「じゃあ、帰りに総務課に寄らせて頂きます」
「あと、昼休みにコーラス部にも顔を出せよ、今日は3階の文化室な」
「はい、12時半頃に行きます」
新入社員が小池さんの周りにすでに20~30人になっていた。
それぞれが工場の騒音にびっくりしているようだった。
この工場も毎年同じことが繰り返されていく。

職場に着くと伊藤主任に呼ばれた。
「今日最後だから、朝礼で簡単な挨拶をしろよな」
「はい、どんな事を言えばいいんですか」
「1年間お世話になりました、皆さんありがとうございますって言うんだよ」
「はい、わかりました」
「それから、お世話になった部署にも挨拶に行って来いよ」
「はい、一人でですか?」
「あたりまえだよ、挨拶くらいなら一人でできるだろ」
「誰に言えばいいんですか?」
「誰でもいいよ、そこにいた人に言って来いよ」
「何て言えば、いいんですか?」
「おまえ、子供じゃないんだろ、お世話になりましたくらい言えるだろう」
「はい、いつまでにですか?」
「まったく世話が焼けるな~、今日は仕事はいいからできるだけ早く行って来いよ」

伊藤主任にとって、私はいつまでも小僧と同じだった。
こういう日常のやり取りも快い会話だった。
「あと、今晩6時から送別会があるからな」
「はい、どこでですか?」
「仕事が終わったら、俺と一緒に行くから休憩室で待っていろよな」
「本当に最後までお世話になります。送別会は何人くらい出るんですか」
「2番、3番の人は出られないから、14~5人かな」
「やっぱりそこでも挨拶しなけりゃならないですか?」
「あたりまえだろ~、おまえが主役なんだよ」
「まいったなあ、挨拶は苦手なんです」
「じゃあまた、あのふざけた歌でも歌ってごまかすか?」
「いいえ、最後ですから何とか考ておきます」
「馬鹿、社長の挨拶じゃないんだから経済情勢を話せってんじゃないんだよ」
「じゃあ、さっきの、1年間お世話になりましただけでいいんですか」
「当たり前だのクラッカーだよ、何考える必要あるんだよ」
「はい、わかりました」

<コーラス部との別れ>
最後の日はこれといった仕事はなかった。
伊藤主任が配慮してくれたのかもしれなかった。
洗ってきた作業服も汚れないですんだ。

昼休みにはコーラス部にも挨拶に行く事になっている。
今日は総務課の3階の文化室に来てくれと言われていた。
コーラス部では5月の合宿練習に招待されている。
照れくさい気持ちで階段を上った。文化室にはほぼ全員が揃っていた。

今日が私の退職日だという事と、5月に予定されている葉山の合宿に特別参加する事。
小海リーダーにみんなにその事を説明してくれた。
「早川君、連休の5月2~3日の一泊二日だよ、忘れないでよ」
「はい、ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」
「ははは、おおげさだよ、戦場へ行くわけじゃないんだから」
「あ、言葉を間違えました。たいへんお世話になりましたですね」
「ほんとに、君は愉快だね、失礼だけど天然かなあ」
「はい、よく人に言われます。天然って素朴って事ですよね」
「ははは、君には勝てないよ、じゃあ最後にみんなで合唱して送ってあげよう」
「ありがとうございます」
「今から ‘忘れな草をあなたに’ を合唱するからね」
「その歌良く知らないんですけど、私は歌わなくていいんですか」
「まいったなあ君は、僕の横にいて聴いているだけでいいいんだよ」
「リーダーの横で立っているだけでいいんですか?」
「うん、そして歌が最後の方になったら、ドアの方へ向かって歩いて行って」
「あそこのドアの方へ行くんですね」
「そう、そして手を振りながらドアから去って行くシチュエーションにしよう」
「歌の最後のほうですね、わかりました」

文化室には木製の縦型のピアノが置いてあった。片山さんがピアノを弾き始めた。

♪♪・・♪♪・・・・・♪♪
イントロが悲しく流れ始めた。小海リーダーがタクトを振った。
「忘れな草をあなたに」の合唱が静かに始まった。

  ♪別れても別れても 心の奥に
  ♪いつまでも いつまでも
  ♪憶えておいてほしいから
  ♪幸せ祈る言葉にかえて
  ♪忘れな草をあなたに あなたに

小海リーダーの横で静かに聞いていた。

  ♪いつの世もいつの世も 別れる人と
  ♪会う人の 会う人の
  ♪さだめは常にあるものを
  ♪ただ泣きぬれて浜辺に摘んだ
  ♪忘れな草をあなたに あなたに

ピアノの間奏を片山さんが気持ちよさそうに弾いていた。
目がウルウルしてきた。みんなの顔がにじんできた。
このへんがチャンスだなと思ってドアの方に歩いて行こうとした。

小海さんが私の腕を押さえて離さない。
またドアのほう行こうとする。小海さんが腕を引っ張る。
またドアのほう行こうとする。小海さんが腕を引っ張る。
おかしいなと思いながらも、何回かそんな事を繰り返した。
小海さんが耳もとで小声でささやいた。
「早川君、まだ3番が残ってんの!」
クスクスと笑い声が混じり始めた。最後だけはかっこよく帰ろうと思っていたのに。

