第9話 大学合格と家族の反応

文字数 6,818文字

家には灯りがついていた。家の前には父ちゃんの自転車が止まっている。
兄ちゃんの自転車もある。姉ちゃんの自転車もある。みんな揃っているようだ。
そお~っと玄関を開け家の中へ入っていく。茶の間からテレビの音が聞こえてきた。
襖一枚あければそこに家族が5人いる。ここまでくれば襖を開けるしかなかった。
明日千葉へ帰るまでの我慢だ。ここは自分のいる場所じゃない

「ああ~、びっくりするじゃねえか、たかしいつ帰ってきたん?」
かあちゃんが声をかけてきた。
みんなもびっくり振り向いたが、2~3秒でまたテレビのほうに顔を向けた。
夕食は終わっているようだった。父ちゃんの姿がない。
風呂場から浪花節の歌が聞こえる。浪花節は父ちゃんの機嫌の悪い意思表示なのだ。
「とうちゃん、お風呂に入っているん?」
「うん、そろそろ出る時間だよ。たかし、ご飯は食べたんか」
「うん、まだ食べてない」
「じゃあ、ちょっと待ってろ、用意すっから」
「あんまり食べたくないよ」
「あれ、おめえ少し酒くせえな」
「加藤のとこで、少しウイスキーを飲ませてもらったんだよ」
「たかし、先に家のほうに来なけりゃダメだぞ。父ちゃんにすぐ謝れよ」
「うん、ちょっと加藤と約束があったんだよ」
母ちゃんは早く結果を聞きたいようだった。

母ちゃんが小声で聞いてきた。
「それで、あれどうだったんだ」
「うん、受かったよ」
「へえ~、よかったじゃねえ、おじさんには連絡したんか?」
「うん、まだ。明日にでも竜舞に行ってみたいんだけど」
「おじさん日曜日はいると思うよ。それで、両国の会社は見てきたんか?」
「うん、安田さんという人にも会ってきた。寮に入れてくれるって」
「それで、いつからにするんだ」
「今の工場を25日で辞めて、3月26日からに行く事に決めたよ」
「お金は足りるんか?」
「うん、何とかなるよ」
「父ちゃんにも、ちゃんと話さなけりゃダメだぞ」

テレビを見ていた兄弟がこっちを向き始めた。
母ちゃんと意味のわからない事を話しているので、関心を持ったようだ。
姉ちゃんが聞いてきた。
「なに、たかし。今のとこ辞めて新しいとこへ入るん?」
「うん、早稲田に合格したんだよ」
「早稲田? 聞いた事があるよ。いいとこへ入ったな。そこ給料はいくら出るん」
「ちがうよ、大学に合格したんだよ」
「なに、早稲田っていうとこの事務員か何かになるんじゃないんだ」
「うん、文学部の日本文学科に入ったんだよ」
「へえ~、そこたかしでも入れるんだ」
「一応試験があったよ、そこへ合格したんだよ」
「へえ~大学へ入ったんだ。じゃあお金がかかるんべ、そんなお金はなかんべに」
「少しお金をためたんだよ、あとはアルバイトでなんとか頑張るよ」
「ねえちゃん、今年結婚するから、お金はねえど」
「うん、大丈夫だよ。心配すんなよ」
「へえ~、たかしが大学か。じゃあ、よかったにな」
「ねえちゃんの旦那になる人の弟がアルバイト先の会社にいたぞ」
「えええ~、嘘だろう、あの東京に行ったていう子がか?」
「ほんとだよ、弟は宮田次男って言うんだろ?」
「うん、明日宮田さんと会うから聞いてんべ」
「うん、宮田さんによろしくって言っておいてくれる」
「いいよ、結婚式が11月16日だから忘れんなよ」
姉ちゃんは、今年でこの家とはおさらばっていう感じで冷静だ。


兄ちゃんが、ちょっと不満そうに言ってきた。
「たかし、それじゃ仕送りはどうするん?」
「う~ん、ちょっと無理かな~」
「アルバイトしながら大学じゃあ、毎月の仕送りできねんじゃねえか」
「うん、大学卒業したら仕送りをするよ」
「おめえ、そんな事いったらとうちゃんに怒られるぞ」
「だって、どうしても行きたいんだよ」
「今なあ、こんなボロ屋じゃ恥ずかしいからって、みんなでお金を貯めてるんだぞ」
「じゃあ、あんちゃんなんでいつもパチンコするん?」
「馬鹿!小遣いが少ねえから、パチンコで稼いでいるんだよ」
「そんな事できるわけねえよ、お金を捨てるようなもんだよ」
「うるせえ、勝手なこと言うんじゃねえよ。大学なんて遊びと同じじゃねえか」

