その5 主は憐れみ深く、恵みに富み
文字数 6,115文字
主は憐れみ深く、恵みに富み
忍耐強く、慈しみは大きい。
永久に責めることも、怒り続けられることもない。
主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく
わたしたちの悪に従って報いられることもない。(詩編)
**
ジャンヌが生まれたのは、1412年ごろとされる。
ドン・レミーの富農、ジャック・ダルクの長女として誕生した。まさに、百年戦争の最中である。
ドン・レミーはフランス領ではあったが、敵の領地と隣接していたため、百年戦争中、何度も戦火に巻き込まれている。ジャンヌは幼いころから、父をはじめとする村の男衆が敵の兵士と戦う姿を見て来たのではないか。
(どうして、こんな目に)
という思いが、ジャンヌの心の根底に流れていたとしても不思議ではなく、それはやがて、真摯な信仰と結びつき、フランスへの愛国心へと燃え上がっていったのかもしれない。
ドン・レミーで育ち、ひとびとから愛されてきたのに違いないジャンヌ。教会通いを欠かさなかったし、よく働いて気立てが良かった。もちろん、気の強い面もあったはずだが、おおむね優しくて信心深い、良い娘だったのである。
「神の声」を聴き、い、王太子のいるシノンに向かう。無事に謁見を済ませたジャンヌは、「ラ・ピュセル」として戦場に繰り出す。不思議な力に導かれ、ジャンヌは勝利を重ねた。
敵に包囲されたオルレアンを奪還した「オルレアンの軌跡」で、ジャンヌの名声は揺るぎないものとなる。そして、王太子シャルルはついに、フランス国王シャルル7世として即位したのだった。
そこまでの上り坂が急だった分、後にイギリスの捕虜となり、火刑台の悲劇にまで転落する道のりも、あまりにも救いがないものとなる。
ジャンヌと一緒に戦場で戦ったものたちは皆、彼女に対する処遇に疑問を持ち、ジャンヌをなんとか救い出したいと願った。
保釈金さえ積めば、敵はジャンヌをフランスに返してくれたはずである。ところが、シャルル7世はそうしなかった。
見捨てられた「ラ・ピュセル」。
王はジャンヌを捨て、同時に神の奇跡もジャンヌから消え去った――ように、見えた。
(どうして、こんな目に)
信仰のままに、戦ったジャンヌ。
牢獄の中で、異端者尋問の中で、こう思わなかったはずがない。
どうして。
神よ、答えてください。
そう、祈らなかったわけが、ない。
わたしは、そう思う。
時空のリボンの虹色の輝きはらせんを描きながらわたしを導く。
15世紀のフランスから、21世紀の日本の片田舎の、夜の国道へ。
柔らかく全てを包み込むような冬の日差しは遠のき、枝から落ちようとする滴が七色に輝くのを、わたしは見た。
すうっと意識が遠のくような感覚を得て、気が付くとわたしは、生ぬるいアスファルトの上でサンダル履きの足を踏みしめており、目の前にはポロシャツ姿のザビエル先生が、なんとも言えない表情でこちらを眺めているのだった。
そうだ。
わたしはさっき、ここで転び掛けてザビエル先生に助けられた。その瞬間のタイムスリップだったのだ。
片手をザビエル先生の取られていることに気づいて、ぎょっと手をひっこめた――こんなところ、また誰かに見られたら、たまらない。
目の前を、虹色の時空のリボンがふわりと踊った。
あれよあれよという間に、リボンは夜闇にほぐれてゆき、やがて綺麗さっぱりとなくなったのである。
天からゆらゆらと舞い降りてきた、わたしとジャンヌちゃんを繋ぐ、時空のリボン――消えた、消えてしまった――多分、わたしとジャンヌちゃんのリンクはここで切れてしまったのだと感じた。
ぽっかりと胸に穴が空いたようだ。
車が一台、通り過ぎてゆく。ライトが、まるで夜の海を漂う夜光虫みたいだった。
歩道に人はいない。向こう側にあるコンビニが、やけに遠く見えた。
「……15世紀に行っていましたよね」
念のため、わたしは言った。
先生は僅かに視線を泳がせ、沈黙の後で、「ああ」と答えた。
