第17話 予想外な送別会での事

文字数 6,508文字

この工場でのすべての終わりが近づいている。
保全課の休憩室では伊藤主任が待っていた。
「早川、早くしろよ、今正門にタクシーを待たせてあるから」
「はい、あと着替えれば終わりです」
「じゃあ、先に行っているからな」
「はい、すぐに行きます」
ヘルメット、作業服の上下、安全靴をロッカーに入れた。。
これですべてが終わりになった。もうここへ来る事は永遠にない。
ロッカーにも頭を下げたい気持ちだった。

正門の間には、1台の黒塗りのタクシーが待っていた。
タクシーには苦手な岸野さんとさらに恐そうな根来さんが乗っていた。
私は運転席の横に座った。今晩の送別会で本当にすべてが終わりになる。
あと2~3時間ですべてが終了する。伊藤主任が運転手さんに告げた。
「八幡宿の菊屋さんていう料理屋までお願いします」
「送別会は菊屋さんていう所に行くんですか」
「うん、あそこからなら社宅まで近いからな」
「何時ごろ終わるんですか」
「始まる前から終わる時間なんて聞くんじゃないよ」
「ああ、すみません」
「今日はおまえが主役なんだから、帰れないかもしれないぞ」
「ええ、明日は日曜日だから少しくらい遅くても大丈夫です」
「今日は岸野と根来がおまえに話しがあるって言ってるぞ」
「な、なんですか」
「おまえに言いたい事があるんだって」
「私何か悪い事をしましたっけ」
「よ~く、胸に手を当てて考えてみな」
「最後の日なんですから、脅かさないで下さいよ」
「まあ、行ってからのお楽しみだな」

岸野さんが後ろから声をかけてきた。
「早川、おめえ宴会のあと何か約束でもあるんか」
「いいえ、特に予定がありませんけど・・・・」
「じゃあ、ちょっと話があるから宴会が終わったら帰んないで待っていろよ」
「何かあるんでしょうか?」
「ちょっと言いたい事があるんだよ」
「いまじゃだめですか?」
「こんな所で話せるかよ」
「二人だけでですか?」
「根来先輩も一緒だよ」
「ええ、私が何か気に入らない事でもしましたっけ」
「宴会が終わってから話すよ」
「何か気に触った事があるなら今謝らせてください」
「馬鹿、宴会が終わったあとの楽しみにしておけよ」

伊藤主任はニヤニヤしながら二人の会話を聞いていた。
最後の日に殴られるんは嫌だなあ。伊藤主任はなぜニヤニヤしているんだろう。
後ろから根来さんがドスの聞いた声で話しかけてきた。
「早川、こいつがおまえに話があるんだってよ」
「今じゃダメなんですか?」
「岸野がおまえとさしで勝負をしたいんだとさ」
「すいません、ちょっとでもいいから訳を聞かせて下さい」
「いいから、黙ってついて来いよ、いいとこへ連れてってやるから」
「私、伊藤主任と一緒に帰りたいんですけど」
「親分の許可もちゃんと取ってあるよ」
「根来さんも、一緒なんですか」
「そうだよ、俺はただの見届け人だよ」

恐くなって体が寒くなってきた。
「伊藤主任、許可って本当ですか、主任も一緒に来てくれませんか?」
「若いもん同士で話をしろよ、俺は土井係長と月世界に行くんだよ」
「じゃあ、みんなでそっちに行きましょうよ」
「早川、大丈夫だよ、命まで取られはしないよ」
「まいったなあ、宴会へ行くのやめたくなりましたよ」
「岸野も根来もあんまり早川を脅かすんじゃないよ」

タクシーが止まり目の前には菊屋の看板がライトに浮かび上がっていた。
送別会なんてどうでもいいような気になってきた。
最後の日に岸野さんとやりあうなんて考えてもみなかった。
原因とすればあの秋芳洞のお土産だ。岸野さんには特別に1箱渡した。
「いつも岸野さんには特別にお世話になっていますので」といって渡した。
自分では日頃の感謝にと思っても、相手を傷つける事があるんだろうか。
互いに心を開いていないと。何をしても悪く取られるのか?
あの蹴とばされたことが、関係しているのだろうか。謎が解けない。

