その5 神の幕屋が人とともにある
文字数 5,546文字
神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民。神ご自身が彼らとともにおられ、彼らの目の涙をすっかり拭い取られる。そこでは死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、過ぎ去ったから。(ヨハネ黙示録)
**
「神子ちゃん、これ一体なんなのっ、どうして、どうしてなのっ」
学校は嫌いだけど、休みの日はもっと嫌。
一日中、ママから逃れることができない。ママは好きだけど、叫ぶママの側にいるのは息が詰まる。
テストの答案。
真っ赤なバツの羅列。
一桁の点数。
どうして、毎日あんた、何をしに学校に行ってるの。毎晩部屋で勉強をしているはずじゃないの。
あんた、あんた……。
がしっと肩を掴まれて揺さぶられ目を覗き込まれる。ママの目は充血している。顔は青ざめている。肩に食い込む指は強くて逃れられない。
「ママあんたに大学まで出てもらいたい、そのためにはどんなことをしたって、仕事を続けて学費くらい出してあげる。だから、だから神子ちゃんっ」
ママの目から涙があふれるのを見るのは、高校に入ってから何度目だろう。
麻痺した気持ちで、わたしはママを見ていた。ママは小さくなった。ううん、わたしが大きくなった。
気が付いたら、ママはわたしより小さく、しわだらけになり、細くなっていた。
「だから、頑張りなさい……」
ママの手が離れ、わたしはやっと息ができるようになる。
外は雨が降っている。
部屋の中は、昼間でも暗かった。
そしてママは、仕事に出ていった。
土日、関係のない仕事をしているママ。毎日、くたびれきって帰ってくるママ。
夜勤を月に五回以上も入れ、必死にお金を稼いでくるママ。
「本当はわたしくらいのトシなら、夜勤の回数も容赦してもらって、そろそろ若い子に頑張ってもらうくらいなんだけどねえ、ホラ、娘が大学行くでしょ……」
いつだったろう、ママが職場の人と電話で話しているのを聞いて、とくん、と、心臓が音をたてたことがあったっけ。
ホラ、娘が大学行くでしょう。
「行って来るね、お昼ご飯は冷蔵庫にあるから、チンして食べるのよ」
勉強頑張るのよ、わかったわね。
がらがら、びしゃん。
玄関の引き戸が閉まる。ママは車に乗り、職場へと向かう。
車の音が遠のくのを待って、わたしはゆっくりとため息をついた。しとしと雨の音が籠る家の中、ここにいると気がめいってしまう。
どこか気分転換に行ってこよう。ママが帰るまでうちにもどればいい……。
夏休みの日曜日、遊ぶ予定もない――というよりも、遊ぶことをほぼ禁じられたような身――なにかを持て余しながらも、持て余している場合ではない、このままではいけないと焦りだけが先走る。
わたしは定期券とお財布をカバンに入れると、宛もなく駅に向かった。
**
日曜日は補習はお休みだったから、学校には行かない。
定期で電車に乗り、降りたこともない駅で降りる。無人駅だ。
いつも学校に行くときに降りる駅より、三駅手前にある。
トタン屋根のさびれた駅はホームのコンクリがひび割れて、そこから草が生えていた。
しとしとと陰気に雨が降っており、トタンが憂鬱そうな音を立てている。
ホームを降りて、歩道を歩いた。傘をさした。
べちゃべちゃべちゃあ。車が勢いよく通りがかり、車道のアスファルトのくぼみにできた穴の、水たまりを跳ね上げた。
あっと思う間もなく、わたしはずぶ濡れになった。足下から水が襲い掛かってきて、傘では防げなかった。
そのまま車は何事もなかったかのように去ってしまい、わたしは唖然と取り残される。
(……最悪)
ここまで濡れたら傘をさしていても意味がない。
傘をすぼめて、雨に打たれるまま歩くことにした。どこかやけっぱちな気分で、ずぶ濡れの惨めさが自分にぴったりだ、なんて思った、
だけど流石に十分もたつと肌寒くなってきて、くしゃみが何度も出た。雨の勢いは強くなってきて、おまけに雷まで聞こえてくる。
これはヤバイ、どこかで雨宿りしたいがこんなに濡れた体でコンビニに入ったら嫌がられるだろうなあ――道の向こう側には、青いコンビニが見えている。よほど、そこに入ろうかと思ったが靴下から髪の毛までびちゃびちゃな体では気がとがめた。