「神の創り給うたこの世界は、不可思議に満ちている。奇跡でできている。なにがあっても驚くことはない」
また、そういう難しいことを言い出した。
一瞬、まだ先生に例の天使が憑りついているのかと危ぶんだが、どうやら先生は先生だ。その台詞の後ですぐに「明日は補習の後で追試だ。今度こそ通れ」と言ったので、ああ大丈夫だ、間違いなくザビエル先生だと確信できた。
「百年戦争の時代に行った直後に、数学の追試ですか」
と、わたしが言うと、そんなもの関係あるか、と即座に返ってくる。
なにが奇跡かって、いきなりのタイムスリップやジャンヌ・ダークとのリンクより、なにが起きても動じない、先生の精神力だと、わたしは思う。
戻るか、お母さんが心配するだろう。
先生はそう言うと、向きを変えて歩き出した。すれ違いざま、ぽんとわたしの頭に手を置いて、少しは数学を好きになれ、と言った。
(無理です)
心の中で呟いておいた。
**
夏休みの間、ジャンヌ・ダークと数学に漬け込まれていた。
この夏、わたしが得たことは、ジャンヌちゃんについての知識と、ほんのちょっぴりだけ、数学の公式が分かるようになったことだろうか。
ああ、それと、ザビエル先生と過ごした時間が長かったせいで、妙に聖書の名言に詳しくなった気もする。
(なにひとつ、変わっていない)
息詰まるような現実と、籠の中から世界を遠く眺めるような日々は。
高校一年の夏休みは、おかしな時間だった。いろいろなことがあったけれど、わたしは、神様が何を考えているのかも、ジャンヌちゃんの生き方も、数学も、結局は理解できないままである。
ぽくぽくと夜の道を家に向って歩きながら、わたしは未だに不満でいっぱいだったし、これからまたママの声を聴くのかと思ったら、げんなりと暗い気分だった。
ひとつ確かなことは、ジャンヌちゃんとわたしのリンクはこれで途切れてしまったから、もう永久に、あの変な白昼は見ないだろうということ。
ジャンヌちゃんを説得して、あの悲惨な最期を回避しようというわたしの目論見は、完全に壊れた。歴史はなんら変わらぬままである。
「追試、今までやったところから出すからな」
と、先生は言った。
国道から細い道に入り、そこを曲がれば家のある集落が見える。
先生は立ち止まり、そこでわたしを見送ろうとしていた。
(そうだった、ママは未だにザビエル先生に不信感を抱いている……)
正確には、全てが誤解であった、ザビエル先生もわたしも無実の罪で騒がれていたと知ったうえで、意固地なママは自分を曲げることができず、なんとなくザビエル先生と顔を合わせるのが嫌なのだろう。
三者面談の頃までには、ママの心境が変わっていてほしい。
「通りますよ、きっと」
振り向いて、わたしは言った。
立ち止まったままの先生は、ひょろ長くてそのまま夜の中に溶けてしまいそうに見える。
先生は頷き、期待しているぞと言って手を振った。
わたしはぺこりと頭を下げた。
てくてく歩いていくと、家の方から仏田先生がやってきた。わたしの姿を見つけてほっとしたように「おかえり」と言った。
心配して出てきたのだろうか。ふと、自分はどれくらいの時間、家から出ていたのだろうと心配になった。
「お母さんがすごく心配しているよ。ほんの五分くらいなのに」
仏田先生は眉をひそめている。そろそろママの異常性に気づきだした様子だ。
「籠の鳥なんですよ」
と、わたしがぶすっと言うと、仏田先生は苦笑して、大変ねーと言った。
ああ、やっぱり先生は分かってくれている――なんとなく、気分が軽くなった。
「一緒に家に入ろう。お母さんが落ち着いたのを見てから、わたしも帰るから」
と、仏田先生は言った。
すぐそこに、明かりのついたうちの玄関が見えている。きっと家の中ではママが、苛々しながらエプロンをもみくちゃにしているのに違いない。
(先生、感謝……)
「神子さん、ちゃんと戻ってこられましたよー」
玄関を開いて、先生は明るく叫んだ。
そのおおらかな声は、陰鬱で重苦しい家の中を、僅かに明るく照らしてくれたようだった。
**
仏田先生がいろいろと話してくれたのと、ママの愚痴を聞いてくれたのとで、ママは少し穏やかになったようだ。
