第8話 父ちゃんと覚悟の対決

文字数 5,207文字

3月18日(土)
家を出てこれで3回目の帰省となる。去年の今頃は高校の卒業式だった。
あれからたった1年で生活も気持ちも信じられないほど変化があった。
家出をしたことは間違いではなかった。

熊谷駅でアンパンを買って牛乳を飲んだ。これからはお金を節約しなければ。
月末までに入学金と授業料を振り込まなければならない。
一人旅は思い出にして、また普段の生活に戻らなければならない。
財布の中には22万円以上入っている。
大学入学には3月の給料と野村さんから借りることになっている5万円で足りる。
3月31日までに銀行に振り込めば入学確定となる。
自分で使えるお金は残す所8千円位となった。
新しいアルバイト先の給料日は毎月25日だ。野村さんへの返済金の1万円は使えない。
お金の苦労は覚悟している。やるしかない。

12時半頃には加藤の家に着いた。奥の子供部屋から麻雀をしている音が聞こえた。
玄関の横から裏庭に回りガラス戸を叩いた。
「加藤いる!」
「おお、早川か、入れよ」
廊下のガラス戸を開けて子供部屋に上がりこんだ。兄弟3人で麻雀をしていた。
「あれ、渡辺はどうしたん」
「都合で夕方になるんだって」
「麻雀って3人でできるん?」
「うん、できるよ、4人のほうが面白えけどな」
「今日、親はいねえん?」
「親父はまだ仕事、おふくろは村岡さんちに遊びに行っているよ」
「そうか、村岡さんちか」
「早稲田合格したんだってな、よかったなあ」
「うん、やっとだよ。渡辺の参考書に助けられたよ」
「おかげで、文敏が東大に落ちちゃったぞ」
「滑り止めの明治に合格したんだって」
「うん、本人は不満なんだけどな」
「それで、どうするん」
「うちじゃ浪人はできないよ」
「明治じゃ入学金や授業料高いだろう?」
「私立の中じゃ安いほうだよ」
「じゃあ、行くことに決めたんだ」
「うん、やっとな、なあ文敏?」

文敏はまだ納得していないような表情だった。文敏が麻雀をしながら返事をした。
「しょうがないよ、親や兄貴に行かせて貰うんだから」
「どうやって通うん?」
「親父の姉ちゃん夫婦が湯島に住んでるから、そこに4年間下宿しろって」
「よかったじゃねえ、住む所と食べることが心配なくなって」
「うん、やっと決心したよ。早川君も早稲田合格したんだって。おめでとうだね」
「あと、お金を払えば確定だけどな」
「親父がさ、働きながら勉強している早川君を見習えだって、言葉が返せないよ」
「まいったな、俺を引き合いに出したんだ」
「でも、僕なんか幸せだと思ったよ、みんな親がやってくれたからさ」
「そうだよ、親に感謝しろよ」
「いつまでも、東大、東大って言ってられないよ」
「明治だって、いい大学じゃないか」
「早川君にほめられちゃ何も言えないよ、早川君はだいぶ苦労したんでしょ」
「俺んちはもともと貧乏だから、苦労なんて感じなかったよ」
「だけど、惜しかったよ。予備試験では東大の合格圏以内に入っていたんだけどね」
「いいじゃないか、運命はどう転ぶかわかんないよ」

下の弟のチャーボーが、待っていたように話しかけてきた。
「早川君、おめでとう。尊敬しちゃうよ」
「お世辞いうんじゃないよ、チャーボーは勉強が嫌いなんだろう?」
「そうでもないよ、勉強なんてその気になれば簡単だよ」
「おお、強気に出たな。じゃあ工業高校を卒業したら東工大でも目指せよ」
「エヘヘ、それほどでもないよ。勉強は高校で充分だよ」
「まあ、チャーボーは明るいからどこへ行っても成功するよ」
「そうかな~、明るくしているのは表面だけだよ、俺だって悩みはあるよ」

チャーボーは4月から工業高校の電気科に入学する。
将来は富士重工に勤めてサラリーマンになると言っていた。
まだチャーボーの悩んだ顔を見たことがなかった。
「へ~、チャーボーにも悩みがあるんだ?」
「あるにきまってるよ、それじゃあまるで俺が馬鹿みたいじゃね~」
「そんなことはねえけど、人間は素直で明るいんが一番だよ」
「まいったな、俺は頭じゃなくって性格で勝負か」
「そうだよ、人間はその人なりの取り柄を伸ばしていけばいいんだよ」
「早川君、いっぺんに大人になったみてえじゃん」
「馬鹿、同じ高校の先輩を冷やかすんじゃねえよ」
「ああ、そうか早川君は俺の先輩になるんだ、じゃあ今度早川さんって呼ぶよ」
「やっと気がついたか、先輩にはさんを付けろよな」
「えへへ、わかったよ。よし、早川君も麻雀やろうよ」
「早川さんだろ~」
「麻雀じゃあ俺のが先輩だよ。これから教えてやるからさ」
「まあ、どっちでもいいよ。俺も麻雀覚えてみるかな」
「そうだよ、もう受験勉強しなくていいんだろ」
「そうだな、これでやっと好きなことができそうだよ」
「でも学費は自分で稼ぐんだろ~」
「それは、当たり前だよ。自分のことぐらい自分でしなくっちゃな」
「ほれ、ちーあに~、早川君見習えよ」
話の矛先が文敏に向いていった。仲がいい兄弟で羨ましかった。