やっぱりこうなると思っていた。
兄ちゃんも大学なんて遊びに行く所だと思っている。母ちゃんは黙って聞いている。
弟がニヤニヤしながら話してきた。
「あんちゃん、嘘つくなよ」
「嘘じゃねえよ」
「あんな所へ入れるわけねえよ」
「それが入ったんだよ、もう合格通知もきたよ」
「もしかしたら、家に仕送りをしたくないから嘘ついてるんじゃねん」
「うるさい、おめえは、黙っていろ!」
「えへへ、俺は4月から北海道の自衛隊に行っちゃうからいいけどさ」
「おめえは仕送りするんか?」
「行ってみないとわかんねえ、いくらかできるんじゃねえ」
弟も自衛隊へ行くといって、体裁のいい家出をするようだ

お風呂に入っている父ちゃんの浪花節が止んだ。
「たかし、いいか。とうちゃんにも今の事ゆっくり話してみろ」
「うん、やだな~。かあちゃんから話してもらえないかな」
「自分のことは自分で話せ」

父ちゃんがお風呂から出てきた。ムットした顔をしている
父ちゃんの顔はあまり機嫌がよさそうではなかった。
狭い家なのでお風呂場はすぐそばにあった。
家が斜めでお風呂の戸がちゃんと閉まらない。
今の会話が聞こえていたかもしれなかった。
父ちゃんが浴衣に着替えている間緊張が高まってきた。

小学校の頃までの父ちゃんは優しかったなあ~。
貧しい事なんかひとつも気にならなかった。
楽しい思い出がいっぱい胸の中にある。
兄弟の中で一番自分が可愛いがられている気がした。


中学の頃、私が夢中で本を読むようになってから急に厳しくなってきた。
自分の息子が文字だけの本を読むなんて父ちゃんには理解できないのだ。
父ちゃんが裸の写真が載っている雑誌を隠れて読んでいるのはバレている。
家族はみんな知っている。怒られるから誰も本人に言わないだけだ。

父ちゃんがテレビの正面の特等席に座った。ムットした顔のままタバコを吸い始めた。
家族全員が緊張感に包まれている。父ちゃんは煙草を1cmくらいの長さまで吸う。
吸い終ると、残ったタバコの中身を取り出して徳用マッチの空き箱に入れる。
そのマッチ箱に入れたキザミをキセルに詰めて吸っている。
小さい頃はその作業がかっこいいと思っていた。
今はつまらない事をしているなという気持ちになっている。
親よりも子供のほうがだんだん変化してきている。

父ちゃんは親の威厳を保つように静かに話しかけてきた。
「たかし、今日は休みなんか?」
「うん」
「会社はちゃんと行っているんか?」
「うん、だけど今月で辞めるよ」
「辞める?何があったんだ」
「4月から大学に行くよ」
「大学って、どういうことだ」
「大学の入学試験に合格したよ」
「おめえ、親に黙ってそんなことする奴がいるか」
「うん、だけど自分で決めたことだから」
「じゃあ、生活はどうするんだ、とうちゃんそんな金は出せねえど」
「アルバイトをしながら行こうと思っているんだけど」
「それじゃあ、家の仕送りはどうするんだ?」
「大学卒業したら、できるだけいっぱい仕送りするよ」
「たかし、おめえ、そうやって自分だけがよければいいんか」
「そうじゃないけど、俺にもやりたい事があるよ」
「じゃあ、給料を殆ど家に入れている姉ちゃんや兄ちゃんはどうなるんだ」
「うん、そういわれても」
「ちっとは家の事を思ったことはあるんか?」
「悪いなとは思っているんだけど」
「おめえは、一人だけ楽をしようっていう了見か」
「そうじゃないよ、勉強ってそんなに楽じゃないよ」
「大学なんて遊び見てえなもんじゃねえのか、大学へ行って何ができるんだ?」
「先生になりたいと思ってるよ」
「おめえが先生なんかになれる訳ねえじゃねえか」
「やってみないとわかんないよ」
「今までやっと苦労しておまえを育ててきたんだぞ」
「わかっているよ」
「とうちゃんが、どのくれえ苦労したのか知ってるんか」
「うん、どこの親だって親ならみんなそうしているよ」
「おめえ、とうちゃんに意見しようっていうんか」
「だってこれじゃあいつまでたったって貧乏だろ~」
「この野郎、親に向かってそんなことを言うんか」
「卒業したら、それまでの仕送り分をまとめて払うよ」
「うるせえ、先生なんて仕事がそんなお金を稼げるわけがねえ」
「父ちゃん、お金なんてもう心配ないだろ、みんな働いているんだから」
「このばかやろう、理屈ばかりこねやがって、本ばっか読んでるからそうなるんだ」
話がややこしくなってきそうだった。