相変わらず眉をひそめて暗い顔をして、わたしと目が合うだけでイラッとほっぺたを引きつらせたけれど、ヒステリックにわめくことはもうなかった。
「明日、追試なんだってね。ちゃんと復習して、よく休むのよ……」
ママは言うと、台所に引っ込んでしまった。
二階の自室にあがり、勉強机に向った。
異様な体験をした直後だから、まだ気持ちが高ぶっている。それでも、教科書を開くとスムーズに数学に集中することができた。
頭の動き方が、明らかに変わっている。
もうわたしは、あらぬことを考えてぼうっとしたり、覚えなくてはならない数式を拒否したりすることはなかった。
何度も、何度も、ザビエル先生が黒板に書いて説明してくれた式。
その式がどんな意味を持つのか、なんてことを理解するまでには至らなかったけれど、丸暗記することはできる。
かりかりとシャープペンをノートに走らせた。夏の間中、補習授業の黒板をだらだらと写し続けて来たノート。
あともう、数ページで終わることに今気づいた――なんて、たくさんの補習を受けて来たのだろう。
(もうすぐお盆)
お盆にはママの実家に帰り、おばあちゃんの家で泊まる。
なんら、夏らしくない夏休みだけど、その数日だけは、ちゃんと夏っぽくなるはずだった。
おばあちゃんの家で、のびのびと休む。
窮屈な学校や、進路のことなどから離れて、お盆を過ごす。
そう考えると、すうっと光が差し込むように思えた。
(この追試をパスすれば、お盆)
ますます集中して復習をする。
そうだ、これが最後のチャンスだ。この追試を逃したら、お盆はなくなる。ザビエル先生も夏休みはなくなる。八月の最後まで、補習の日々となる。
いいや、そうはならない。
わたしは自信を持ってそう言える。
きっと、追試には受かる。絶対に受かる。必ず受かる。
……。
そして、その自信は現実となったのだった。
**
じわじわと油蝉が鳴いている。
今年は猛暑だから、あまり校庭で運動部が出て活動する様子は見えない。ちょっと練習したらすぐに屋内に引っ込むようだ。
追試を受けた後、わたしは机に頬付けをつき、あまりに強烈な日差しのために何もかもが白く見える窓の外を眺めた。
蝉の声はすぐに止んだ。今年は虫も少ない気がする。暑すぎて蝉も弱っているのかもしれない。
窓から見える夏の風景は、くっきりと強烈で美しかった。
猛烈な緑の茂みはてらてらと光りを受けていたし、青い空には雲が勢いよく吹き上がっている。
校庭のフェンスの向こうに連なる家々の瓦は焼けて暑そうで、どこからか「じゃーっ」と、ホースで水を撒く音も聞こえた。
同じ「ぼー」っとするのでも、こんな「ぼー」っと仕方を、忘れていた。
ジャンヌちゃんの白昼夢でぼうっとしていたことはあっても、窓の外を見て綺麗だと思う事はなかった。
世界は、綺麗だった。
強烈に輪郭がくっきりとしていて、なにもかもが生きて主張していた。
そして、その世界こそがわたしが生きている現実であり、そこには膨大な歴史が下積みになっているはずなのだった。
日本とヨーロッパは離れているけれど、ジャンヌ・ダークが歴史に多大な影響を及ぼしたのは事実だ。彼女がいたからこその、今のフランス、ヨーロッパなのだろう。
だとすると、多少なりとも、現在の日本にも彼女の存在は影響しているはずだ。
ジャンヌちゃんの上に成り立っている世界。
そう思ったら、なおさら窓の外の風景が美しく、鮮やかに思えた。
きゅっきゅっ。
教壇では、今しがたわたしから受け取った追試の答案用紙を、ザビエル先生が添削していた。
淡々とした表情で、答案の出来が良いのか悪いのか、見ているだけでは想像もつかない。
だが、わたしには手ごたえがあった。
(この時間が、今まで苦痛で仕方がなかったんだよな)
なにひとつ、まともに解けていないテストの答案を、添削されている時間。
だけど今日は、穏やかな気持ちだった。
なにか、目の前の幕が開けたようだ。
夏なのだ。今まで、気が付かなかった。この風景を見ないまま、俯いて季節を通り過ぎるところだった。
