その1 求めよ、さらば与えられん

文字数 5,084文字

求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。(マタイ福音書)

**

 8月になると、いよいよ夏休みも盛りに入った感がある。
 テレビを見ても、ラジオを聞いても、ちょっとそこのコンビニに行っても、あらゆるところが夏を主張している。
 通り過ぎる女の子たちの服装は鮮やかで、手足の露出も爽やかだ。

 海、山、友達、彼氏彼女!
 (めんどくさい季節……)

 かつて優等生と言われていた時期から、わたしは夏が嫌いだった。日差しは強いし暑すぎて体はにちゃにちゃになるし。中学に入る頃には、自分が天性のぼっちだと自覚していたけれど、夏休み目前になる度に、ぼっちは周囲が楽しそうに盛り上がるほどひねくれる者だと身を持って実感した。
 そうだ。ぼっちは、周囲が楽しそうにすればするほど、ひねくれる。
 
 クリスマスシーズンも嫌だけど、夏休みの時間の長さを思えば、まだ許すことができる。なにしろ夏は長い。よくみんな、こんな長い時間、疲れもせずにきゃらきゃら盛り上がって楽しそうにできると思う。

 まあ、わたしは性格もさることながら、補習と追試を受けざるを得ない現実が、余計に夏嫌いに拍車をかけていた。
 そりゃ一緒に遊びに行く誰かのアテがあるわけじゃないけれど――ちらっとママの顔が過る。ママは「神子ちゃんと遊びに行くの楽しみにしてるからね、お盆はおばあちゃんのうちに帰りたいし」と言って、わたしの補修が終わるのを今か今かと待ちかねているのだ――鮮やかで奔放な空気が蔓延する夏の間、一人だけ制服を着て、がらんとした校舎で、しかも数学の補修を受けなくてはならないというのは、あまりにもわびしかった。

 今日も補習である。
 おとつい、再々追試があったが、これまた見事に滑った。はんべそをかくわたしを、淡々とザビエル先生は見下ろし、「子羊に補習という祝福を」とかなんとか、笑えないジョークを言ってくれた。
 多分先生なりに、落ち込むわたしを立ち直らせようとしたのだろうけれど、全然効果はなかった。

 (ああー、毎日毎日数学の夏……)
 

**

 夏休みも二週間目が過ぎると、そろそろ色々と気づくことが出てきた。
 ジャンヌちゃんに関する白昼夢のことである。

 白昼夢はいつも唐突に、空気を読まずに出現するのだけど、まったく現れない日もある。どうやら、土、日は白昼夢が現れないようだと判った。
 それはつまり、補習がない日だ。
 言葉を変えると、補習がある日なら、百年戦争当時のフランスの白昼夢が現れるということだ。
 
 ところが、一度だけ、補習が休みの日なのに15世紀フランスの世界を見たことがあった。それは、大雨の中で教会に駆け込み、そこの牧師さんをしているザビエル先生と遭遇した日だ。
 (ザビエル先生と関わる日に、ジャンヌ・ダークの世界が現れる)
 一体、どんな原理だろう。

 キシャアアアア。
 補習に行くため、電車に乗っているが、この電車はカーブの時にものすごい音を立てる。揺れも酷いのだ。
 夏休み期間は電車は空いているので、いつも楽々と座席にすわることができるけれど、座っていても転げ落ちそうな時がある。大揺れに揺れ、はっと我に返って姿勢を直した。
 窓の外はかっと照り付ける日差しである。通り過ぎてゆく町の家々。屋根の瓦が見るからに暑そうだ。

 ひとつ、考えていることがある。
 どうやら、あっち側の世界が目の前に現れるのには法則がある。
 不規則に、ただ偶然に見えているわけではないらしい。
 それなら、なんらかの手段で、こっちからあっちに乗り込むことはできまいか。

 町の図書館で、一度、幼いジャンヌちゃんがトイレの扉から現れたことがあったではないか。
 あの時、ジャンヌちゃんの黒い瞳と、確かに目があった。いつもの白昼夢だと、わたしはそこにいるようで、存在していないものだ。戦いの最中、飛んできた矢はわたしをすり抜けたし、走る馬もわたしを通過した。
 だけど、図書館で出会ったジャンヌちゃんは、確かにそこに立つわたしを認めた。そして、「間違った扉を開いた」と言って、また引っ込んだではないか?