やけに冷たい雨である。夏の盛りなのに、秋みたいな雨だった。
今年は連日、異様に暑いはずなのに、今日はいきなり気温が下がっている。
肌にべったりくっついたTシャツが気持ち悪かった。行く当てもなく小走りになって進むと、少し先に白い四角い建物が見えた。
教会らしかった。
町の中で、そこだけが妙にしいんとして、だけど扉が開かれている。
前まで来て、建物の前のガラスの掲示板を見た。雨宿りに入れてもらっても良いものか。もし、新興宗教とかだったら、凄い勢いで勧誘されるかもしれない。
「8月のミサの予定」という貼り紙が掲示されている。その横に半紙が貼ってあった。丸っこい柔らかい手書きの習字で「お気軽にどうぞ」と書いてある。
他には、イエスの言葉とか、ありがたそうな文章がプリントされたものが何枚か貼られていたが、宗教感はそこまで迫ってこなかった。むしろ、教会なのに半紙にお習字というのが印象深い。
雨が止むまでちょっとだけ、と思って、開きっぱなしの扉をくぐる。
よく海外のドラマで、十字架の前でお祈りする人の後姿があるもんだけど、中は無人だった。
赤いじゅうたんが敷かれ、正面には通路が伸びている。両脇にはベンチの席が連なっていて、ああここに人が座って祈るんだなと思われた。
通路の先には十字架と、小さい可愛いステンドグラスがある。
全体的にこじんまりした場所だった。雨の日だからか、薄暗くてしいんとしている。ステンドグラスの色彩も、ちょっと暗い気がした。
ぼたぼたと水滴がじゅうたんに垂れるのに気づき、ぎょっとする。ああだめだ、やっぱり中に入るのは諦めよう、軒下をお借りしよう――慌てて退こうとした時、ぱちんと電気がついた。
「どうぞお入りください」
落ち着いた声が聞こえる。牧師さんだろうか――わたしは慌てて、濡れているので大丈夫ですと答えた。早足で外に出ようとした時、そっとタオルが頭にかぶせられた。
「雨宿りするなら、お茶でも出します」
黒い牧師さんの服が視界の隅に映る。
(え、この声は)
あまりにも思いがけなかった。
聞きなれた声だ。タオルをとりながら見上げると、牧師さんもちょっと目を見張ってわたしを見つめ返していた。
「ザビエル……じゃなくて、吉亜先生」
そこにいるのは、いつも大変お世話になっている、ザビエル先生なのだった。
**
まあ休んでいきなさい。もう少ししたら雨も小降りになると思うから。
牧師さんの姿をしたザビエル先生に、小さい部屋に通され、ジャージの上下を渡される。腕を通してみたら、ぶかぶかだった。ザビエル先生のものだろうか。
袖と裾を折り曲げ、なんとか恰好をつける。大きすぎるけれど、濡れた服を着ているよりはよかった。
木でできた小さいテーブルと丸椅子と。
カバンに濡れた服を押し込んでいると、扉が開いてふわんと良い匂いが漂った。先生がお茶を持って来てくれたらしい。
「まあ、座って飲んで行け」
ことんと、ティーカップがテーブルに置かれる。牧師姿をしていると、先生が先生に見えなかった。それにしても、ザビエル先生、一体どうして。
茫然と椅子に座り、先生どうしてここにいるの、と聞いた。ぼそっと不愛想に先生は、どうしてって言われても、ここが俺の家だ、と答えた。わたしは絶句した。
「家って」
かたん。建物の中に誰かが入って来た気配がした。
先生はわたしにお茶を勧めると、まあゆっくりして行け、と繰り返し、急ぎ足で出ていった。
やがてぼそぼそと話し声が聞こえて来た。クリスチャンのひとが訪ねてきたのか――こんな雨の日に。
わたしは紅茶を飲んだ。熱いお茶は体に沁み込み、ゆっくりと温もりが広がるようだ。
(先生は、牧師さんだった……)
ざああああ――雨の音がする。アーチ形の窓から、青々としげる樹木の葉が見える。
さっきより少し雨はおさまってきただろうか。長居はできないな。そう思った時、不意に目の前がぼやけた。きいんと耳鳴りがする。ああ、いつものアレだ、今日は見ないなと思っていたけれど、やっぱり出たかと思う。
例の、ジャンヌの白昼夢が、またやってきたのだった。
**
ああ、わたしは今なにを見ているのか。
