その6 自分に罪がないと言うなら

文字数 3,999文字

自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にはないのです。
自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方なので、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。(ヨハネの手紙一)

**

 追試をパスした、もう補習はない。
 ママにそれを報告したら、特に何の反応も示してもらえなかった。

 あらそう、良かったわね。とだけママは言い、しばらく煮物に集中していたが、ふいに、じゃあおばあちゃんちには、一緒に行けるわね、と思い出したように言った。

 (追試パスできなかったら、わたしは家で留守番だったのか)
 仕事があるからパパは、おばあちゃんちには行かない。ママだけが実家に戻る。パパは毎晩遅く、わたしが勉強部屋に閉じこもる時間にやっと帰ってくる。
 実質、この家にいるのはわたしだけ。それはそれで、悪くはなかったのだけど。

 電車に乗って、ママと一緒におばあちゃんちまで小旅行をする。二泊三日の田舎を堪能して。
 お刺身とか、てんぷらとか、お盆のごちそうをいっぱい食べて。おばあちゃんちで飼っている、猫とさんざん遊んで。
 なにより、おばあちゃんちで、ママがヒスを起こすことはまずないだろうから、穏やかに和やかに過ごすことができよう。たとえそれがかりそめの平穏だったとしても、わたしにとっては貴重な気晴らしだった。

 補習が終わった後、時間は流れ方を明確に変えた。夏休みは怒涛のように過ぎる。
 お盆までの何日かはまばたきする間に過ぎてしまい、気が付けばおばあちゃんちに行く日を迎えていた。
 目くるめくような盆休み。いとこたちと花火を楽しみ、おしょうらいこでご先祖様をお迎えした。縁側ですいかを食べ、猫と遊び、夜はいとこの部屋で、アニメのDVDを眺めながら、だらだらとトランプをする。
 
 そのささやかな非日常は、わたしに「夏休みが終わらなければいいのに」という思いを抱かせた。
 だけど、あっという間にその時間は過ぎ、気づけばママと家に戻らねばならない日になっていた。

 「神子ちゃんまたおいで。待っているからね」
 駅まではついてこられないから、玄関先で送ってくれたおばあちゃん。
 (来年の夏まで、この時間はお預け)
 クラスで孤立していることも、勉強ができないことも、ママとの関係が悪化していることも、全部忘れていられる時間は、これにて終了した。
 叔母さんの車で駅まで送ってもらう時、車窓から見たおばあちゃんの姿は、やけに小さく、弱弱しい。

 おばあちゃんも、やがては死ぬ。
 不意に、そんな不吉な考えがよぎり、ぞっとした。
 死ぬ。命が尽きる。天に召される。

 死という言葉が浮かんだ瞬間、わたしの脳裏に浮かんだのは、あの、教会で見かけた、駄目川君のママの姿だった。
 
 駄目川君。中学の時、どうしてあんな目にあっていたんだろう。彼がスケープゴートにされなくてはならない理由はあったのだろうか。
 彼がどうして亡くなったのかは知らない。先生に聞けばわかると思うけれど、恐ろしくてとてもできなかった。

 誰からも顧みられず、ボロのように痛めつけられた駄目川君は、ひっそりとこの世を去っていた。
 かつてのクラスメートの誰も、彼がもうこの世にいないことを知らない。
 駄目川君のママだけが、いつまでも心を傷めて教会で祈るのだ。

 ママと向かい合って座り、電車に揺られながら、わたしは思う。
 全ての事に神の意志が働いているのだとしたら、そこには必ず、なにかの理由があるはずだ。
 
 そうだ。
 ジャンヌちゃんの一生にも、神様の理由があるはずで。
 
 神様の考えなど、きっと、誰にも分らないのだろうし、分かってはならないのかもしれない。
 そんなことを考えているうちに、わたしは窓におでこをおしつけたまま、いつしかぐうぐう寝てしまったのだった。

**

 八月も下旬に入ると、もう二学期は目前となる。
 明らかに日差しの角度が変わってきて、夏は盛りを過ぎようとしていた。
 そうなると、今年の異常なまでの暑さが妙に名残惜しくなって、盆を過ぎてから、わたしはようやくタンクトップやら、丈の短いものやら、夏らしい恰好をし始めていた。
 
 遊びに行く相手もいないから、夏っぽい恰好をして気分を盛り上げているだけなのだけど、それでも十分、夏を堪能していた。
 夏の大半を、校舎と家の勉強部屋に閉じ込められて、数学をしなくてはならなかった分、今になって一気に夏を挽回しようとしているみたいだった。

 庭の雑草や、蜘蛛の巣の張った庭木。入道雲の立ち上る青い空や、強烈な暑さに焼ける家々の瓦。
 あらゆるものの輪郭がくっきりとして鮮やかなことに、今更のようにわたしは気付いたのだった。