ひらひらと、今にも落っこちてしまいそうな飛び方で、蝶が窓の外を過る。日陰に入って止まるのかもしれない。
その白い色彩が通り過ぎるのを見送った後、わたしは、自分の手元にぽたんと水滴が落ちるのを見たのだった。
なんで自分が泣いているのか、分かるような、分からないような気分だった。
目が痛くなるような日差しと、暑い暑いと文句を言いながらも、必死で涼を取りながら生きている人々、生き物たち。
もくもくと天へ伸びる雲の向こう側に、もしも、本当に神様がいるのだとしたら――この世を創ったという神様がいるのだとしたら――やはり神様は、得体が知れないほどの力をお持ちなのに違いないのだった。
理不尽な思いをしている人でも、誰かを踏みつけている人でも、同じ場所で、同じ季節を過ごしている。
みんな同じ船に乗って、時間を流れてゆく。生きてゆく。
そこには平等になにかが注がれているのかもしれない――納得できているわけでは決してないのだけど、なんとなくわたしは、そう思ったのだった。
**
「よく、がんばった」
合格だ。
答案用紙が返って来た。
ザビエル先生は淡々とした顔で、わたしを見下ろした。
わたしも、ザビエル先生を見上げた。
じいわじいわ――再び、油蝉が鳴きはじめる。
やっと、夏休みだ。
「新学期まで、元気で過ごしなさい」
先生はそう言うと、わたしの前から離れていった。
とんとんと教材を机の上で整えている。先生はこれから職員室に行って、まだ仕事があるのかな。
わたしは立ち上がると、ありがとうございました、と、先生に頭を下げた。
合格した答案をカバンに入れ、教室から廊下に出た時、一瞬、期待した。
扉を開いた向こう側に、ジャンヌちゃんのいる世界が広がっているのではないかと。
だけどそこはただの白い廊下であり、大きな窓からは真夏の日差しが白く強く、差し込んでいるだけだったのである。
じいわ、じいわ……。
(やっと、夏休みなんだ……)
忍耐強く、慈しみは大きい。
永久に責めることも、怒り続けられることもない。
主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく
わたしたちの悪に従って報いられることもない。(詩編)
**
ジャンヌが生まれたのは、1412年ごろとされる。
ドン・レミーの富農、ジャック・ダルクの長女として誕生した。まさに、百年戦争の最中である。
ドン・レミーはフランス領ではあったが、敵の領地と隣接していたため、百年戦争中、何度も戦火に巻き込まれている。ジャンヌは幼いころから、父をはじめとする村の男衆が敵の兵士と戦う姿を見て来たのではないか。
(どうして、こんな目に)
という思いが、ジャンヌの心の根底に流れていたとしても不思議ではなく、それはやがて、真摯な信仰と結びつき、フランスへの愛国心へと燃え上がっていったのかもしれない。
ドン・レミーで育ち、ひとびとから愛されてきたのに違いないジャンヌ。教会通いを欠かさなかったし、よく働いて気立てが良かった。もちろん、気の強い面もあったはずだが、おおむね優しくて信心深い、良い娘だったのである。
「神の声」を聴き、い、王太子のいるシノンに向かう。無事に謁見を済ませたジャンヌは、「ラ・ピュセル」として戦場に繰り出す。不思議な力に導かれ、ジャンヌは勝利を重ねた。
敵に包囲されたオルレアンを奪還した「オルレアンの軌跡」で、ジャンヌの名声は揺るぎないものとなる。そして、王太子シャルルはついに、フランス国王シャルル7世として即位したのだった。
そこまでの上り坂が急だった分、後にイギリスの捕虜となり、火刑台の悲劇にまで転落する道のりも、あまりにも救いがないものとなる。
ジャンヌと一緒に戦場で戦ったものたちは皆、彼女に対する処遇に疑問を持ち、ジャンヌをなんとか救い出したいと願った。
保釈金さえ積めば、敵はジャンヌをフランスに返してくれたはずである。ところが、シャルル7世はそうしなかった。
見捨てられた「ラ・ピュセル」。
王はジャンヌを捨て、同時に神の奇跡もジャンヌから消え去った――ように、見えた。