  ♪喜びの喜びの 涙にくれて
  ♪抱き合う 抱き合う
  ♪その日がいつか来るように
  ♪二人の愛の思い出そえて
  ♪忘れな草をあなたに あなたに

三番は合唱になっていなかった。腹を抱えて笑っている人がいた。
譜面を叩きながら笑っている人もいた。市原は地団太踏んで笑っていた。
その中で宮原さんだけは目を赤くして涙を滲ましていた。
白いハンカチで鼻を押さえていた。押さえるのが目じゃない事が気になった。
結局手を振りながらドアのほうへ歩いて行くことはできなかった。
小海さんも可笑しさで言葉が途切れ途切れだった。
「早川君、じゃあ、これでね、さあ、ドアのほうに、行って」
「はい、すみませんでした」
恥かしくて泣きたくなってきた。笑いと拍手に送られてドアのほうに向かった。

かっこいい人間にはなれない運命を感じた。
「ああ、忘れ物、宮原さん、花束を渡して!」
宮原さんは花束を持って近づいてきた。その顔は笑っている。
やっぱり悲しくて泣いているのではなかった。
可笑しくって鼻から鼻水が出ていたんだ。
宮原さんが握手を求めてきた。何か腹が立って強く握り返した。
宮原さんは口をとんがらして、手を引きぬいた。
宮原さんとの恋愛は発展しないような気がしてきた。

5時ちょうどに、工場のサイレンがけたたましく鳴り響いた。
私もこのサイレンのようにおたけびを上げたい気持ちだった。
心の底から開放感が湧いてきた。急に周囲の風景が違って見えた。
長~いトンネルから抜け出したあとのような、あの眩しい空の色だった。

職場に戻ると休憩室にいた7~8人の職場の仲間がみんな声をかけてきた。
「じゃあ元気でな」
「どこへいっても頑張れよ」
「立派な早稲田マンになれよ」
「いつまでも、初心忘れんなよ」
「宮原さんも忘れんなよ」
「東京の女に騙されるんじゃねえど」
「はい、ご苦労さんでした」
「また顔を見せろよ」
「たまには靴下取り替えろよ、くせえど」
「世の中明るい所ばかりじゃねえど」
「送別会で、うんと飲ましてやるからな」
「今晩は送別会に出られないけど、俺の分まで飲んでくれ」
「何かおいていく物はないのか」
「人に金借りるんじゃねえど」
「いつまでも、ガキみたいにニヤニヤするなよ」
肩を叩いたり頭をぶたれたり、中には股を触ってくる人もいた。
口笛と拍手に送られて休憩室を出た。その足で事務室へと向かう。

事務室はいつも冷静だ。
課長が奥に座っているからか普段と変わらない光景だった。
課長の席の前に行って挨拶した。
「ありがとうございました、これで失礼します」
「ああ、ご苦労様でした、ぼくは送別会に出られないけど、はいこれ」
「ええ、なんでしょうか」
「少ないけど入学祝とお餞別だよ、いくらも入ってないから取っておいて」
「すいません、こんな事までして頂いて」
「じゃあ、頑張ってね、君にはいろいろ考えさせられたよ」
「すいません、お役に立てなくて」
「いいんだよ、今後の参考にさせてもらうよ」

他の事務所の人たちも近くに来て肩を叩いてくれた。
宮原さんも課長とのやり取りを見ていた。
それから宮原さんが笑いながら近くに寄ってきた。
「早川君、帰りに総務課と経理課に寄って行って下さい」
「この書類はそっちでいいんですか」
「ええ、それと給料や退職金もそっちで貰って下さい」
「ええ、退職金まで出るんですか?」
「ええ、昨日で丸1年経ったから規定の金額が出るそうです」
「うわ~、ラッキー、ありがとう」
「私が出すわけじゃありませんから・・・」
宮原さんは最後まで事務的な口調だった。

総務の小池係長のところへ向かった。
失業保険、社会保険、健康保険、労災保険等の書類に記名押印の作業があった。
「早川君な、勤めたり辞めたりするにはこれだけ色んな事をするんだよ」
「すみません、お手数かけてしまって」
「うん、直接間接に数多くの人が君を支えてきた事も覚えていたほうがいいな」
「はい、申し訳ありませんでした」
「謝る事はないよ、若い人には将来があるんだから、辞める事も一つの決断だよ」
「ありがとうございます」
「あとこれにサインして終了だよ」

小池係調が最後に出したのは秘密保持に関する書類だった。
「わかっていると思うが、この工場の設備や作業方法は口外しない事、いいね」
「はい、絶対守ります」
いつもは明るくてお茶目な小池係長がこの日は真面目に話していた。
「まあ、僕の仕事はここまでだ。早川君も1年間よく頑張ったよ」
「仕事はそんなにできなかったですけど」
「これからって言う時だったんだけどな」
「すみません、ほんとに」
「いいさ、若いものは夢があったほうが世の中のためになるよ」
「まだ自分の事で精一杯で、世の中のためなんて考えられません」
「夢を持って、それを実現する事が世の中のためになるんだよ」
「よくわかりませんが、早くそうなりたいと思います」
「あとは経理に寄って、給料と退職金を受け取って下さい」
「係長、本当にありがとうございました」
「じゃあ、また葉山の合宿で会おう」

最後の最後までみんな優しかった。
家を出て、その先にはこんな世界があるとは夢にも思っていなかった。
あの時の、あの決断が自分の人生を大きく変えてくれた。

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