その6 柔らかな応答は憤りを静め傷つける言葉は怒りをあおる

文字数 6,723文字

柔らかな応答は憤りを静め
傷つける言葉は怒りをあおる。
知恵ある人の舌は知識を明らかに示し
愚か者の口は無知を注ぎ出す。
どこにも主の目は注がれ
善人をも悪人をも見ておられる。(箴言)

**

 仏田先生が、うちに来てくれた。
 階段を降りて客間に向かう時、頭の中では様々なことが渦を巻いた。

 仏田先生は悪い先生ではない――と、思う。寛大だし、分け隔てがない。けれど、わたしは日中、電話で漏れ聞こえた、湯田さんと仲が良さそうな様子が引っかかっていた。
 英会話部の顧問なんだから、部員の生徒に冷たく接するはずがないと頭では分かっていても、今のわたしには、湯田さんと仲良くする人は皆、敵のような気がしていた。

 台所に顔を出すと、ママが変な顔をして立ち尽くしていた。
 まだパパは帰ってきていない。食事の皿はラップをされ、冷蔵庫にしまわれている。
 がらんとしたテーブルでお茶の支度をしながら、ママは黙ってわたしの顔を見た。猜疑心だ――ママの表情を読み取って、わたしは暗い気分になる。

 (いつからママの表情を読むようになったんだろう)

 たぶん、ずっと小さい時からの癖だろう。こんな事態になって初めてわたしは、自分がいかにママに支配されて来たのか思い知ったのだった。
 ママの表情一つで怯えたりほっとしたり。今は処刑を待つ囚人のように怯え切っている。

 「あんた昼間、仏田先生に電話したでしょう」
 ずばっとママは言い、わたしは唇を噛んでしまった。ママの意地悪な目はわたしの表情を余すところなく読んだ。眉間に深い皺を寄せて、ママは低く言った。
 「あんたいい加減に死なさいよ。高校一年生の一学期から赤点を取るくらいなら、いっそ、もっとランクの低い高校に転入しなさい」

 わたしが何か言い返そうとした瞬間、ママは撥ねつけるように、何してるの、待っておられるでしょう、早く行きなさいと言った。
 わたしの言葉は封じられた。わたしはただ、仏田先生に相談したかっただけだ、湯田さんにどうして変な嘘をばらまいたのか話を聞きたかった、と言おうとしたのだが。

 要するに、ママはわたしの言葉を聞く気は毛頭ないのだった。
 (ママだけじゃない……)
 湯田さんも、湯田さんの言葉を真に受けて、面白おかしくゴシップをばらまく子たちも、それを聞いてさらに大事に発展させる親たちも。
 もうここには、真実がどうなのかとか、一方の言葉だけじゃなく、わたしの言葉も聞かなくてはならないとか、根本に目を向けるひとは誰もいないのだ。

 今にも泣いてしまいそうになりながら、客間の戸を開いた。
 ポロシャツにスラックスといった、ラフないでたちの仏田先生がソファに座ってスマホを触っている。わたしが入ってきたのを知って、スマホを置いて顔を上げた。
 にこっと笑うと、「元気」と聞いてきた。わたしはかぶりを振った。元気なわけがなかった。

 向かい合って座ると、仏田先生は声を潜めて言った。
 「湯田さんは、なんでも面白おかしく膨らませて話す癖がある子」
 
 わたしは、はっとした。顔を上げると、微笑んでこちらを見つめる仏田先生と目があった。
 何か言いたかったけれど、言葉がうまく紡げない。仏田先生はわたしの顔を見て頷くと、話を続けた。

 「聖山さんと吉亜先生の間にそんな馬鹿なことがあるなんて、多分、誰も本気にしていない。盛り上げて尾ひれはひれをつけて、事実とは遠い話になっていることを、みんな、うっすらと理解している。理解しながらも、湯田さんに合わせて一緒になって笑ったり、噂したりしているのよ」

 仏田先生の笑顔が優しく、声が柔らかい分、話の内容が不気味で得体が知れない。
 なんだって、みんな分かっていて嘘の噂を楽しんで流しているのか。
 仏田先生は、慰めのつもりで言ったのかもしれないが、わたしはそれを聞いて、むらむらとどす黒い怒りや憎悪が込み上げてきた。一体、どんな権利があってわたしを――一人の人間を――ここまで追い詰めることが許されるのか。
 
