第2話 免許取立ての宮田さん

文字数 5,787文字

両国の社員寮の生活のルールはまだ続く。
「ああ、それとな、食事は出来るだけあとからにしたほうがいいぞ」
「どうしてですか?」
「席が少ないだろ。先輩達が食べ終わってからにしないとまずいんだよ」
「気をつけます」
「味噌汁の具なんか、殆ど無くなっちゃうけど、しょうがねんだよ」
「食べられるだけでも嬉しいです」
「おかずだけは一人ずつ皿に持ってあるから安心しろよ」
「普段の日は朝昼晩食事があるけど、日曜日は浅井さんが休むんで食事無しだど」
「日曜日は何を食べるんですか」
「会社の前に喫茶店があるから、そこでモーニングが多いな」
「モーニングってなんですか」
「ああ、しらねん。トーストとコーヒーとゆで卵に野菜サラダだよ」
「へえ~、ハイカラですね」
「ハイカラって何だよ」
「西洋風って言うんですかね、うちの母ちゃん使ってましたよ」
「どんな時につかうん?」
「ええと、茶色く染めた変な髪型の人に、ハイカラな髪ですねって言ってました」
「へえ、けっこう知ってるじゃねえ」

だんだん宮田さんに慣れてきた。食堂を出るとすぐ先に狭くて急な階段があった。
「次は、4階の寮でも見てみるか」
「はい、お願いします」
「あとさ、浅井のおばちゃんさ。門限を勝手に決めちゃってさ」
「門限なんてあるんですか?」
「うん、11時過ぎると下の入り口の鍵を閉めちゃうんだよ」
「そういう時はどうするんですか」
「外から電話するんだけどさ、なかなか起きてくれないんだよ」
「合鍵は持ってないんですか?」
「それは、ダメなんだって」
「起きない時はどうするんですか?」
「隣のビルの非常階段から登るんだよ」
「ええ、恐いですね」
「冷や汗もんだよ、そしてさ、この4階の屋上に飛び移るんだよ」
「わ~~、信じられないです」

4階から直接屋上に行った。隣のビルとの間は20cm位ある。
そのビルの非常階段とこの会社の屋上は密着していた。
屋上には胸の高さくらいの金網のフェンスがある。
「ここ、こわいだろ~」
「足がすくみますね。これを飛び越えるんですか」
初めて会ったのに兄弟のような雰囲気で話をしてくれる。
仕事のうえでも先輩になる。いい人にめぐり合えた。
母ちゃんから竜舞のおじさんへ、おじさんから安田課長さんとつながってきた。
安田課長さんから宮田さんへと運命は歯車のようにつながっていく。

屋上からは両国の街並みが一望できた。目の前に青いドームの日大講堂があった。
路面電車の線路や電線も見える。


「あの日大講堂な、大相撲や、ボクシングのタイトルマッチなんかもやるんだぞ」
「へ~、まだ見た事がないです」
「あと、煙突が出ている風呂屋の隣に2階建ての建物が見えるんべ」
「はい、あそこのエントツのところですか?」
「あれストリップ劇場なんだよ。普段は日活ロマンポルノの映画をやっているぞ」
「面白そうですね」
「まだ、見たことなかんべ」
「ええ」
「今度、ゆっくりしたら連れてってやるよ」
「ええ、ほんとですか、高いんでしょ」
「いくらでもねえよ、最初だけはおごってやるよ」
「うわ~、冒険がいっぱい出来そうですね」
「うん、楽しみにしていなよ。そろそろ部屋でも行ってみるか」

屋上から狭い階段を下りて寮の部屋の前に来た。
安普請のドアを開けると6畳くらいの畳の部屋があった。
部屋は薄汚く畳は黄色から茶色に変色していた。
南の窓を開けるとすぐ下には2階建ての染物屋の屋根があった。
その先の右手には2階建てのアパートが見えた。
「ちょっと部屋は汚いけど、寝るには問題ないだろ」
「雨がさえ漏らなければ充分です」
「ところが、雨が漏るんだよ。壁のコンクリにヒビでも入ってるんじゃねえかな」
「コンクリートのビルでもですか」
「けっこう安普請なんだよ」
「そういう時はどうするんですか?」
「ビニール袋に手ぬぐいを入れて、漏る場所に置いておけばいいんだよ」
「そんないっぱい漏るんじゃないんですね」
「天井から少し落ちてくるくらいだよ」
「寝るとこさえあれば充分です」
「そのかわりさ、面白い事があるど」
「なんですか?」
「あのアパートな、武蔵屋っていう料理屋の女子寮になっているんだよ」
「ええ、そうなんですか」
「夜10時ごろから続々女の子が帰ってくるんだよ」
「ええ、それからどうなるんですか」
「あそこで着替えが始まるんだよ」

