その2 子らよ、わたしに聞き従え

文字数 4,643文字

子ら、わたしに聞き従え。
主を畏れることを教えよう。(イザヤ書)

**

 ジャンヌ・ダークは、中世の女性の中でも、特に謎の多い人物らしい。
 片田舎の女の子が、「神の声」を聞いてやる気を出し、不遇の王太子を助けるべく鎧をまとい馬に乗って戦場に繰り出す。しかも勝利してしまう。
 (中二病チート物語を地で行くような展開……)

 夏もたけなわ、補習の日々を送っているはずなのに、わたしは数学よりもジャンヌ・ダークについて詳しくなってしまった。
 いつの日か役に立つこともあるかもしれないけれど、普通に生きていて、必要な知識化と言うと、決してそうではない。

 (ジャンヌちゃん……じゃなくて、ジャンヌ・ダークのことなら、わたしに聞け)
 たいていのことなら答えられる。
 もし、世界史のテストの内容が百年戦争に偏っていたら高得点を取る自信がある。手当たり次第に本を読みまくり、ジャンヌ・ダークのことなら手に取るように分かる。

 「大天使ミカエル」
 
 ジャンヌに憑りついて、ぼしょぼしょ良からぬことを耳元で囁いてゆく翼の人物。
 ジャンヌ・ダークはこの謎の霊魂の事を「大天使ミカエル」であると信じて疑わなかったそうな。

 もしかしたら本当に、あの翼のひとはミカエルさんという名前なのかもしれないが、名高い大天使ミカエルと同一人物とは思いたくはない。
 ちなみにわたしは、ジャンヌ関連と思ったら歴史本でなくても何でも読んでいる。文献で「大天使ミカエル」の名が出てきたので、天使大辞典を借り、読破した。
 だから、大天使ミカエルが天使たちの中でも抜きんでた存在であることも、巷の天使愛好家(と呼んで良いのか分からないが)たちから絶大な人気を寄せられていることも知っている。

 ミカエル。
 絵画では鎧をまとった、戦いに臨む姿で描かれることが多い。
 天使の軍団を率いる、もっとも偉大な天使のひとり。
 ジャンヌに戦場に赴くよう働きかけているのが彼ならば、なるほど、確かに強力なご加護を与えてくれるだろう。

 実際、史実でも、ジャンヌは大天使ミカエルから指示を受け、その言葉に従ってドン・レミーを出るのだ。そしてヴォークルールというところの守備隊隊長に、王太子のいるシノンまで向かわせてほしい旨を訴える。
 最初は相手にされなかったけれど、やがてとんとんと流れが変わり、ある日ジャンヌは鎧兜と馬を手に入れ、シノンに向かうことが叶うのだ。
 「頭の変な小娘」と嘲笑うばかりの守備隊隊長がジャンヌを信用する気になったのは、ジャンヌが戦いの予言をし、それが思いがけず当たったからである。
 ジャンヌは超能力があったのか、それとも「神の声」がその予言をジャンヌに与えたのか。

 (多分、天使がジャンヌちゃんに入れ智恵をしたんだ……)
 翼のひとがジャンヌちゃんにぼそぼそ囁いているのを目撃してしまった以上、わたしにはそうとしか思えなかった。
 (あンの野郎)

 考えるまでもなく、ヴォークルールの守備隊隊長に取り入ることができなかったら、ジャンヌちゃんはラ・ピュセルにはなりえなかったわけで。
 カミサマから王太子を救え、フランスを護れと命令されても、鎧もお馬も与えられなかったら、いくらジャンヌちゃんが頑張っても、シノンに行きつくことすらできまい。
 だけどわたしは、この純朴な黒い瞳の女の子が、これからどんな運命をたどり、最期がどんなものなのかも知っている。
 (余計な予言さえなければ、ジャンヌちゃんは生涯、ドン・レミーで平穏に暮らすことができたはずなのに)