 「けれど、親御さんのところまで話が行ってしまったら、学校側も動かざるを得なくなる。生徒たちは分かって盛り上がっているけれど、それを聞いた親の中には本気にする人もいるわ」
 
 ずうんとお腹が重たくなった。
 仏田先生はつまり、ザビエル先生の進退問題のことを示唆しているのではないか。
 
 「けれど幸い、今は夏休み中なのよ。二学期が始まるまでまだ間があるし、人の噂もナントヤラというでしょ。下手に、吉亜先生を異動させたり、聖山さんの補習担当を変えたりせずに、敢えてこのまま、なにもなかったようにしているのが良い……」
 だって、本当に何もないんだものね。そう、仏田先生は言った。
 「誰も本気にしていない噂、そのうちバカバカしくて消滅してしまう。そういうものよ」

 ぐうっと喉が詰まるような気がした。
 このまま納得してしまってはいけないように思えてならなかった。
 
 「実はね、あの電話の後、わたしの方から学年主任の先生に問い合わせてみたのよ。あ、もちろん吉亜先生の話も聞いたからね。学年主任の先生は、特に男女交際に興味がある年頃だから、そういう噂はこれまでたくさん流れてきた、確証がない限りいちいち本気に受け取って調査に乗り出すことはできないと言ったわ」
 
 男女交際に興味がある年頃。調査に乗り出すことはない……。
 
 つまりそれは、これからもザビエル先生の補習は続くという事だ。もちろんザビエル先生が辞めさせられるとか、責任を問われたりとかもしない。
 その代わり、学校側がこの件について調査し、真実を追求することもないということだ。

 誰もなにも傷つかず、なにも変わらない。
 だから、あなたは安心して今まで通り学校に補習に来て、はやく追試をクリアしなさい。
 仏田先生は、おおらかな調子で、力強く、わたしの手を握りながら、そう言ったのだった。

 「お母さんには、わたしからもお話しする。断じて吉亜先生とおかしなことにはなっていないし、こういう噂話は女の子たちの遊びみたいなものだから、心配されるようなことはないと」
 
 その時、扉がノックされた。お盆を持ったママが入ってきて、どうぞ、と先生の前に湯呑とお菓子を置いた。
 ちらっとわたしを横目で見た。凍り付きそうな程、冷たい視線である。

 仏田先生はわたしに目くばせした。なにか意味ありげだった。
 「神子ちゃんは、だいぶ参っておられるみたいで。一日おうちから出ていないと聞いてます。ね、ちょっと夜風にあたって気持ちを落ち着けてきたら」
 
 ママは変な顔をしたけれど、仏田先生が勧めることに目くじらをたてて反対する様子はなさそうだ。
 わたしも外の空気が吸いたかった。言葉に甘えて立ち上がると、じゃあ少しだけ歩いてきます、と、客間を出たのである。
 
 気を付けなさいよー、近所を歩くだけにしなさいよー。
 ママが心配して叫んだけれど、それを推しとどめるように仏田先生が、おかあさん大丈夫ですよ、もう高校生ですからわきまえておられますよ、と穏やかに言うのが聞こえた。

 (あとは、任せるしかない……)

 仏田先生の語ったこと全てに納得できたわけではないし、根本的な解決には永久にたどり着きそ餌食にして、自分たちの楽しみの肴にしているんだとしか思えなかった。
 
**

 それでも、夏の夜風は心地よかった。
 素足にサンダル履きでアスファルトを歩き、明るい夏の夜空を眺めると、気持ちがすうっと落ち着いていった。やっぱり外の空気は良い。
 
 もし今日、仏田先生が来てくれなかったら、わたしは永久にうちの中に閉じ込められ、外に出してもらえなかったかもしれなかった。
 ママの様子を思い出すと、まだ心臓がばくばくと不穏な音を立てそうになる。正直、またあのうちに戻ってママの声を聴くのかと思うと、やりきれなかった。

 街灯に羽虫がたくさん集まっている。
 そのチカチカした光に照らされて、向こうから背の高い人が歩いてくるのが見えた。間もなく明かりに顔が照らされて、その人がザビエル先生だと判った時、わたしは脱力して、その場にしゃがみ込んだのだった。