(どうして、こんな目に)
信仰のままに、戦ったジャンヌ。
牢獄の中で、異端者尋問の中で、こう思わなかったはずがない。
どうして。
神よ、答えてください。
そう、祈らなかったわけが、ない。
わたしは、そう思う。
時空のリボンの虹色の輝きはらせんを描きながらわたしを導く。
15世紀のフランスから、21世紀の日本の片田舎の、夜の国道へ。
柔らかく全てを包み込むような冬の日差しは遠のき、枝から落ちようとする滴が七色に輝くのを、わたしは見た。
すうっと意識が遠のくような感覚を得て、気が付くとわたしは、生ぬるいアスファルトの上でサンダル履きの足を踏みしめており、目の前にはポロシャツ姿のザビエル先生が、なんとも言えない表情でこちらを眺めているのだった。
そうだ。
わたしはさっき、ここで転び掛けてザビエル先生に助けられた。その瞬間のタイムスリップだったのだ。
片手をザビエル先生の取られていることに気づいて、ぎょっと手をひっこめた――こんなところ、また誰かに見られたら、たまらない。
目の前を、虹色の時空のリボンがふわりと踊った。
あれよあれよという間に、リボンは夜闇にほぐれてゆき、やがて綺麗さっぱりとなくなったのである。
天からゆらゆらと舞い降りてきた、わたしとジャンヌちゃんを繋ぐ、時空のリボン――消えた、消えてしまった――多分、わたしとジャンヌちゃんのリンクはここで切れてしまったのだと感じた。
ぽっかりと胸に穴が空いたようだ。
車が一台、通り過ぎてゆく。ライトが、まるで夜の海を漂う夜光虫みたいだった。
歩道に人はいない。向こう側にあるコンビニが、やけに遠く見えた。
「……15世紀に行っていましたよね」
念のため、わたしは言った。
先生は僅かに視線を泳がせ、沈黙の後で、「ああ」と答えた。
「神の創り給うたこの世界は、不可思議に満ちている。奇跡でできている。なにがあっても驚くことはない」
また、そういう難しいことを言い出した。
一瞬、まだ先生に例の天使が憑りついているのかと危ぶんだが、どうやら先生は先生だ。その台詞の後ですぐに「明日は補習の後で追試だ。今度こそ通れ」と言ったので、ああ大丈夫だ、間違いなくザビエル先生だと確信できた。
「百年戦争の時代に行った直後に、数学の追試ですか」
と、わたしが言うと、そんなもの関係あるか、と即座に返ってくる。
なにが奇跡かって、いきなりのタイムスリップやジャンヌ・ダークとのリンクより、なにが起きても動じない、先生の精神力だと、わたしは思う。
戻るか、お母さんが心配するだろう。
先生はそう言うと、向きを変えて歩き出した。すれ違いざま、ぽんとわたしの頭に手を置いて、少しは数学を好きになれ、と言った。
(無理です)
心の中で呟いておいた。
**
夏休みの間、ジャンヌ・ダークと数学に漬け込まれていた。
この夏、わたしが得たことは、ジャンヌちゃんについての知識と、ほんのちょっぴりだけ、数学の公式が分かるようになったことだろうか。
ああ、それと、ザビエル先生と過ごした時間が長かったせいで、妙に聖書の名言に詳しくなった気もする。
(なにひとつ、変わっていない)
息詰まるような現実と、籠の中から世界を遠く眺めるような日々は。
高校一年の夏休みは、おかしな時間だった。いろいろなことがあったけれど、わたしは、神様が何を考えているのかも、ジャンヌちゃんの生き方も、数学も、結局は理解できないままである。
ぽくぽくと夜の道を家に向って歩きながら、わたしは未だに不満でいっぱいだったし、これからまたママの声を聴くのかと思ったら、げんなりと暗い気分だった。
ひとつ確かなことは、ジャンヌちゃんとわたしのリンクはこれで途切れてしまったから、もう永久に、あの変な白昼は見ないだろうということ。
ジャンヌちゃんを説得して、あの悲惨な最期を回避しようというわたしの目論見は、完全に壊れた。歴史はなんら変わらぬままである。
「追試、今までやったところから出すからな」
と、先生は言った。
国道から細い道に入り、そこを曲がれば家のある集落が見える。
先生は立ち止まり、そこでわたしを見送ろうとしていた。