今日の送別会は自分が主役だった。逃げるわけにはいかない。
料理屋の玄関の格子戸を開け中に入って行った。
案内された部屋の襖を開けるとすでに出席者全員が揃っていた。
部屋の正面には3人分の席が並んでいた。
私はその真ん中に座らされた。右には伊藤主任、左には土井係長が座った。
岸野さんと根来さんは出口に近い方の席にいる。
私が途中で逃げられないように見張られているような気がした。

隣では土井係長の挨拶が始まった。
頭の中は岸野さんの事でいっぱいだった。何か解決策ないかどうか考えた。
どうせ殴られるんなら痛さを感じなくなるまで酔っ払ってしまおう。
これが最後なら少しくらい痛くてもいいかという気持になってきた。
それにしても伊藤主任の態度が理解できなかった。
あれだけ二人に脅されているのにニヤニヤしていた。

宮原さんは窓側のほうの席の一番前に座っていた。
隣には職場の先輩の千葉女史が座っていた。
今日くらいは宮原さんに優しい言葉の一つや二つかけようと思っていた。
岸野さんのことでそんな思いはぶっ飛んでしまった。
とにかく早く酔ってしまおうと思っていた。

伊藤主任の乾杯の音頭が終わった。会場は一気に賑やかになった。
「早川、次はおまえだ、ほら立って挨拶しろ」
「はい、先にオシッコしてきていいですか」
「まったく、この場に及んで度胸がないんだから、早く行ってこい」
また、篠原さんが「オシッコたかしぃ」とはやし立てた。
続いて全員がいっせいに「オシッコたかしぃ」を合唱した。
「ションベン小僧」から少し格が上がっていた。
慣れていたので前の歓迎会の時のような恥ずかしさはなかった。
慣れは人の心を鈍感にする。

オシッコから帰って襖を開けると宴会場はシーンとしていた。
宮原さんが花束を持って待っていた。天敵、岸野さんが泣いている。
伊藤主任が食べていた料理の手を止めて立ち上がった。
「それでは、今日の主役、オシッコたかしぃからお礼の挨拶です」
伊藤主任に教えられた通りの簡単な挨拶をした。

  『保全課の皆さん、1年間ありがとうございました。
   短い間でしたが本当に楽しくやってこられました。
   今日で退職しますがこのご恩は一生忘れません。
   特に岸野先輩には優しく叱咤激励して頂きました。
   岸野さんありがとうございました』

岸野さんの事は即興だった。
少しでも印象を良くしておきたいという気持ちが働いた。
殴るにも手加減してもらえるだろうと打算が働いた。
挨拶が終わると、宮原さんが正面にきて花束を渡してくれた。
今日は花束を貰うのは2回目だった。花束を貰った瞬間一斉に拍手が沸き起こった。
「この花は私が選んだの、早川君、花言葉って知っている?」
「へえ、これ何ていう花?」
「薄いピンクの花がカーネーションで白いのがマーガレット」
宮原さんは小さな声で一言残して席に戻っていった。

「おお挨拶できたなあ、やればできるじゃないか、何で岸野にゴマすったんだ」
「だって、なんか恐いですよ、伊藤主任も一緒に来て下さいよ」
「心配すんなよ、あいつだって悪い奴じゃないんだから」
「だけど、恐いですよ。私の身にもなって下さいよ」
「つまんない事言っていないで、今日はみんなの所に行って酒ついでこい」
「はい、じゃあ行って来ます。私の料理食べないで下さいね」
「俺がお前の料理なんて食べるわけないだろう。ほら、早く行け」

酒とビールを持って、それぞれの所へ注ぎに回った。
短い1年だったがそれぞれの人とそれぞれの思い出ができていた。
一人ひとりに酒を注ぎに回っても、話題に苦労する事はなかった
注いだり注がれたりを繰り返し相当な量を飲んだ気がする。
伊藤主任の所へ戻ってきた時は1時間くらい経っていた。
早く酔わないとぶたれたら痛い。目の前にあったビールやお酒をぐいぐい飲んだ。
緊張しているせいかそれほど酔いは回らなかった。

宮原さんはほんのり赤くなって目がトロ~ンとしてきている。
あの無防備な目を見ると近づきたくなる。
「ねえ、宮原さん、あの花の花言葉って何、教えて?」
「いやですう。自分で調べてよ」
「じゃあいいよ、調べる頃には枯れちゃうよ」
「寮に帰ったら、ビンにさしてお水あげてね」
「今日は帰れるかどうかわからないよ」
「ええ、どこへ行くの、私も連れてって」
「残念ですが男同士で行くとこだよ」
「本当に早川君て、天然ボケみたいね」
「ありがとう、俺ってそんなに素朴かな」
「もう、いいいわよ、あっちに行って」

