第1話 千葉から東京の両国へ

文字数 4,165文字

3月6日 月曜日
朝9時に両国にあるアマリリスという会社に電話をした。
アマリリスは洋服の装飾品を作る会社だった。
そこの協力工場でアルバイトをする予定になっている。
総務課の安田課長さんに連絡をいれ午前11時に会うことになった。
会社は両国の日大講堂のすぐそばにある。駅から歩いて2~3分の所だった。
駅前には大衆食堂、パチンコ屋、喫茶店、麻雀屋、病院などが並んでいた。
町並みはあまりきれいとはいえなかった。東京の下町と言われるところだ。
相撲部屋もあった。震災記念堂も隅田川の近くにあった。
この薄汚れた下町の雰囲気が自分には合っているような気がした。


2度目の訪問なので要領がわかってきた。前回来た時の事務員も顔を覚えていてくれた。
「早川様ですね、お待ちしていました」
「はい、安田課長さんにお会いしたいんですけど」
「はい。伺っております。2階の応接間でお待ち下さい」
事務員さんは2階に案内してくれた。前もって電話しておくと事がスムーズに運ぶ。
今回は2~3分で安田課長さんが応接間に現れた。

「おう、どうだった」
「はい、おかげ様でやっと合格しました」
「おかげ様か、俺は何もやってないけど少しは世渡りがうまくなったようだな」
「はい、ほんとうにおかげ様です」
「馬鹿の一つ覚えもいいもんだ、まあいいか」
「よろしくお願いいたします」
「あんまり丁寧に言われるとやりづらいな」
「すみません気をつけます」
「いんだよ別に、気楽にしなよ」
「はい、そうさせて頂きます」
「うん、じゃあここでアルバイトという事でいいんだね」
「はい、お願いします」
「まず、寮の事なんだけど。4階の寮の大学生が今年卒業できなかったんだよ」
「そうですか、そうすると私の住む所がないんですか?」
話が難しくなっているようだった。大部屋でもいいから何とか住ませてもらいたい。

安田課長はポケットからタバコを出して吸い始めた。
1~2分の沈黙の時間があった。不安が増してきた。
「一本吸うかい?」
「いいえ、私はタバコを吸いません。あの~、大部屋でも充分ですけど」
「まあ、そう話を急ぐなよ」
「あ、すみません」
「夜間高校へ行っている者が二人いるんだよ、その二人を一緒にする事にしたよ」
「いいえ、私が二人部屋になります」
「それじゃ、向こうがやりづらいだろ」
「私が一人部屋じゃ、先に住んでいる人に悪いですよ」
「元々寮は二人で一部屋なんだよ」
「そうなんですか」
「だから早川君も、そのうち誰かと一緒になることもあるよ」
「はい、それはかまいません。気を使って頂いてありがとうございます」
「二人とも両国高校の夜間に行っているから、時間的にもちょうどいいんだよ」
「ほんとうにすみません、ありがとうございます」
「二人ともそのほうがいいってさ、新しいのと一緒に住むより気が楽だってさ」

安田課長さんは私の気持ちの負担にならないように気を使ってくれている。
ここを紹介してくれた天田のおじさんが色々事情を話したようだった。
昨日も一緒に天田のおじさんと酒を飲んだと言っていた。
私が入学金を貯めていていることや生活を切り詰めている事も知っている。
田舎のうちが貧乏なのもわかってくれているようだった。

「すみません、何から何までお世話になります」
「こっちだって仕事をしてもらうんだからお互い様だよ、いつ頃から来るんだい」
「3月25日は退職しますので、その日の夜には移りたいんですけど」
「今年の新入社員もその日くるからちょうどいいや」
「荷物はどのくらいあるんだい」
「布団と本と蛍光灯くらいです」
「じゃあ、いくらもないな、スバルサンバーで大丈夫そうだな」

引っ越しの際の手配まで心配してくれている。
なぜここまで他人のお世話を考え付くのだろう。
私には信じられない性格だった。これが生まれの違い、生活環境の違いかもしれない。
将来これが自分にも出来るだろうか。
まさか引っ越しまでお世話になるわけにはいかないと思った。
「荷物は運送屋さんに頼むつもりでいます」
「うん、早川君の親戚になる宮田っていうんがいるだろ」
「はい、この間聞きました、夜間高校へ行っている人ですね」
「そいつがさあ、千葉の早川君の住んでいる寮へ迎えに行くってさ」
「悪いですよ、そこまでしてくれるなんて、夜間高校はどうするんですか」
「高校はもう来週から休みになるんじゃないかな」
「本当にいいんですか?」
「宮田は免許取立てなんだよ、運転したくてたまらないんだよ」
「ええ?大丈夫ですか、危なくないですか。千葉までは50kmくらいありますよ」
「それがいいんじゃねえか、何事も練習だよ」
「はい、恐いですけど贅沢はいえません」
「あとで挨拶しておくといいよ、今1階から呼ぶから」
「はい、お願いします」
「じゃあ、寮の件はこれでいいな」

何気ない会話の中からでもその人の気持ちや考え方が伝わってくる。
安田課長さんからは優しさと気遣いが伝わってきた。
会話は言葉と心が同時進行している。
だから、きつい言葉で言われても腹が立たないことが多かった。