そこがドン・レミーではないのは確かで、尋常ではない喚き声と、金物の音が響き渡っている。青空にはもくもくと煙があがっており、嫌な臭いが充満していた。
ひゅっと何かが飛んできて横を擦りゆけて行き、わたしの後ろで、ぎゃっと悲鳴があがった。振り向くと胸に矢を受けて倒れる兵士がいる。
悲鳴を上げた。なんということだろうか、ここは戦場だ。
借り物のジャージを着て立ちすくむわたしをすり抜けて、だかだっ、だかだっと馬が走っていった。続いてわあわあと声をあげ、鎧を着た人たちが走ってゆく。
今しがた倒れた兵士が、うめき声をあげていた。矢を胸に受けたまま、死にきれずにいるらしい。
だけどみんなはそれどころではなく、声を上げて特攻していく。わあわあ――耳を覆いたくなるような声が響いている。その中で、もうじき亡くなろうとしている兵士の声は、あまりにも小さくて弱弱しかった。
ひらっと白い旗が翻り、わたしの目の前を通り過ぎる。
鎧を着た一人のひとが、横たわる兵士に駆け寄ってかがみこみ、その手を両手で拾いあげていた。白い旗を脇にかかえている。旗は煙が立ち込める戦いの空にひるがえった。
「もうすぐ、神の幕屋に行くのです。どうぞ恐れずに……」
優しい声が囁くのが聞こえた。
それは女の子の声だった。ジャンヌ・ダルクだった。
(ジャンヌ……)
ジャンヌはそっと兵士の手を胸の上に組み、十字を切って祈った。
ずいぶん大きくなったジャンヌ。
オルレアンの乙女と呼ばれる頃のジャンヌだ。そうか、あの純朴な田舎の女の子は、あれから何年かたって、こんな戦場に身を投じるようになるのか。
ひゅっ、ひゅん。
こうしている間も矢は上からそこここに飛んでくる。いつ当たるか分からない。矢の雨の中に、白い旗は誇らしげに翻るのだった。
**
ラ・ピュセルが最後にどうなってしまうのか、既にわたしは知っている。
この夏、もう何冊もジャンヌ関係の本を読破した。ジャンヌ・ダルクの生涯。あの小さい黒い目の女の子が、最後には火刑台に縛られることになる。
「あら、間違った扉を開いたみたい」
はきはきとした可愛い声で言い、現れた途端に引っ込んだ小さい女の子。
あの日、翼を持つ人外に憑りつかれ、耳元でささやきかけられて立ち尽くしていた、いたいけな純朴な少女。
祈ることしか知らない子……。
もやもやとしたものが胸の中に渦巻いていた。
そうか、あのまま天使の言葉に耳を傾けていたら、ジャンヌはああなってしまうのか。
今更のように、わたしはそれに気づいたのだった。
「おまえには何もできない」
と、あの天使は言ったっけ。
遠のいてゆく戦いの風景。わたしはまた、現実の世界に戻ってきた。湯気の上がる紅茶を前に、ぼんやりと座っていた。
一口飲んだ時、ぼそぼそと低い声で、こんな言葉が聞こえて来た。
「見よ、神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかり拭い取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」
先生の声だ。誰に語り掛けているのだろう。
さっき見た白昼夢と、妙にリンクする言葉だ。わたしは立ち上がると、そっと扉を開いた。
礼拝堂の方から声が聞こえている。誰か、お祈りに来た人がいるのだろう。先生はその人に話しているのだ。
盗み聞きするつもりはなかった。
なんとなく、全く悪意なく、わたしは覗き込んだ。
そうっと扉を薄く開くと、十字架の前の席で、ひとりの女の人が顔を覆っているのが見えた。
牧師姿のザビエル先生が、その人の横に座っている。女の人はハンカチで顔を拭いていた。
「……ヨハネの黙示録ですね。毎日、その部分を読んでいるんです。ああ、でも」
女の人――もう、おばさんといって良い年齢だろう。うちのママと同じくらいの年かもしれない。
質素だけど品よく細い体をしていて、うなだれて弱弱しそうだった。
どこかで見たことがあるなあと思う。
「ええでも、やっぱりまだ信じられなくて。あのこがいなくなってしまったなんて――」
おばさんは顔をあげた。そしてわたしは、おばさんの横顔を目にした。
どくん、と、心臓が音を立てた。
あのこがいなくなってしまうなんて。死んでしまうなんて。