うわ~、ドキドキするくらいの環境がここにある。
宮田さんの話はどこまで本当なんだろう。今までの自分の世界にはない事ばかりだ。
「こないだは、おっぱいまで見えたぞ」
「ええ、うっそでしょ。それを覗いているんですか?」
「あったりめえじゃん。ドキドキするよ」
「見つからないんですか」
「たまには見つかるよ」
「見つかったらどうなるんですか」
「気の弱い女はすぐにカーテン締めるけどな」
「そりゃそうですよ、まずいですよ」
「気の強い女は窓から‘何してんのよ’って怒鳴ってくるよ」
「うわ~、自分にはできないですね」
「馬鹿いうな、男だったら誰だって見たくなるよ」
「きれいな子がいるんですか?」
「みんな若くてピチピチしてるんばっかりだよ。一人しなびたんもいるけどな」
「信じられない、色んな楽しみがあるんですね」
「うん、スリルがあって面白いぞ~。」

この頃、おっぱいと聞くとドキドキして嬉しくなる自分が恥ずかしい。
住む人や環境でこんなにも生活が違ってくる。
自分の中には真面目な心と不真面目な心が同居している。
自分がどこまで抑えられるか心配になってきていた。

「あと、入社したらな、お祝いにロンドンかハリウッドに連れてってあげるよ」
「あまりらかわないで下さいよ、いくらなんでもそこまではできないでしょ」
「たいした金はかからないよ、まだ錦糸町って行った事ねん?」
「何だびっくりしましたよ、ロンドンやハリウッドって錦糸町にあるんですか?」
「知らなかったん?有名だよ、まだキャバレーって入ったことねんだろ?」
「一度だけ、千葉のパイイチという所へ行った事があります」
「なにそれ、変な名前、そんなん知らねえよ」
「自分、ああいう所はまだ合わないと思ってるんですけど」
「まあ一度ついて来いよ、病み付きになっちゃうから」

宮田さんは次から次へと面白い話をしてくる。
生活が変わると環境が一変する。人は環境によって品格が変わる。
もしかしたら今までできなかった明るい性格になれるかもしれない。
おとなしい子で通してきた性格が、改善できるかもしれない。
部屋の汚さなんか気にならなくなってきた。

「ところで、今日はこのあとどうするん?」
「ええ、今日は勤めている会社の夜勤があるんです。午後5時からなんですけど」
「へえそうなんだ、場所はどこ?」
「千葉県の市原市に寮があって、そこからバスで行くんです」
「今2時か、よし、その寮まで送っていってあげるよ」
「いいですよ、遠いですから」
「会社の寮が船橋にあるんだけど、そこには何回か行った事があるよ」
「ええ、まだ船橋よりずっと先になります」
「安田さんに3月25日にサンバーで迎えに行ってくれって言われているんだよ」
「そういえば安田課長さんが言ってましたね。すみませんよろしくお願いします」
「うん、初めての遠距離なんでちょっと場所も見ておきたいんだよ」
「本当にいいんですか、電車で帰ろうと思っているんですけど」
「じゃあ、車を取ってくるから1階で待っててくれる」

宮田さんは嬉しそうに勢いよく階段を下りていった。
まだ免許取立てと言っていた。初めての遠距離とも言っていた。
何かあったらやだなあ。これも運命と思ってあきらめるしかないか。
ほんとうは電車で行きたかった。そのほうが安全で確実で早い。
複雑な気持ちだったが人の親切のほうを優先しなければならない時もある。

宮田さんは会社の前の道路の脇に水色の小さなワゴン車を止めた。
自分の運命があの小さな車の中にある。運を天に任せるしかない。
覚悟を決めるか。決心はこういう時にも使わなければならなかった。

両国の会社を2時頃に出発した。
「よおし、いくぞ」と宮田さんは自分に気合をかけた。
車は両国橋から京葉道路に出て日大講堂の横を通り千葉に向かった。
小さな車は道路の凹凸がそのまま伝わってくる。体が小刻みに揺れ乗り心地が悪い。
車内は天井が低く足も窮屈だった。人がそのまま道路を走っているような感覚だ。
宮田さんのアクセルとブレーキの操作がそのまま体に伝わってくる。
京葉道路は片側3車線で右にも左にも車が密着していた。
前のトラックとの車間距離も狭く生きた心地がしなかった。


錦糸町から亀戸を抜け荒川の橋を渡った。
トラックやバスと一緒に走る小さなワゴン車はまるで子供のようだった。
宮田さんは夢中で運転している。宮田さんが色々話かかけてくる。
相槌くらいであまり話しかけられない。前方に神経を集中してもらいたかった。
道路はトラックや営業車で混み合っていた。周りの景色を見る余裕はなかった。

車が何度も信号で止まる。寮に4時頃まで辿り着くか心配になってきた。
工場にはまだ一度も遅刻をしたことはなかった。
社宅前を4時半に出るバスに乗り遅れたらどうなるのだろう。

車は江戸川橋の橋の前で渋滞している。
車を運転している宮田さんの表情に余裕がない。時計の針は3時を過ぎている。
「船橋まではわかるんだけどさ、その先にまだ行った事がねんだよ」
「地図はありますか?」
「う~ん持ってねえ、何とかなるよ」
「自分も良く知らないんですけど、大丈夫ですか」
「寮の住所は知ってるんだろ」
「それはわかりますけど・・・」
「じゃあ、大丈夫だよ。わかんなけりゃ人に聞けばいんだから」
「4時半までには着きそうですか」
「う~ん、着くんじゃねん。俺だって初めてだからよくわかんないよ」
宮田さんは楽天的だった。あまり先の心配はしないタイプだ。