かあちゃんが横から口を出してきた。
「とうちゃん、一人ぐらいこうゆんがいたっていいじゃねえか」
「おめえは黙っていろ、おめえはこの事を知ってたんか?」
私が原因で夫婦喧嘩が始まりそうだ。
母ちゃんも口では負けない。それでいつも夫婦喧嘩になる。
「親なら誰だって子供が考えている事くらいわかるよ」
「じゃあ、何にも知らなかった俺はどうなんだ」
「たかしがみんな自分でやるっていうんだから、いいじゃねえか」
「馬鹿やろ~、たかしは高校だって昼間行ったんだぞ」
「もう大学へ合格しちゃったんだからさ、ほめてやりなよ」
「高校で充分じゃねえか、高校だってやっと行かせたんだ」
「父ちゃん、もういいだろ~、好きなようにさせなよ」
「みんなが我慢しているんだ、たかしだけがいい思いをしていいんか」
「たかしだって、頑張っているんだよ。体使うだけが能じゃねえよ」
「何言ってんだおめえは、俺のことまで馬鹿にするんか?」
「とうちゃん、ちょっと頭を冷やしなよ。子供はみんなそれぞれだよ」
「家を建てようってみんなで頑張ってるんだ、たかしだけが遊んでいていいんか」
「とうちゃん、勉強って遊びじゃないんだよ」
「馬鹿、頭で飯が食えるか」
「そんなこと言っているからいつまでも貧乏なんだよ」
「うるせい、もういい、好きなようにしろ」
「とうちゃん、明日競艇でも行って気晴らしでもしな」
「おめえ、子供の前で何言うんだ」
「あたしも4月から働きに出るよ、生活も少しは楽になるよ。それでいいだろ」
「馬鹿、五十ババアを使ってくれる所なんてどこにもねえよ」
「あたしにだって、その気になればあるんだよ」

ああ~あ、俺が原因で夫婦喧嘩が始まった。
他の子供達は、聞いていない風をしてうつろにテレビを見ていた。
テレビでは、「夜のヒットスタジオ」をやっていた。
移り変わるテレビの画面がむなしく見えた。

みんなだんまりして下を向き、夫婦げんかの様子を聞いている。
貧しいのはお金だけではなかった。心の貧しさが一番この家族を不幸にしている。
競艇なんかやめなよと父ちゃんにお説教はできない。大変なことになる。
もう覚悟は決めてある。だめなら父ちゃんの前から永久に消えていくだけだ。
ただ、それは最後の手段にしたい。

恐る恐る父ちゃんに声をかけた。
「とうちゃん、明日俺を一緒に競艇場に連れてってくれよ」
「たかし!おめえは何いい出すんだ」
「競艇って、お金が増やせるんだよね」
「それは、そういうこともあるよ」
「俺、少しお金持っているから増やしてくれないかな」
「馬鹿やろう、いつでも勝てるわけじゃあねえよ、損することもあんだよ」
「でも父ちゃんは、お金を捨てに行っている訳じゃないんだよね」
「あたりめえだ、増やそうと思っているから行ってるんだ」
「じゃあ、俺にも買い方教えてくれる?」
「おめえ、お金が増やしたいんか?いくら持ってるんだ」
「ここに22万円あるけど。大学に行くにはあと5万円足りないんだ」

先輩の野村さんに5万円借りることは口が裂けても言えなかった。
父ちゃんの一番嫌いなことだった。それを言えば殴られる。
「なにい~~~、そんなに貯めたんか?おめえどうやって生活していたんだ」
「俺も頑張っていたよ。入学金やなんかでどうしても27万円必要なんだよ」
「馬鹿やろ~ダメだ!そんな大事な金を競艇に使う奴がいるか」
「でも、本命っていうのを買えば確実なんだろ」
「いつも本命がくるわけじゃねえよ」
「じゃあ、千円買って5万円くらいにすることはできる?」
「そのくらいの穴なら1日に何回か出るよ」
「じゃあ、明日連れってくれる、22万円も使わないから」
「あたりめえだ、とうちゃんだって1日に千円くらいしか使わないんだぞ」
千円だけなんて嘘に決まっている。だけど今は言えない。
「じゃあ、千円だけでいいからやらせてくれる?」
「千円だけならな、損してもしらねえど」