子供を亡くして、教会にお祈りに来た女性。それは、中学時代、ずっと同じクラスだったあの子のおかあさん。
……駄目川君の、ママだった。
ざああ――雨音が急に増した。
(そんな……)
**
「神子ちゃん、これ一体なんなのっ、どうして、どうしてなのっ」
学校は嫌いだけど、休みの日はもっと嫌。
一日中、ママから逃れることができない。ママは好きだけど、叫ぶママの側にいるのは息が詰まる。
テストの答案。
真っ赤なバツの羅列。
一桁の点数。
どうして、毎日あんた、何をしに学校に行ってるの。毎晩部屋で勉強をしているはずじゃないの。
あんた、あんた……。
がしっと肩を掴まれて揺さぶられ目を覗き込まれる。ママの目は充血している。顔は青ざめている。肩に食い込む指は強くて逃れられない。
「ママあんたに大学まで出てもらいたい、そのためにはどんなことをしたって、仕事を続けて学費くらい出してあげる。だから、だから神子ちゃんっ」
ママの目から涙があふれるのを見るのは、高校に入ってから何度目だろう。
麻痺した気持ちで、わたしはママを見ていた。ママは小さくなった。ううん、わたしが大きくなった。
気が付いたら、ママはわたしより小さく、しわだらけになり、細くなっていた。
「だから、頑張りなさい……」
ママの手が離れ、わたしはやっと息ができるようになる。
外は雨が降っている。
部屋の中は、昼間でも暗かった。
そしてママは、仕事に出ていった。
土日、関係のない仕事をしているママ。毎日、くたびれきって帰ってくるママ。
夜勤を月に五回以上も入れ、必死にお金を稼いでくるママ。
「本当はわたしくらいのトシなら、夜勤の回数も容赦してもらって、そろそろ若い子に頑張ってもらうくらいなんだけどねえ、ホラ、娘が大学行くでしょ……」
いつだったろう、ママが職場の人と電話で話しているのを聞いて、とくん、と、心臓が音をたてたことがあったっけ。
ホラ、娘が大学行くでしょう。
「行って来るね、お昼ご飯は冷蔵庫にあるから、チンして食べるのよ」
勉強頑張るのよ、わかったわね。
がらがら、びしゃん。
玄関の引き戸が閉まる。ママは車に乗り、職場へと向かう。
車の音が遠のくのを待って、わたしはゆっくりとため息をついた。しとしと雨の音が籠る家の中、ここにいると気がめいってしまう。
どこか気分転換に行ってこよう。ママが帰るまでうちにもどればいい……。
夏休みの日曜日、遊ぶ予定もない――というよりも、遊ぶことをほぼ禁じられたような身――なにかを持て余しながらも、持て余している場合ではない、このままではいけないと焦りだけが先走る。
わたしは定期券とお財布をカバンに入れると、宛もなく駅に向かった。
**
日曜日は補習はお休みだったから、学校には行かない。
定期で電車に乗り、降りたこともない駅で降りる。無人駅だ。
いつも学校に行くときに降りる駅より、三駅手前にある。
トタン屋根のさびれた駅はホームのコンクリがひび割れて、そこから草が生えていた。
しとしとと陰気に雨が降っており、トタンが憂鬱そうな音を立てている。
ホームを降りて、歩道を歩いた。傘をさした。
べちゃべちゃべちゃあ。車が勢いよく通りがかり、車道のアスファルトのくぼみにできた穴の、水たまりを跳ね上げた。
あっと思う間もなく、わたしはずぶ濡れになった。足下から水が襲い掛かってきて、傘では防げなかった。
そのまま車は何事もなかったかのように去ってしまい、わたしは唖然と取り残される。
(……最悪)
ここまで濡れたら傘をさしていても意味がない。
傘をすぼめて、雨に打たれるまま歩くことにした。どこかやけっぱちな気分で、ずぶ濡れの惨めさが自分にぴったりだ、なんて思った、
だけど流石に十分もたつと肌寒くなってきて、くしゃみが何度も出た。雨の勢いは強くなってきて、おまけに雷まで聞こえてくる。
これはヤバイ、どこかで雨宿りしたいがこんなに濡れた体でコンビニに入ったら嫌がられるだろうなあ――道の向こう側には、青いコンビニが見えている。よほど、そこに入ろうかと思ったが靴下から髪の毛までびちゃびちゃな体では気がとがめた。
やけに冷たい雨である。夏の盛りなのに、秋みたいな雨だった。