宮原さんには最後まで優しい言葉をかけてあげられなかった。
こっちからが優しい言葉をかけてたなら急に発展したと思う。
臆病で小心者の私は、気恥ずかしいので本音が言えない。
断られたらどうしようと言う気持ちが働いてしまう。
宮原さんとは縁がなかったと思うしかない。

宮原さんの横の鈴木女史の右隣には同期の市原がいた。
市原は彼女に振られてから元気がなくなっていた。
「市原、どうしたん、ほら飲めよ」
「早川はいいな、悩みがなくって」
「市原は世渡りがうまいし度胸もいいし、悩みなんてないと思っていたよ」
「馬鹿いえ、あれは表面だけだよ、俺だって根は小心者だよ」
「本当かい。人ってさ顔や言葉ではわからないな」
「これからは、早川みたいなニヤニヤしたのがはやるんだろうな」
「誰だって岸野さんや根来さんみたいな、おっかねえ人の所へは行きたくないよ」
「見てみろ早川、あの岸野さんが下を向いて泣いているぞ」
「どうしたんだろ?」
「早川が泣かしたんじゃないのか?」
「俺にそんな事できるわけがないよ」
「さっき、早川が挨拶で岸野さんの事をほめたろ~、あれだろ」
「何か気にしちゃったんかな、叱咤激励ていう言葉が悪かったんかな」
「お前行って様子を見てこいよ、岸野さんは伊藤一家の先輩だろ」
「恐いよ、酔って何されるかわからないよ」
「おまえ今日が最後だろ、何があったっていいじゃないか」

度胸を決めて岸野さんの所へお酒を注ぎに行った。
隣にはもっと恐い保全課の番長の根来さんがいる。
岸野さんの目は真っ赤になっている。泣いているのか酔っているのかわからい。
「岸野先輩、本当にお世話になりました」
「うるせ~、バカヤロー!」
「一杯やってください」
「いいよ、あっちに行けよ」
岸野さんが相手にしてくれない。このままじゃもっと酷い事になりそうだ。

根来さんが横から声をかけてきた。
「早川、ほっとけ」
「どうしたんですか?」
「岸野は泣いてんだよ、おめえが泣かしたんだぞ」
「ええ、私は何もしてないですよ」
「早川がさっき挨拶で岸野をほめたからだよ、それにこの間お土産やったろ」
「ええ!腐っていたとか、何か悪いものでも入っていたんですか」
「馬鹿、そうじゃねえよ お前それ本気でゆってんか」
「じゃあ、何で私が岸野さんを泣かせたんですか?」
「だからさ、さっきみんなの前で岸野にお世辞を言っただろう」
「いや、あれは本当の事です」
「こいつな、人相も悪いし口も悪いから誰にも優しくされた事がねえんだよ」
「そんな事ないでしょう」
「こいつは人に褒められた事もないんだよ」
「岸野さんには良く仕事を教えてもらいましたから、そのまま言ったんです」
岸野さんは厳しかった。怒りながらも教えてくれた。
あとでまた怒られるんが嫌で、言われた事は心の中で何回も復唱した。

「おめえ、自分からは岸野に話かけた事はなかったろ」
「ええ、ちょっと恐いかなっと思って言われた事だけをしていました」
「それで、おまえに嫌われていると思っていたんだよ」
「ちっともそんな事思っていませんでした」
「岸野にお土産なんか渡すからさ、ちょっと胸が熱くなったんだろ」
「いつもお世話になっていたからです」
「そいでさ、今度早川と一緒に飲みに行きてえって相談されていたんだよ」
「えぇ~、ほんとですか、」
「あと岸野がお前のことを思い切りけったろ~、あれも謝りたいんだって」
「あれは私が、タバコの火と電灯の灯を勘違いしたんです。すいません」
「おれもさ、だれだって(ひ)と言われりゃータバコの火だと思うよな」
「私もその場ですぐに聞けばよかったんですけど、怖くて聞けなかったんです」
「まあいいよ、あとまで遺恨を残しておきたくねえからな」
「じゃあ、自分をっ最後に殴るわけじゃないんですね」
「さあ、その場にならないと何が起こるかわかんねえよ、あいつも気が短いからな」
なんとなくだが少し安心できた。