母ちゃんが押入れの中から風呂敷包みを出してきて炬燵の上に置いた。
家族全員がその薄汚れた風呂敷に注目した。
大事そうに風呂敷を開けて、中から茶色い封筒を取り出した。
「たかし、5万円足りないんか?」
「うん、大丈夫だよ、何とかするよ」
「たかし、これ使え。7万円くらいあるはずだ」
「どうしたん、これ!」
「かあちゃんのへそくりだよ、内職のお金を少しずつ隠しておいたんだよ」
「いいよ、自分で何とかするよ」
「使っていいよ、父ちゃんに見つかったらどうせ競艇に使っちゃうんだから」
「いいよ、もう、先輩に借りることになってるよ」と口が滑ってしまった
「たかし、この馬鹿やろ~、他人様からお金なんて借り奴がいるか」
「どうしても大学へいきたいんだよ」

母ちゃんが大事そうに封筒からお金を取出した。
茶封筒にはよれよれの千円札とシワだらけ百円札が10枚毎に重ねられていた。
父ちゃんが目を丸くしている。
「なんだ、これおめえ」
「あたしのへそくりだよ」
「何してんだ、俺に黙ってこれだけ貯めたんか。俺の金じゃねえのか」
「内職のお金の一部だよ。父ちゃんの稼ぎだけじゃ生活できないよ」
「おめえ、いつも金がねえ、金がねえって言ってたじゃねえか」
「とうちゃんは子供らが病気なんかしたらどうする気だったんだよ」
「そん時は俺が何とかするよ」
「できるわけねえだろ~、急に金が必要な時だってあるんだよ」
「いつから貯めていたんだ」
「たかしが高校へ入った時からだよ」
「まったくおめえは、馬鹿なんだか利巧なんだかわからねえな」
「だから、体を使うだけじゃダメだっていうんだよ」
「うるせえ、馬鹿やろ~、俺にも少しよこせ」
「ああ、父ちゃんにも千円やるから、たかしと二人で競艇でも行ってきな」
「じゃあ、増やしてやるからあと5千円よこせ」
「馬鹿言うんじゃないよ、食いたいもんも食わずに貯めたんだ」
「俺をだましてたんだな。金がねえ、金がねえって。半分俺によこせ」
「ふざけんじゃないよ。これ以上1円だって無駄に使わせないよ」
「どいつもこいつも、俺の知らねえ所で勝手なことばかりしやがって」
「父ちゃん、もう子供は親の思い通りにはいかねんだよ」

かあちゃんの何年間かの苦労が茶色い封筒に入っていた。
朝から晩まで働いても1ヶ月に4~5千円にしかならない内職代だった。
その中から毎月少しずつ貯めていたんだ。
父ちゃんが毎回競艇に使っている金額を、母ちゃんはへそくりにして貯めていた。
「かあちゃん、こんな大事なお金貰えないよ」
「あげるっていってないよ、貸すんだよ」
「でも、悪いよ。みんなで家を建てるんだろう」
「たかしな、お前が高校の時母ちゃんに渡してくれたアルバイト代があったろう」
「うん、あれは授業料の足しにしたんだろ」
「あの金もこの中に入ってるんだよ。安心しな」
「そうだったんか、じゃあ5万円だけでいいよ」
「みんな持ってけ、貸すんだからな、卒業したら必ず返せよ」
「うん、わかった、でも、そんな大事なお金使えないよ」
ねえちゃんの目が少し赤くなっていた。

家族みんながしんみりしてしまった。ねえちゃんがテレビのスイッチを切った。
「たかし借りとけよ、ねえちゃんも少しくらいならへそくりがあるど」
「うん、でもいいよ結婚するんだろ~・・・・・」
兄ちゃんがむっとした顔で言いだした。
「おめえは次男だからいいな、好きなことができてな、長男は損だよな」
「うん、卒業したら少し多めに仕送りするよ。あんちゃんそれでいいだろ~」
弟がニヤニヤしながら小さい声で囁いた。
「あんちゃん借りちゃえよ、他人から借りるんよりいいど」
兄弟もみんな私の大学入学を認めてくれたようだ。

家族が貧しさから少しずつ抜け出し始めている。
心の豊かさも少しずつ変化しているような気がした。
この家族の運命が変わろうとしている。
「とうちゃん、じゃあ明日連れてってくれよ」
「馬鹿らしくて競艇なんか行く気がなくなったよ」
「かあちゃんに貰った千円だけやってみれば」
「たかしは競艇なんかするんじゃねえど」
「わかっているよ、一度競艇っていうのも経験してみたいんだよ」
「じゃあ、一度だけだぞ。千円だけだぞ」
「うん、とうちゃんも千円だけなんだろ」
「いちいち子供が親に口だすんじゃねえ、風呂にでも入って早く寝ろ」

競艇でお金を捨てるように使ってみれば、父ちゃんの考え方が変わるかもしれない。
父ちゃんが「もうやめろ」というまで使うことに決めた。
大事なお金だが1万円の損は覚悟した。
これで父ちゃんが変わるとは思わないが、せめてもの父ちゃんへの抗議だった。
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