「チャーボ―、俺だってアルバイトくらいするよ」
「ちーあに~は、小遣い稼ぎ程度だろ」
「馬鹿いってないで、早川君にお茶でも入れて来いよ」
「は~いだ、早川君ちょっと待っててな、今お茶持ってくるよ」

加藤が途中でチャーボーに声をかけた
「チャーボー、ウィスキーもってこいよ、今日は合格祝いだみんなで飲もう」
「えええ、俺も飲んでいいん?」
「チャーボーはダメだよ、まだ高校へも行ってねんだから」
「いいじゃん、少しくらい。お祝いなんだから」
「ちょっとだけだぞ、こないだ貰ったナポレオンを開けるか」
「やった~、前から飲みたかったんだよ」
「じゃあ、コップ4ッつとなんかおつまみ買って来いよ」
「村岡のおばさんに貰ったチョコレートでいいんじゃない」
「あ、それでいいか。少し麻雀は休憩すっか」
加藤の兄弟は自由に好きな事を言い合っている。こんな兄弟になりたかった。
私の家はみんな余計な事は言わない兄弟だった。ちょっととした事で口喧嘩になる。
加藤の家庭との違いは親にある気がする。親の仲がよければ子供の仲がよくなる。
これも両親の心の豊かさからきていると思った。心の豊かさも代々連鎖する。
この連鎖も断ち切らなければならないと思った。
こんな家庭にしたい。父親の気持ち一つで貧しくても仲のよい家庭はできる。

「早川、どうする。明日さあ、村岡んちにでも行ってみるか」
「いいよ、俺しばらくはゆっくりするよ」
「そうだよな、大学ってけっこうお金がかかるんべ。どこでアルバイトするん」
「おじさんの行っている会社が両国にあるんだよ、そこで住み込みだよ」
「へえ~、いいとこ見つかったんだ」
「うん、また食事付きの寮なんだよ。知ってるアマリリスって?」
「ああ、あそこか。飯塚のバス停の所にある成型工場だろ」
「うん、そこの販売会社が両国にあるんだよ。そこで荷物の運搬さ」
「よかったじゃねえ、じゃあ、またなかなか帰ってこられねえな」
「うん、盆暮れ正月くらいかな」
「そうだよな、女の事なんて言っちゃいられないよな」
「そりゃ、興味はあるけど自分のことで精一杯だよ」
「早川、村岡さんのことは好きってわけじゃないんだ」
「うん、まだ彼女はいないから興味はあるけどな」
「村岡さんさあ、早川からあんまり連絡がないから、諦めたん見てえよ」
「夢中で勉強していてさ、つい忘れちゃうんだよ。縁がなかったみたいだな」
「そうか、じゃあ小中はどうなんだい?」
「そっちはもう憧れみたいなもんで、現実味がないよ」
「そうか、まあ東京でもいいんがいるだろうから、あわてることはないよな」
「そうだな、まだ二十歳前だもんな。加藤はどうなんだ、ほらあの田村さん」
「結婚式が決まったよ、来年の2月8日に呼ぶから来てくれよな」
「へえ~、二十歳の誕生日にか。やったな、建築会社の跡継ぎだな」

加藤は自分とは別の形で新しい人生が始まっている。
長男だが婿として迎えられ建築会社の跡継ぎとなる。
来年からは加藤も主役としてのドラマが開幕する。
加藤は楽しそうだった。相思相愛の相手と結婚ができる。
私が大学卒業の頃には可愛い子供の父親になるだろう。
「小さい会社だよ。早川、披露宴の友人の挨拶頼むな」
「ええ、おれがかあ、できるかなあ」
「なんでもいいよ、つまんないこと話すなよ」
「うん、何か考えておくよ」
「早川、式の時間に遅れんなよ」
「うん。それはいいけど。あとさ~小中さんて今何してるん」
「俺もよく知らねえけど、彼氏ができたみたいだぞ」
「へ~、誰からきいたん?」
「うん、地獄耳の村岡のおばさんが言ってたよ」
「やっぱりな、あいつきれいだったもんな」
「好きなんだろ、あの時言っちゃえばよかったんだよ。チャンスをだったのにな」
「いいんだよ、俺には片思いのほうが似合っているよ」
「そうだな、そのほうがいいかもな」
「彼女は身近な人の中から見つけるるよ」
「そうだな、近くにいなけりゃ意味ないもんな」