渋滞の中を小刻みに進む。車は時々エンストをした。
「この車、なんか調子が悪いんな」
「そうなんですか」
「水野さんのクラウンを借りてくればよかったかなあ」
車の運転を知らない私でも運転操作が悪いような気がする。
親切で送って貰っているのに、それは言ってはいけない事だ。

習志野を通り幕張を抜けると、渋滞が終わり車がスムーズに走り出した。
「よ~しいくぞ」
宮田さんはアクセルを踏み込んだ。けたたましいエンジンの音が直接体に伝わる。
車内の時計は4時近くになっていた。あと30分しかない。
どうしても間に合わなければ、寮で作業服に着替えて、工場まで送ってもらう。
私はいつも先の事を考えている。慎重でおとなしい。宮田さんとは性格がまるで反対だった。
千葉から曽我を抜けた。道路には所々に案内標識があった。

「おお、ほら見てみろよ、市原市の名前が出てきたぞ、よかったなあ」
「ああ、ほんとだ、助かった」
「俺も一時どうなるかと思ったよ、案外簡単だったな」
「ここならバスから見たことがあります。次は辰巳団地のほうへ向かって下さい」
「じゃあ、あとはまかすぞ、言ってくれ」
「はい、あの信号を左に曲がって下さい」

寮には4時15分頃到着した。
「すげえ社宅だな、何人くらい住んでいるん」
「う~ん、数えた事ないですけど、200人以上いるんじゃないですか」
「でっけえ会社は違うなあ、俺もこんなとこへ住んでみてえな」
「じゃあ、自分の部屋を見ていって下さい。1階の127号です」
「うん、確かめていくか」
「ここです、俺トイレに行ってきますから、ちょっと待ってて下さい」
「俺も行く、ションベン漏れそうだよ」

食堂の横を通るとき、賄いの伊藤さんが声をかけてきた。
「早川君どうしたの、お昼まだ食べてないんでしょ?」
「ええ、ちょっと用事があって東京まで行って来ました」
「ダメじゃない、言っていかなくっちゃ、このお昼どうするの」
「あの~、私はもう出かけるんで、兄が食べてもいいですか」
「ええ、お兄さん来てるの?」
「ええ、東京から一緒に車で来ました」
「早くいいなよ、今、味噌汁温めるからね」
「すみませんお願いします」

1階のトイレに行き、二人で連れションをした。
「おれ、お兄さんか?」
「ええ、そうしておいて下さい。説明をするには話が長くなりますから」
「うんいいよ、飯は俺が食べていいん?」
「お願いします。俺、今から工場行きのバスに乗ります」
「じゃあ、遠慮なく貰うよ。ちょうど腹が減ってたんだよ」
「食堂の伊藤さん。あの人いい人ですよ、娘も可愛いんですよ」
「うん、親切そうだな。うちの浅井さんとは比べものになんないな」
「ああ、食堂のおばさんですか、そんなひどいんですか」
「そのうちわかるよ、人ってそれぞれ違うんだなあ」

宮田さんは悪ガキが、好き放題の事をやっているような人だった。
あれだけ悪ふざけしていれば、食堂のおばちゃんの対応も変わるだろうと思った。
浅井さんだってきっといい人に違いない。誰だって人によって態度が変わる。

再び宮田さんを食堂に案内した。
「すみません、いつもこの弟がお世話になっています」
「あら~、あんたいい男だね。ゆっくり食べていきなよ」
「きれいな食堂ですね。じゃあすみません、遠慮なくいただきます」
あれ、賄いの伊藤さんは私と初めてあった時と同じような台詞を言っている。
宮田さんも軽快な会話で挨拶している。二人とも世渡り上手な感じがした。
「宮田さん、今日はこれで。今から工場へ行って来ます」
「うん、じゃあさ、25日は何時に来ればいい」
「ええと、夕方6時ごろでいいですか?」
「いいよ、6時な、もっと早く来られると思うけど」
「その時は部屋にいて待ってて下さい」
「オーケー、じゃあ仕事頑張って来いよ」
「食事ね、何杯お替りしても大丈夫ですよ」
「うん、好きなだけ食べるよ、早くバスに行っていいよ」
「どうも今日はありがとうございました」

宮田さんを食堂に残して工場行きのバスに乗り込んだ。
いつものバスの運転手さんだった。
「早川君、今月で辞めるんだって?」
「あれ、知っているんですか?」
「うん、総務の小池さんから聞いたよ」
「今月の25日で辞めます、お世話になりました」
「寂しくなるな、運ちゃんに声をかけてくれる人はあんただけだったよ」
「ああ、そうなんですか」
「嬉しいよな、挨拶だけでもしてもらうと。最初はジーンと来たよ」
運転手さんから小さな箱を渡された。
「ええ、何ですか」
「いいから、取っておきなよ、ベルトが入っているよ」
「ありがとうございます」

こんな所にも心の交流があった。たった一言の挨拶に癒される人がいる。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み