 その「間違った扉」という言葉が、妙に頭に残っている。
 ジャンヌちゃんは、どこかの部屋か、お店か家か物置か、とにかく何かの扉を開いたのである。だけど、開いた先に広がっていた世界は、彼女の思っていた場所ではなかった。
 あれっ、違ったみたい、ごめんなさい――それくらいの認識で、慌ててジャンヌちゃんは引っ込んでしまった。

 (こちらにも、あっち側に繋がる扉があるんじゃないのか)
 と、わたしは思うようになり、それを見つけるには、ザビエル先生の補修の日にとにかく何でもいいから扉という扉を開けまくるしかないと心に決めた。

**

 理科準備室に何か用事ですか。
 背後から声を掛けられて、しまったと唇をかむ。時間より早めに学校に到着し、いろいろと戸を開きまくっていたが、今の所「あっち側」への扉は見つからない。
 あーあとため息をついて振り向くと、隣のクラスの担任の英語の先生がけげんそうな顔で立っていた。

 夏休み中でもお仕事か。
 授業がある日と同じ姿で、その若い女の先生は首を傾げている。仏田先生、と呟くと、にこっと笑われた。
 「聖山さん、補習おつかれさま。がんばってる」
 ええまあ、はい――しどろもどろになりながら頷くと、ぽんと肩を叩かれた。

 用事のない部屋には、あまり入らない方がいいよ。夏休み中に、もしものがなくなったり、壊れていたりしたら厄介なことになるじゃない?

 お小言を、さらっと流すように言い、仏田先生は通り過ぎた。確か先生は英会話部の受け持ちだったはずだ。もしかしたら今日、英会話部の活動があるのかもしれないな。
 うちの高校の英会話部は、全国的にレベルが高いらしい。華やかな運動部にひけをとらない目立ち方をしている。中学の頃から、この高校の英会話部は頭の良いひとばかりが集まるんだ、と聞かされてきたっけ。
 
 英会話部と言えば。
 ざあっと、血の気が引くような場面が蘇り、一瞬わたしは息をのむ。
 
 あの雨の日、無人駅で先生から本を受け取り、電車に乗り込むところを、クラスメイトの女子に見られた。
 そのひとはクラスの中心メンバーの一人で、ゴシップ好きだ。確か彼女は、英会話部ではなかったか。

 (湯田さん)

 あの日、彼女の目は好奇と詮索に満ちていた。こんな面白い事もっと知りたい、そしてみんなに教えなくちゃ――うきうきとした声が聞こえてきそうな目だった。
 英会話部があるということは、彼女も学校に来るという事か。出くわさないようにしないとなあ。

 リンコーン。予鈴が鳴る。
 わたしは補習を受けるために、すごすごと教室に向かった。

**

 いつもにまして上の空の補習が終わろうとしている。
 なんという長い時間だろう。一生の半分くらいを数学づけて生きているような気がする。
 完全に戦意喪失しているわたしをよそに、ザビエル先生はかつかつと快速で黒板に数式を書きつけて行き、淡々と低い声で説明をするのだった。

 「……ここは次の追試に出るから、ノートを取っておくこと」
 かつん。
 チョークが黒板に当たって音をたてる。ぎょっとして顔をあげると、先生の静かな目がわたしを見下ろしていた。
 
 よだれを拭け。
 ジェスチャーで伝えられる。はっとして手の甲でぬぐうと、ナメクジが這ったみたいな跡が残った。盛大によだれを垂らして眠りこけていたらしい。

 「いいからノートしておきなさい。次の追試に出るところを教えているのだから。理解できなくても丸暗記してくれば、点はやるから」

 なんだか泣きそうになった。
 先生ごめんよ。白目をむいて涎を垂らしている一名のために、夏中補習をしなくてはならないというのに、なんという温かい配慮か。
 (丸暗記します、ええ、もちろん……)

 かりかりと黒板を写している間、ぼうっとわたしは思った。
 先生。
 追試に次ぐ追試でも落ち続けているわたしに付き合わされて気の毒に。
 (いっそ、ゲタを履かせて嘘でもいいから赤点以上取らせてくれるとか……)