心の中では動揺していた。聞かなければよかった。
知らないほうがよかった。運命は停止して待っていてくれない
文化祭の時一緒に歩いたあの日の姿だけを思い出にしようと思った。

麻雀を再開した。チャーボーが私の牌を覗き込みながら教えてくれた。
「早川君、何でも3つずつ揃えればいいんだよ」
「何も書いてないんがあるけど」
「それは、シロって言うんだよ。3つ集めると役になるよ」
「この中って書いてあるのは?」
「それはチュンっていうんだよ。わからないときは捨てているだけでいいからさ」
「うん、チャーボー教えてくれるのはありがたいけどさ、早川さんって言えよ」
「いいづらいよ、なんか他人みたいでさ」
「他人だよ、先輩だよ」
「まあ、いいじゃない。あ、早川君それロン!」


二人の兄貴が文句を言う。
「チャーボー、おめえそれずるいよ。隣を見ながらやれば誰だって勝てるよ」
「いいじゃん、遊びなんだから」
「ば~か、夕飯代は負けたもんが出すんだぞ」

教えてもらいながら見よう見まねでやっていた。
2時間くらい経つと一人でやれるようになってきた。
時間が経つのを忘れるほど面白くなってきた。このままずっとここに居たかった。
だんだん日が暮れてきた。辺りが夕焼けで赤くなってきている。
家に帰らなければならない。地獄の一丁目に帰るようで気が重かった。

「早川、家に電話してあるん?」
「うん、夕方には帰るって電話してあるんだよ」
「じゃあさ。あとで渡辺が来るからさあ、それまでやっていなよ」
「うん、そうだな、渡辺は何時頃来るん?」
「6時頃じゃねえかな、それまでゆっくりしろよ」
「渡辺にもお礼をしなくっちゃな」

予定通り渡辺が6時頃やってきた。いつもはむっつりした渡辺が笑顔で入ってきた。
かろうじて合格したことで、渡辺に少し近づけたような気がした。
「おお、早川どうだった」
「うん、何とか合格したよ。あの参考書助かったよ」
「あれ、よかっただろ、だけど本人の努力が一番だよな」
「これ、お土産。たいしたもんじゃないけど」
「いいんだよ、気にすんなよ。悪いなあ~貰っておくよ」
「渡辺ほんとにありがとな、じゃあ、俺そろそろ帰るよ」
「もう、帰るん、ゆっくりしていけよ、久しぶりに会ったんだから」
「まだ家に帰ってないんだよ、また来るよ」
加藤もそれ以上引き止めなかった。
「じゃあな、早川、また明日にでも来いよ」
「うん、時間があったら連絡するよ」
「まだうちに行ってねんだろ~、早く帰った方がいいよ」
もう少し引き止めてくれれば夜遅くまでやっていたかった。

夕方の7時ごろだった。後ろ髪を惹かれる思いでやっと加藤の家をあとにした。
これで家に帰ることが決定的となった。
父ちゃんになんて話を切り出すか考えながら歩いて行った。
あと5~6分で家に着く。父ちゃんが帰っている時刻だった。

合格の事はまだ家族の誰も知らない。
兄ちゃんも姉ちゃんも俺が大学に受験した事だって知らない。
自分だけが幸せになった気がして兄弟には言いたくなかった。
自分だけが貧しさから抜け出したような気がして後ろめたかった。

父ちゃんは早稲田が有名な大学だということは知らない。
国立ならまだしも私立の大学なんて信用していない。
学校の教科書を読む事さえ遊びだと思っている。
「遊んでばかりいねえで、少しはかあちゃんの内職を手伝え」とよく言われた。
その遊びを将来の職業にするなんて理解できるはずがない。

父ちゃんとひと悶着起きるかもしれないと思った。もう俺は子供じゃない。
なんと言われても後に引くわけにはいかない。
怒られたら今日にでも家を飛び出してしまおう。覚悟を決めた。
もう一人で生きられる。俺の将来は俺が決める。父ちゃんにだって邪魔をさせない。
気持ちは強気になったが父ちゃんを目の前にすると体がすくんでしまう。
今までもそんな繰り返しが多かった。

今日は何か起こりそうだ。家に近づくたびに足が重くなってきた。
家の灯が見えてきた。足が先に進まない。気が小さいのは学習では治らない。

こんな事にまで覚悟を決めなければできない自分が哀れだった。
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