今年は連日、異様に暑いはずなのに、今日はいきなり気温が下がっている。
肌にべったりくっついたTシャツが気持ち悪かった。行く当てもなく小走りになって進むと、少し先に白い四角い建物が見えた。
教会らしかった。
町の中で、そこだけが妙にしいんとして、だけど扉が開かれている。
前まで来て、建物の前のガラスの掲示板を見た。雨宿りに入れてもらっても良いものか。もし、新興宗教とかだったら、凄い勢いで勧誘されるかもしれない。
「8月のミサの予定」という貼り紙が掲示されている。その横に半紙が貼ってあった。丸っこい柔らかい手書きの習字で「お気軽にどうぞ」と書いてある。
他には、イエスの言葉とか、ありがたそうな文章がプリントされたものが何枚か貼られていたが、宗教感はそこまで迫ってこなかった。むしろ、教会なのに半紙にお習字というのが印象深い。
雨が止むまでちょっとだけ、と思って、開きっぱなしの扉をくぐる。
よく海外のドラマで、十字架の前でお祈りする人の後姿があるもんだけど、中は無人だった。
赤いじゅうたんが敷かれ、正面には通路が伸びている。両脇にはベンチの席が連なっていて、ああここに人が座って祈るんだなと思われた。
通路の先には十字架と、小さい可愛いステンドグラスがある。
全体的にこじんまりした場所だった。雨の日だからか、薄暗くてしいんとしている。ステンドグラスの色彩も、ちょっと暗い気がした。
ぼたぼたと水滴がじゅうたんに垂れるのに気づき、ぎょっとする。ああだめだ、やっぱり中に入るのは諦めよう、軒下をお借りしよう――慌てて退こうとした時、ぱちんと電気がついた。
「どうぞお入りください」
落ち着いた声が聞こえる。牧師さんだろうか――わたしは慌てて、濡れているので大丈夫ですと答えた。早足で外に出ようとした時、そっとタオルが頭にかぶせられた。
「雨宿りするなら、お茶でも出します」
黒い牧師さんの服が視界の隅に映る。
(え、この声は)
あまりにも思いがけなかった。
聞きなれた声だ。タオルをとりながら見上げると、牧師さんもちょっと目を見張ってわたしを見つめ返していた。
「ザビエル……じゃなくて、吉亜先生」
そこにいるのは、いつも大変お世話になっている、ザビエル先生なのだった。
**
まあ休んでいきなさい。もう少ししたら雨も小降りになると思うから。
牧師さんの姿をしたザビエル先生に、小さい部屋に通され、ジャージの上下を渡される。腕を通してみたら、ぶかぶかだった。ザビエル先生のものだろうか。
袖と裾を折り曲げ、なんとか恰好をつける。大きすぎるけれど、濡れた服を着ているよりはよかった。
木でできた小さいテーブルと丸椅子と。
カバンに濡れた服を押し込んでいると、扉が開いてふわんと良い匂いが漂った。先生がお茶を持って来てくれたらしい。
「まあ、座って飲んで行け」
ことんと、ティーカップがテーブルに置かれる。牧師姿をしていると、先生が先生に見えなかった。それにしても、ザビエル先生、一体どうして。
茫然と椅子に座り、先生どうしてここにいるの、と聞いた。ぼそっと不愛想に先生は、どうしてって言われても、ここが俺の家だ、と答えた。わたしは絶句した。
「家って」
かたん。建物の中に誰かが入って来た気配がした。
先生はわたしにお茶を勧めると、まあゆっくりして行け、と繰り返し、急ぎ足で出ていった。
やがてぼそぼそと話し声が聞こえて来た。クリスチャンのひとが訪ねてきたのか――こんな雨の日に。
わたしは紅茶を飲んだ。熱いお茶は体に沁み込み、ゆっくりと温もりが広がるようだ。
(先生は、牧師さんだった……)
ざああああ――雨の音がする。アーチ形の窓から、青々としげる樹木の葉が見える。
さっきより少し雨はおさまってきただろうか。長居はできないな。そう思った時、不意に目の前がぼやけた。きいんと耳鳴りがする。ああ、いつものアレだ、今日は見ないなと思っていたけれど、やっぱり出たかと思う。
例の、ジャンヌの白昼夢が、またやってきたのだった。
**
ああ、わたしは今なにを見ているのか。
そこがドン・レミーではないのは確かで、尋常ではない喚き声と、金物の音が響き渡っている。青空にはもくもくと煙があがっており、嫌な臭いが充満していた。