「次は、仕事の件なんだけど」
「はい、何でもします」
「大学は3時ごろ終わるよな」
「はい、特にクラブに入らなければ3時までだと思います」
「早川君、営業のほうを手伝ってくれねえかな」
「私が営業ですか?う~ん私にできますか」
「うん、簡単な仕事だよ。商品の運搬や得意先の在庫の補充だよ」
「車の免許は持っていませんけど」
「荷物は小さいから自転車で充分だし、大きな荷物は先輩と車で一緒に行くんだよ」

この頃の経済は高度成長ですべての業種が活気に溢れていた。
この会社の商品はボタンや服飾資材で小さなものが多かった。
得意先は横山町問屋街、神田や新宿の服飾資材問屋等が多かった。
問屋街は地方から出て来る仕入業者のために、夜9時頃までは普通の営業時間だった。
問屋さんはその日に在庫が少なくなった商品をメーカーに電話で発注してくる。
注文を受けた商品は当日か翌朝の開店前までには届けなければならない。
そのため、この会社の社員は夜10~12時は当たり前のように働いている。


安田課長は私のために仕事の内容まで考えてくれていた。
「成型工場で毎日機械を相手に単純な仕事をするよりも、そのほうがいいだろう」
「はい、何でもやります」
「文学を志すんなら、人の動きのある仕事のほうがいいよな」
「はい、そうさせて下さい」
「大学の月謝はいくらなんだい?」
「月、1万円です」
「手取りでどの位になるかなあ、1日5~6時間働いて月2万円弱だろうな」
「充分です。住む所と食事さえあれば何とかなります」
「食堂のおばちゃんが日曜日には休むから、日曜日は食事がないよ」
「大丈夫です。パンでも即席ラーメンでもなんか買って食べます」
「若いっていいな、夢があって熱があってな、羨ましいよ」
「安田課長さんもまだ若いんじゃないですか」
「俺はもうすぐ40歳だよ、毎年夢が一つずつ無くなっていくよ」
「どんな夢が無くなっていくんですか」
「結婚すると、自分の勝手気ままには行かないよ」
「そうですか。結婚って自由がなくなるんですか」
「うん、そのうち早川君にもわかるよ」
「そうですか」
「じゃあ、今宮田君を呼ぶからこのままここで待っていてな」

安田さんは次から次へと問題を解決していく。
頭のよしあしは覚えた知識よりも判断力と決断力のほうが質が高い。
私が数学の問題を解くように、安田さんは身の回りに起きる問題を解決していく。

アルバイト先、住む所、仕事、収入が決まってひと安心した。
新しい人生のスタートの日となった。小さな応接間が身近に感じ始めた。

安田さんが宮田さんを応接間につれてきた。
「どうだ、この早川君が宮田君の弟になるんだって」
「へぇ~、初めて聞いた。おれの兄貴が結婚するん?」
「そうなんです。お正月にうちに来てそう言ってました」
「ええ?おれまだ聞いてねえよ。お正月にはうちに帰ったんだけどな」
「今年の11月ごろって言っていました」
「へえ、んじゃ、俺と親戚になるんだ」
「はい。よろしくお願いします」
「ふ~ん、おめえだったんか、今度寮に入ってくるって言うんは」
「はい。お世話になります」

宮田さんは友達のような感じで声をかけてくれた。
宮田さんは群馬弁丸出しで話してくる。親戚になる事は本当に心強い気がした。
他人とは思えなかった。明るい性格で遠慮なく話をする人だった。
「宮田君、仕事はいいから、早川君を少し案内にしてくれるかい」
「はい、いいすよ」
「じゃあ、早川君、3月25日な、待っているよ」
「はいよろしくお願いします」
安田課長さんが応接室から出て行った。

宮田さんは興味深そうに私を見回していた。
「へ~、早川って言うんだ。下のほうは何て言うん?」
「早川、孝史です」
「じゃあさ、俺のほうが2年上だからさ、たかしでいいか?」
「はい、それでいいです」
「じゃあ、たかし。こっちへ来いよ」

2階の応接間を出ると狭くて薄暗い廊下があった。
右に1部屋、左に2部屋あった。入り口の扉は小さくて薄かった。
「左が貿易部と食堂。貿易部って言っても一人でやっているんだけどな」
「貿易部もあるんですか?すごいすね」
「すごかねえよ、まだ出来たばっかりで何にもしてねえよ」
「あと、右のこの部屋が賄いの浅井さんが住んでるんだよ」
「ああ、食事を作ってくれているんですか?」
「ヒステリー気味のおばちゃんだから気をつけたほうがいいど」
「はい、注意します」
「名前は浅井さん。北海道から出てきたんだって」
宮田さんは右の奥にある食堂を案内してくれた。食堂の中は真っ暗闇だった。
宮田さんは入り口のボタンで食堂の電気をつけた。電気をつけてもまだ薄暗かった。
4人掛けのテーブルが2つ並んでいた。
正面にはテレビが1台。奥には小さな台所と食器棚があった。
正面のガラス窓の外は真っ暗で隣のビルのコンクリートの壁が見えていた。

「こないださ、朝飯に前の日の残りのカレーが出たんだよ」
「カレーは大好きです」
「またカレーかって言ったら、じゃあ食べなくていいって取上げられちゃったよ」
「ああそうですか、気をつけます」

ここにも色々な人生のルールがあるようだ。
前の会社から比べると千分の1にも満たない企業だが私には似合っている。
会社が小さければ小さいほど先行きの人生が楽しみになる。
私の人生と、この小さな会社の未来が重なって見える。

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