岸野さんと根来さんは高校の先輩と後輩の間柄だった。
高校時代は二人とも相当な悪だったと噂されていた。
「そうなんですか、私はてっきり殴られるんかと思っていました」
「岸野がさ、二人じゃ恥かしいから、俺にも一緒に来てくれってさ」
「早くそれを言って下さいよ、こっちは恐くて冷や冷やしていましたよ」
「俺もそのほうが面白えから、そのままにしておいたんだよ」
「だから、伊藤主任がニヤニヤしていたんですね」
「うん、親分もみんな知っているよ」
「まいったな、そうだったんですか」
「お土産のお礼に3人で月世界に行って、真面目な早川をからかおうって」
「あれ、月世界は伊藤主任も行くって言っていましたね」
「おじさん達とは別行動だよ、あんな所で説教されたんじゃかなわねえよ」

お互いに表面だけで判断していた。
人は思い込みで優しくなったり意地悪になったりしてしまう。
先輩の根来さんに促されやっと岸野さんが顔を上げた。
小さな目がまだ涙で濡れていた。

人はみな優しさに弱い。優しさには優しさで返ってくる。
「早川、今日の2次会はみんな俺が持つからな」
「悪いですよ、岸野先輩、割り勘で行きましょうよ」
「お前のそういう所が嫌なんだよ、今日は俺におごらせろよ」
「はい、じゃあお願いします。いくら飲んでもただなんですね」
「早川、お前って本当にわかんねえな。冷たいのか優しいのか」
「私が冷たいって思っていたんですか」
「早川は、俺の事を嫌いだと思っていたよ」
「嫌いじゃないです、恐くて声をかけられなかったんです」
「話かけてこなけりゃ、誰だって無視されたと思って勘違いするよ」
「じゃあこれからは岸野さんにこっちから話しかけるようにします」
「もう遅いよ、お前明日からいないんだろ」
「岸野さん、早くその月世界っていう所に行きましょうよ」
「調子がいいなお前も、ただだと思うと安心してさ」
安心した途端に酔いが回ってきた。

酔って朦朧とした中で送別会が終了した。

岸野さん、根来さんの3人で千葉のキャバレー月世界に向かった。
タクシーの振動と暖房の暖かさで酔いは最高潮に達していた。
タクシーがどこをどう走ったかわからなかった。

月世界のボックス席に座った時には、月の世界を遊泳しているような気分だった。
ジャズバンドの音が耳に残っている。
ステージではテレビで見た事のある売れない歌手が歌っていた。
ステージの天井では赤や黄色や青いランプがくるくる回っていた。
私の隣には化粧の濃いこんもりと太った、お化けのような女の人がいた。
その女の人の胸の膨らみが異様に大きかった。触ったかもしれない。

岸野さんや根来さんと何を話したか覚えていない。
二人とも酔った私を面白がってからかっていた。
隣のお化けも一緒になって私をからかっていた。
「岸野先輩、この隣のお化けは誰ですか?」
「馬鹿、お前に付いたホステスだよ」
「もっとかわいい人がいないですか」
酔っぱらって好きなことを言っていたようだ。
もうろうとした記憶の中で面白おかしくからかわれていた。
殴られるより良かった。安心して気持ちがフワーっとしてよく覚えていない。

途中で離れた席にいた伊藤主任と土井係長がこっちの席にやってきた。
5人が合流し3次会は「紫煙」というスナックに行った。
「紫煙」は小さなお店だった。5人が横になってカウンターに座った。
「紫煙」はシェ~ンとした静かな所だった。

その後の事は覚えていない。
気が付いた時には独身寮の自分の部屋にいた。
布団も敷かずに畳の上にうつぶせになっていた。

目が覚めた時、あたりは明るくなり始めていた。
窓ガラスが朝焼けでオレンジ色になって輝いていた。
机の上の目覚まし時計は午前6時なろうとしていた。

コーラス部で貰った花束と、送別会で貰った花束が机の上にあった。


マーガレットの白い花びらが、窓から射し込む朝の光に映えてきれいだった。
この花はこの寮に残していく。花言葉も知らないままでいい。




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