 めー、んめー……。
 わんわん、うわんっ。

 羊の群れと犬とジャンヌちゃんは、原っぱを歩いている。空を見ると、日が傾きかけていた。
 そろそろうちに戻るのだろう。
 わたしは意を決して、走り出した。

 中世フランスの田舎村を、高校の制服で走る。それにしても、ジャンヌちゃんはなんて健脚なんだろう。ぼうっとしている間に、もうあんな遠くに行ってしまった。
 必死に走って、息が切れる。立ち止まっているうちに、どんどん羊の群れは遠ざかるので休めない。だかだか走り、やっと羊の群れの最後尾に近づいた時、地をかける疾風みたいな勢いで、煩いやつが飛んできた。

 「うわんわんわんわわわわ」

 ひぃ。
 足首に喰いつかれるところだった。

 羊の群れを追っているはずの犬が、わたしに向って歯茎を見せながら吠えている。
 飛びのくと、犬は前足を開き、体を低くして、ウーと唸った。戦闘態勢である。
 
 一方、ジャンヌちゃんは突然仕事から離れ、あさってのほうに向かって吠えている犬に気づいた。
 「こらっ」
 と、棒切れを振り回し、こちらに駆けてくる。健康的な素足が草原の土を蹴りあげ、黒い髪の毛が躍動的に跳ね上がった。

 「駄目じゃないの。さっきから何に向って吠えているの」
 犬を諫めているジャンヌちゃん。
 改めて近くで見ると、ずいぶん女の子らしくなった。華奢ではないが、すらっとして愛らしい見た目だと思う。
 
 一方わたしは、おそろしげな犬が、ジャンヌちゃんに怒られてしゅんとしてくれたので、安堵の溜息をついているところだ。
 こんな奴に咬みつかれたら、たまったもんではない。逃げたとしても、絶対に追いつかれてしまうだろうし。

 ジャンヌちゃんに頭をなでられて、犬は静かになった。けれど、視線はわたしから離さず、しつこく「ウー」と唸り続けている。ジャンヌちゃんは首を傾げ、あちこち見回した。
 「誰もいないわよ……」

**

 天使もそうだったではないか。
 ジャンヌちゃんは耳元で囁きかけられながらも、天使の姿は見えていなかったではないか。
 (姿を見ることができなくても、声を聴くことはできるのなら)
 
 わたしはおずおずと動いた。

 ジャンヌちゃんが犬を伴って、勝手に進んで行く羊の群れを追おうと背中を向けた。その肩に手をかけると、手のひらに小さい肩の温もりが伝わって、一瞬どきんとした。

 恐ろしい。
 こちらからは、ジャンヌちゃんの体に触れることができるらしい。
 ジャンヌちゃんは「んん」と首を傾げて振り向いたが、やっぱりわたしの姿は見えていない。眉をひそめて、何だったんだろう今の、と呟いている。足元の犬が、再び「ウー」と唸り始めていた。

 「なあに……」
 
 ジャンヌちゃんが、こちらに向いた。
 決して見えていないけれど、肩に触れられたことで、わたしが立つ方向が分かったのだろう。恐れるふうもなく、目を見開き、首を傾げている。

 「誰か、いるの」

 ざああ。
 風が一瞬強くなり、草原の草が一斉になびいた。
 ジャンヌちゃんは目を閉じて髪をおさえ、犬は目を見開いてわたしに飛びかかって来た。うわんわんうわんっ。

 「ぎゃっ」
 間抜けな声を立てながら飛びのいた。そこに犬が飛びかかってきたので、反射的に体を転がして避けた。一瞬前までわたしが尻もちをついていた場所に犬は飛び込み、悔しそうにこちらを振り向いて、また唸った。

 「シノンにいっちゃ駄目、さっきの声を真に受けちゃ駄目……」

 必死のあまり、ぽんぽんと言葉が飛び出した。
 あっけに取られ、ぽかんと口を開くジャンヌちゃん――良かった、聞こえているのか――わたしは更に叫ぼうとしたが、その時、ついに犬がわたしの顔の上に飛びついて来たのだった。