 大丈夫か、と聞かれたような気がするが、それには答えられなかった。
 涙で詰まりながら、わたしは必死で、先生ごめん、迷惑をかけてすいません、本当にごめんなさいと繰り返すだけだった。
 生ぬるいアスファルトに膝と手をつき、ぼたぼたと涙を落としながら、気が済むまで繰り返した。
 
 先生は立ったままの姿勢で、黙って聞いてくれていた。あやまるなとか、おまえは悪くないとか、一切口を挟まなかった。
 ただ、すみませんという言葉を受け取り続けてくれ、ようやくわたしが言葉をおさめた時、いつもと変わらない淡々とした口調で先生は言ったのだった。

 「仏田先生から今日、聖山のうちに行くと聞いて、一緒に訪問しようと思ったのだけど、うちの中には入らない方が良いと言われたので、外で待っていた」

 仏田先生のにこやかな笑顔が思い浮かぶ。
 ああ、先生。たぶん仏田先生は分かっている。わたしのママの気質や、わたしがどんな立場にあるのか。
 うちを訪問することですら、後にどんな波紋がわたしに押し寄せるのか危ういと、仏田先生は見抜いてくれていた。

 「第三者で、女のわたしが行けば、まだ穏やかに受け取って下さる。けれど、当事者の吉亜先生が、今お宅を訪問したら火に油を注いでしまうかもしれない」
 仏田先生のさばさばとした口調が思い浮かぶようだ。
 
 それでも仏田先生は、気を利かしてわたしとザビエル先生を再会させてくださった。
 あんな変な噂を立てられて、次に会う時はどんな顔をしようかと思っていなかったというと嘘になる。なんら恥じるような事実はないくせに、まともに顔も見れないと思っていた。
 けれど、ザビエル先生はごく普通の様子だったし、その静けさが伝わって、わたしも今まで通りの気持ちで先生と対峙できた。
 ああよかった、明日からまた普通に補習を受けることができる。そう思うと、いきなり肩の荷が下りたような気がした。

 「まあそのうち面談もあるし、おかあさんと顔を合わせることもある。その時に、ゆっくりとお気持ちをほぐしてゆけたらと思うよ」
 
 先生は歩き出し、わたしは少し遅れてその後をついた。
 うちのすぐ側にある、国道を歩く。車どおりは多いけれど自転車や歩行者はいない。ガードレールの向こう側は、青々としげる田んぼだった。
 けろけろとカエルの声が、一日幽閉されていた身には、実に楽しく自由に聞こえたものである。

 「先生、湯田さんはどうしてあんなでたらめを流したんだろう。わたし、あの人が許せない」

 何歩も先を歩く先生の背中に、投げかけてみる。
 わたしたちは相当離れて歩いていた。もし、向こう側の歩道を行く人がわたしたちを見たとしても、他人同士が同じ方向にたまたま歩いているだけのように見えたことだろう。

 「湯田の両親はね、離婚してるんだよ。今のおかあさんは、あれはおとうさんの再婚相手」
 唐突に、ザビエル先生は言った。
 
 「小さい弟が生まれたので、湯田はうちではほぼ放置されているんじゃないのか。恐らく、そうなる以前に、新しい家族へのためらいや遠慮はあったと思うし、つまり」
 湯田は、家庭では孤立していると思われる。
 ……。

 わたしは黙っていた。
 先生は、本当は他言してはならないことを語ってくれているのだ。
 湯田さん側の事情を語ることで、少しでもわたしの心が穏やかになるように。わたしが湯田さんを許すことができるように。

 わたしは、湯田さんのことを想像した。
 学校では人気者で、クラスの中心グループで幅を利かせている。彼女は笑いを取るのが上手で、面白い話はいつでも彼女から発信された。
 尽きることのないネタを彼女は持っていて、学校の中のどんなことも知っていて、よくまあそんな面白い情報を持っているなあと、誰もが感心していた。