 いままで、こんなふうに風景を見て感じることなどなかった。
 自分が、どんなに生々しい世界の中で生きているのか。そして、その世界がどんなに鮮やかなのか。
 自分が生きている世界を感じるということは、暑い日差しの下で、アイスを頬張り、それを美味しいと感じる、その単純な喜びに、似ていた。

 (生きている)
 数学が分からなくても。
 勉強ができなくなっても。
 クラスの中に溶け込めなくても。

 そうだ。
 ジャンヌちゃんが鮮烈な一生を送ったのと、命の重さは何ら変わらない。わたしはここで、生きているのだ。
 駄目川君も、クラスのイケイケな女子たちも、みんな同じ重さの命を生きている。
 
 あらゆることに、神様の理由が絡んでいるとしたら、きっと今こうしてわたしが、イヤイヤ高校生活を送っていることにも、理由があるのだろう。

 夏休みの最後の日、わたしは久々に、町の図書館を訪れた。
 相変わらず誰もいない図書館で、この夏、何度も借りてはむさぼり読んだ、ジャンヌ・ダークの本をめくる。
 華々しいジャンヌの一生。そのラストの火刑台の絵画を、わたしは食い入るように見つめてしまった。

 絵の中のジャンヌちゃんは、すべてを受け入れて、神様の理由を感じているように見えた。

 (理不尽と感じたり、誰かに怒りや憎しみを感じたりすることも、もしかしたら、神様の理由の中に組み込まれているのかもしれない)
 だから、今は今で、これで良いのかもしれない。
 
 そんなふうに思うことができるようになっていた。

**

 このまま新学期が始まり、また、陰鬱な高校生活が再開するのだと思っていた。
 まあ、確かにその通りだったのだけど、思いがけない変化が9月のしょっぱなから訪れるとは。

 二学期はあっけなく始まり、日に焼けて楽しそうなクラスメイトの中で、やっぱりわたしは浮いていて、隅っこで俯くしかなかった。
 宿題はなんとか全部提出できたので、その点で心苦しく思う事はなかったのだけど。

 久々に――というより、たった二週間ぶりだ――見た、ザビエル先生は、夏休み前となんら変わることなく、淡々として無表情で、とりつくしまもなかった。
 夏休みが終わった、すぐにテストがあるから、気を引き締めるように。
 なんの面白味もない新学期の挨拶をした後、ザビエル先生は、さらっと言ったのだった。

 「個人の事情があり、今月いっぱいで学校を辞めることになりました。担任は数学の渡辺先生が引き継いでくださることになっています。今月いっぱい、よろしくお願いします」

 ここはテストに出るから、ノートをしておくように。
 授業中と同じ調子で、まるで聞き流してしまいそうな口調で、先生は言った。

 あまりにも普通に言うものだから、クラスはその話を聞いた後も、ざわざわ夏の楽しい雰囲気で盛り上がっていたが、三十秒ほどたってからようやく、「えっ、今ザビエルなんつった」と、ことの重大さに気づき始めていた。

 
 「辞めるって」
 「なんで。個人の事情ってなに」
 「ケッコンかなー」
 
 口々にみんなは囁き合ったけれど、誰にも先生の事情は分からない。
 わたしは密かに、夏休みの間に湯田さんが流したデタラメの噂が原因だろうかとひやひやしたのだが、クラスの誰もが、そのことに触れなかったのでほっとした。
 
 仏田先生も言っていた通り、誰も、あんな噂は本当にはしていなかったのだろう。
 湯田さんですら、その話を持ち出すことなく、えー、なんでだろー、気になる知りたーい、と、まるで楽しいことのように無邪気に騒いでいるのだった。

**

 先生が、辞めてしまう。
 
 
 ザビエル先生は、数学の先生で、担任の先生。
 赤点を取ったわたしに付き合って、いつまでも補習と追試をしてくれた。
 表情が読めないし、仏田先生のようなおおらかさも感じない。どちらかと言うと、苦手なひとだった。

 先生が辞めたとして、わたしの生活には何の変化もない。

 だけど。

 テスト。体育祭。
 二学期はいきなりスピード感あふれる展開をし始めて、クラスについてゆけていないわたしだけど、気ぜわしい日々が続いた。
 苦手な数学も、あの補習が効いたのか幸い、今回は赤点をぎりぎりでまぬがれた。
 
 あっという間に9月は終わり、ザビエル先生はあっさりと学校を去ったのである。
 本当に、あっさりと。
 あまりにも潔く、何の感慨もなさそうな去り方だったので、誰もが特別な事には思わず、明日からも普通にザビエル先生の数学があるものだと勘違いしそうだった。

 だけど、10月の最初の授業から、数学は既に別の先生の受け持ちになっていて、わたしたちのクラスの担任もザビエル先生ではなかった。

 わたしは、何か奥歯にものが挟まったような思いで、数学の授業を受けていたのである。

[第三章 了]
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