 そんなことをしないのが、朴念仁のザビエル先生なのだろうけれど。

 終わったか、と聞かれ、はい終わりましたと答える。その時ベルが鳴った。今日はこれにて終わり、と先生はそっけなく言い、ばさばさと黒板を消し始める。
 その後姿を見ているうちに、なんだか申し訳なくて悲しくて、行き場のないような気持になった。洟がつまったみたいな声で、先生、と呼んだ。

 「なんだー」
 「いろいろと、すいません」

 ばさばさばさっ。
 黒板じゅうに書きつけた数式はなかなか綺麗に消えない。それを几帳面に消しながら、先生は背中で言った。

 「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん」
 
 また聖書だよ、牧師だから仕方がないか。
 腹の中でまぜっかえしてしまったが、妙に胸に響く言葉だったので、黙って先生の説明を待った。
 
 「とにかく行動するがいい。おまえがやる気を出した時、ものごとは動き出すんだよ」
 いい言葉だろう、覚えておきなさい。

 とうとう先生は黒板を綺麗にしてしまった。そして振り返り、なんだまたいたのかと失礼なことを言った。
 わたしは立ち上がると頭をさげ、教室を出ようと引き戸を開き――なんてこった――思わず戸を締め直した。

 すぐそこの廊下に、壁にもたれて、英会話部の女子たちが小声でおしゃべりして笑い合っているのが見えたのだ。
 その集団の中には、湯田さんの姿もあった。

 先生が眉をひそめてわたしを眺めている。ごくんと唾をのんだ。駄目だ、ここでモジモジしていたら、変な誤解がよけいに酷くなるだけだ。
 堂々と、なんでもないように出て行けばいい。そうだ実際なんでもないんだ。わたしはただ、数学の補習を受けていたのだから。

 すうっと息を吸ってはいて、そして引き戸に手をかけた。大丈夫だ絶対大丈夫――わたしはそっと一歩踏み出した。
 そして、唖然とした。


 さっきまで確かにそこは学校の廊下だった。そこには英会話部の女子たちが楽しそうに立ち話をしていたはずだ。
 だけど、今、もう一度開いた扉の向こう側には、なんとも言えない風景が広がっていたのだった。

 めえ、んめえええ。
 広々とした原っぱで羊が数頭、草を食んでいる。空は抜けるように青く、風は爽やかだ。
 五月くらいだろうか。

 わたしは振り向いた。息をのんだ。
 教室は消えており、ザビエル先生の姿も見えない。


 わん、わんわんわんっ。
 犬が吠えている。
 見ると、羊の群れの中にブチの犬が立っていた。猟犬の血が混じっていそうな垂れ耳と細い体つきをしている。
 わん、うわわわっ。
 犬は黄色い目でこちらを見て吠えていた。

 「こら、なにもいないのに吠えるんじゃないの」

 その時、聞き覚えのある、優しい声がした。
 犬の側で寝そべっていたらしい彼女は、むっくりと起き上がって周囲を見回し、ここには誰もいなから吠えるなと犬に命じている。
 ジャンヌちゃんである。十二、三歳の頃か。あどけない顔はそのままだけど、すんなりと伸びた四肢が健やかだ。
 埃っぽい上着と赤っぽいスカートを身に着けている。こうやって見ると、本当にただの村の少女である。

 ジャンヌちゃんにはわたしは見えていない。
 けれど、犬にはわたしが見えている。
 
 わんわんっ。うわんっ。
 こら、そろそろ帰るよ。吠えていないで仕事してっ。
 ……。

 
 羊たちを連れて原っぱの中を遠ざかってゆくジャンヌと犬。
 追ってゆくべきか迷っていると、なにかぞくっと背筋が寒くなった。
 
 「入り込んだか」

 頭上から声が聞こえて飛びのいた。
 あの、翼をはやした天使みたいなひとが、ぐるっととぐろを巻くように宙を浮遊し、わたしの顔を覗き込んでいる。
 その青い目を正視すると、吸い込まれてしまいそうだ。わたしは一歩退いて、ぐっと顎を引いた。

 「だが、それでもおまえには何もできない」

 天使はそう言うと、現れた時と同じ唐突さでスウと薄れて空気に溶けたのだった。
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