 実は、家庭での孤独を慰めるために、せめて学校ではみんなの注目を浴びようとしているのか。
 
 「夏休みに入り、学校の中の情報が不足していたのだろう。湯田も必死だったんだろう」
 なにか面白いこと。なにか、みんなに教えたら、わっと沸き立つようなこと……。

 夏休み中、湯田さんは家の中にあまりいなかったのじゃないだろうか。
 友達と遊びに行ったり、英会話部の活動をしたり。
 だけど、仲良しと一緒に過ごす中で、湯田さんお得意の面白い情報をみんなに提供することが、夏休みの間は困難になる。なにせ、学校自体がお休みなのだから。

 「だから、でっちあげでもいいから、噂を流したんですか」
 わたしは言った。
 声が震えてしまった。ああだめだ。やっぱりわたしは、どうしても湯田さんを許せそうもない。

 「複雑な家庭事情を持っている可哀そうなひとは、何をしてもいいんですか、許してもらえるんですか」
 
 ザビエル先生に喰いついても仕方がないのは分かっている。けれど、不公平だ、理不尽だ、結局ひどい目にあったのはわたしだけじゃないか、という思いが心をどす黒くさせた。

 「どこにも主の目は注がれ、善人をも悪人をも見ておられる」
 ザビエル先生が例によって聖書の言葉を言ったけれど、わたしは撥ねつけるように怒鳴ってしまったのだった。

 「何言ってんですか。神様なんか、エコヒイキの塊じゃない。楽しく活き活きと生きることができる人たちと、その人たちに踏み台にされて暗くなってる人と。その、暗くなってる人に、我慢しろ許してやれって説くのが信仰なんでしょう」
 バッカじゃないの、笑わせる、いつだってイイ思いをする人と、酷い目に遭う人がいる。
 神様が本当にいるんなら、平等にならしてみろってんのよ!

 ……ということを、わたしは恐れ多くも、牧師さん本人に叩きつけたのだ。
 ザビエル先生は数学の先生であると同時に、教会の牧師さんである。
 吐き捨ててしまって、すぐにわたしは気付いた。
 今わたしは、つまり、ザビエル先生に、「あんたの信じているものなんか嘘っぱち」と面と向かって言ってしまったのだ。

 ああ――わたしは口をおさえて、振り向かずに歩き続けるザビエル先生の背中を見つめた。
 心が痛み、ものすごい後悔の念が沸き起こった。
 
 (ごめん先生)
 と、詫びる気持ちに、なぜだか、
 (ごめんジャンヌちゃん)
 という、呼びかけが重なった。

 ジャンヌちゃん。そうか、ジャンヌちゃんも神様を信じていた。
 先生の信じる神様も、ジャンヌちゃんの信じる神様も、同じキリスト教の神様だ。
 一瞬、ジャンヌちゃんの、あの黒くて真摯な瞳が大きく映った。

 **

 きらり。
 その時、頭上から風に舞うようにして目の前に泳いできたものは、一本のリボンだった。
 七色に輝く、オーガンジーのように綺麗なリボン。

 誰かのスカーフが飛んで来たのかと思ったけれど、そうじゃなかった。そのリボンはやけに長くて、夜空の遙か彼方からわたしに繋がって、らせんを描きながら舞っている。

 ああこれは。
 わたしとジャンヌちゃんを繋ぐ、時空のリボン。
 あの時、天使が抜き身の剣で切ったと思っていたのだけど、まだ千切れずに残っていたのか。

 ふわりとリボンは風に揺れ、今にも夜の空気に溶けそうに儚く薄まった。慌ててわたしは手を伸ばした。
 見えているうちに掴まなくては。こんなチャンスは滅多にない――手を伸ばし、前につんのめりながら、ジャンヌちゃんに繋がるリボンを握りしめた。
 だけどその時、足元の石につまづいて、わたしは派手に転んだ。振り向いて手を差し伸べ、わたしを助けてくれようとするザビエル先生。
 
 ああ、またやってしまった。
 とっさにわたしは、先生の手を握ってしまった。
 片方の手で時空のリボン。もう片方の手で、先生の手。


 時空の扉がどんな具合で開閉し、ひとはタイムトラベラーになるのか、そんなこと、誰も知らない。
 
 とにかくその瞬間、21世紀の日本の夏の夜の国道から、15世紀フランスへと、わたしたちは二人まとめて、タイムスリップしたのだった。


[第二章 了]
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