 「うわんわんっ」
 「ぬうわっ……」

**

 ぬうわっ。
 ぬうわっ。
 ぬうわっ……。

 壮絶な悲鳴は夏休み中の校舎に響き渡り、しばらくわんわんと反響が残った。
 
 15世紀フランスから夏休みの学校に戻って来たらしい。危機一髪だった。
 ばくばくと心臓が高鳴っている。わたしは確かに、あの猟犬の生臭い息をかいだし、血走った凶暴そうな目を至近距離で見た。あのまま噛まれていたら、ただでは済まなかっただろう。

 気が付くと、廊下で立ち話をしていた英会話部の女子たちが、目を剥いてこちらを眺めている。
 大丈夫か聖山。
 淡々と落ち着いたザビエル先生の声が近いところから聞こえ、ぎょっと息をのんだ。

 見ると、目の前にグレーのポロシャツの胸がある。恐る恐る上を見ると、ザビエル先生がこちらを見下ろしていた。
 わたしはどうやら、ザビエル先生に飛びついていたらしい。

 ざわざわと女の子たちが小声でなにか話し始めている。

 「なに今の」
 「っていうか、今まで二人で教室にいたわけ」
 「補習じゃない、聖山さん赤点だったらしいし」
 「あ、なーんだ、補習……」

 たぶんわたしは真っ青になっていた。心臓が走りすぎて苦しいのだ。赤面している場合ではない。
 慌てて先生から離れると、すいませんでした、と謝って小走りでその場を逃げた。
 その時、英会話部の女子たちの会話が、もっと鮮明に、より不穏に耳に飛び込んできたのだった。

 「確かに補習だったかもしれないけれど、こないだわたし、あの二人見ちゃったもんねー」
 
 いっそのこと、その瞬間足を止め、振り向き、変なことを言うな、イヤラシイ想像をするなと怒鳴ってやれたら良かった。
 だけど、わたしにそんな意気地はなくて、おろおろもたもたと怖気づき、ただ怯えながら逃げる事しかできなかった。
 一刻も早く、あの女子たちの視線の届かないところに行きたくて廊下を走っていたら、誰かにぶつかりかけた。

 「あらっ、聖山さん……」
 どうしたの、補習は終わったの。

 英会話部の仏田先生だ。あやうくぶつかりかけて、目を丸くしながら壁に寄りかかっている。
 わたしの顔を見て、綺麗な眉をひそめた。なに、どうしたの、何かあったの――わたしは答えずに走り出していた。そのまま外履きにはきかえ、校舎の外に飛び出した。

**

 校庭では、この暑いのに野球部が練習をしており、掛け声が響いていた。
 誰もわたしなんかに気付かなかったとしても、みんながわたしを目で追い、得体のしれない噂話をしているような――そんな気がしてならない。
 (どうかしている……)

 ザビエル先生と一緒に駅にいるところをクラスメートに見られたからと言って。
 悲鳴をあげて、たまたま飛びついたところにザビエル先生がいたからと言って。
 (変な噂を面白おかしく立てられて、良いわけがない……)

 どうして逃げてしまったんだろう。
 早足で歩きながら、自問自答した。校門を出て、町の中を歩く。すれ違うひとたちが、みんなわたしを見てクスクス笑っているような妄想に陥りそうになる。
 
 激しく落ち込みながら駅にたどり着き、電車に乗って町に帰った。
 グドドン、グドドンと揺られながら、無性に目が痛くなる。ぼたりと手に熱い水滴が落ちてきて気づいた。

 わたしは泣いていたのだった。

 (たとえ、わたしが何を言ったって、誰もわたしの言葉なんか聞いてはくれない)


**
 

 「なあに、誰かいるの……」
 あの時、ジャンヌちゃんは振り向いて、わたしの言葉を聴こうとしてくれていたっけ。
 
 電車に乗っている人たちの好奇の視線が怖くて、急いで涙をぬぐった。
 言葉を伝えたい。話を聞いてもらいたい。

 わたしは、心からそう願った。
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