ひゅっと何かが飛んできて横を擦りゆけて行き、わたしの後ろで、ぎゃっと悲鳴があがった。振り向くと胸に矢を受けて倒れる兵士がいる。
悲鳴を上げた。なんということだろうか、ここは戦場だ。
借り物のジャージを着て立ちすくむわたしをすり抜けて、だかだっ、だかだっと馬が走っていった。続いてわあわあと声をあげ、鎧を着た人たちが走ってゆく。
今しがた倒れた兵士が、うめき声をあげていた。矢を胸に受けたまま、死にきれずにいるらしい。
だけどみんなはそれどころではなく、声を上げて特攻していく。わあわあ――耳を覆いたくなるような声が響いている。その中で、もうじき亡くなろうとしている兵士の声は、あまりにも小さくて弱弱しかった。
ひらっと白い旗が翻り、わたしの目の前を通り過ぎる。
鎧を着た一人のひとが、横たわる兵士に駆け寄ってかがみこみ、その手を両手で拾いあげていた。白い旗を脇にかかえている。旗は煙が立ち込める戦いの空にひるがえった。
「もうすぐ、神の幕屋に行くのです。どうぞ恐れずに……」
優しい声が囁くのが聞こえた。
それは女の子の声だった。ジャンヌ・ダルクだった。
(ジャンヌ……)
ジャンヌはそっと兵士の手を胸の上に組み、十字を切って祈った。
ずいぶん大きくなったジャンヌ。
オルレアンの乙女と呼ばれる頃のジャンヌだ。そうか、あの純朴な田舎の女の子は、あれから何年かたって、こんな戦場に身を投じるようになるのか。
ひゅっ、ひゅん。
こうしている間も矢は上からそこここに飛んでくる。いつ当たるか分からない。矢の雨の中に、白い旗は誇らしげに翻るのだった。
**
ラ・ピュセルが最後にどうなってしまうのか、既にわたしは知っている。
この夏、もう何冊もジャンヌ関係の本を読破した。ジャンヌ・ダルクの生涯。あの小さい黒い目の女の子が、最後には火刑台に縛られることになる。
「あら、間違った扉を開いたみたい」
はきはきとした可愛い声で言い、現れた途端に引っ込んだ小さい女の子。
あの日、翼を持つ人外に憑りつかれ、耳元でささやきかけられて立ち尽くしていた、いたいけな純朴な少女。
祈ることしか知らない子……。
もやもやとしたものが胸の中に渦巻いていた。
そうか、あのまま天使の言葉に耳を傾けていたら、ジャンヌはああなってしまうのか。
今更のように、わたしはそれに気づいたのだった。
「おまえには何もできない」
と、あの天使は言ったっけ。
遠のいてゆく戦いの風景。わたしはまた、現実の世界に戻ってきた。湯気の上がる紅茶を前に、ぼんやりと座っていた。
一口飲んだ時、ぼそぼそと低い声で、こんな言葉が聞こえて来た。
「見よ、神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかり拭い取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」
先生の声だ。誰に語り掛けているのだろう。
さっき見た白昼夢と、妙にリンクする言葉だ。わたしは立ち上がると、そっと扉を開いた。
礼拝堂の方から声が聞こえている。誰か、お祈りに来た人がいるのだろう。先生はその人に話しているのだ。
盗み聞きするつもりはなかった。
なんとなく、全く悪意なく、わたしは覗き込んだ。
そうっと扉を薄く開くと、十字架の前の席で、ひとりの女の人が顔を覆っているのが見えた。
牧師姿のザビエル先生が、その人の横に座っている。女の人はハンカチで顔を拭いていた。
「……ヨハネの黙示録ですね。毎日、その部分を読んでいるんです。ああ、でも」
女の人――もう、おばさんといって良い年齢だろう。うちのママと同じくらいの年かもしれない。
質素だけど品よく細い体をしていて、うなだれて弱弱しそうだった。
どこかで見たことがあるなあと思う。
「ええでも、やっぱりまだ信じられなくて。あのこがいなくなってしまったなんて――」
おばさんは顔をあげた。そしてわたしは、おばさんの横顔を目にした。
どくん、と、心臓が音を立てた。
あのこがいなくなってしまうなんて。死んでしまうなんて。
子供を亡くして、教会にお祈りに来た女性。それは、中学時代、ずっと同じクラスだったあの子のおかあさん。
……駄目川君の、ママだった。
ざああ――雨音が急に増した。
(そんな……)