(そうだった、ママは未だにザビエル先生に不信感を抱いている……)
正確には、全てが誤解であった、ザビエル先生もわたしも無実の罪で騒がれていたと知ったうえで、意固地なママは自分を曲げることができず、なんとなくザビエル先生と顔を合わせるのが嫌なのだろう。
三者面談の頃までには、ママの心境が変わっていてほしい。
「通りますよ、きっと」
振り向いて、わたしは言った。
立ち止まったままの先生は、ひょろ長くてそのまま夜の中に溶けてしまいそうに見える。
先生は頷き、期待しているぞと言って手を振った。
わたしはぺこりと頭を下げた。
てくてく歩いていくと、家の方から仏田先生がやってきた。わたしの姿を見つけてほっとしたように「おかえり」と言った。
心配して出てきたのだろうか。ふと、自分はどれくらいの時間、家から出ていたのだろうと心配になった。
「お母さんがすごく心配しているよ。ほんの五分くらいなのに」
仏田先生は眉をひそめている。そろそろママの異常性に気づきだした様子だ。
「籠の鳥なんですよ」
と、わたしがぶすっと言うと、仏田先生は苦笑して、大変ねーと言った。
ああ、やっぱり先生は分かってくれている――なんとなく、気分が軽くなった。
「一緒に家に入ろう。お母さんが落ち着いたのを見てから、わたしも帰るから」
と、仏田先生は言った。
すぐそこに、明かりのついたうちの玄関が見えている。きっと家の中ではママが、苛々しながらエプロンをもみくちゃにしているのに違いない。
(先生、感謝……)
「神子さん、ちゃんと戻ってこられましたよー」
玄関を開いて、先生は明るく叫んだ。
そのおおらかな声は、陰鬱で重苦しい家の中を、僅かに明るく照らしてくれたようだった。
**
仏田先生がいろいろと話してくれたのと、ママの愚痴を聞いてくれたのとで、ママは少し穏やかになったようだ。
相変わらず眉をひそめて暗い顔をして、わたしと目が合うだけでイラッとほっぺたを引きつらせたけれど、ヒステリックにわめくことはもうなかった。
「明日、追試なんだってね。ちゃんと復習して、よく休むのよ……」
ママは言うと、台所に引っ込んでしまった。
二階の自室にあがり、勉強机に向った。
異様な体験をした直後だから、まだ気持ちが高ぶっている。それでも、教科書を開くとスムーズに数学に集中することができた。
頭の動き方が、明らかに変わっている。
もうわたしは、あらぬことを考えてぼうっとしたり、覚えなくてはならない数式を拒否したりすることはなかった。
何度も、何度も、ザビエル先生が黒板に書いて説明してくれた式。
その式がどんな意味を持つのか、なんてことを理解するまでには至らなかったけれど、丸暗記することはできる。
かりかりとシャープペンをノートに走らせた。夏の間中、補習授業の黒板をだらだらと写し続けて来たノート。
あともう、数ページで終わることに今気づいた――なんて、たくさんの補習を受けて来たのだろう。
(もうすぐお盆)
お盆にはママの実家に帰り、おばあちゃんの家で泊まる。
なんら、夏らしくない夏休みだけど、その数日だけは、ちゃんと夏っぽくなるはずだった。
おばあちゃんの家で、のびのびと休む。
窮屈な学校や、進路のことなどから離れて、お盆を過ごす。
そう考えると、すうっと光が差し込むように思えた。
(この追試をパスすれば、お盆)
ますます集中して復習をする。
そうだ、これが最後のチャンスだ。この追試を逃したら、お盆はなくなる。ザビエル先生も夏休みはなくなる。八月の最後まで、補習の日々となる。
いいや、そうはならない。
わたしは自信を持ってそう言える。
きっと、追試には受かる。絶対に受かる。必ず受かる。
……。
そして、その自信は現実となったのだった。
**
じわじわと油蝉が鳴いている。
今年は猛暑だから、あまり校庭で運動部が出て活動する様子は見えない。ちょっと練習したらすぐに屋内に引っ込むようだ。
追試を受けた後、わたしは机に頬付けをつき、あまりに強烈な日差しのために何もかもが白く見える窓の外を眺めた。
蝉の声はすぐに止んだ。今年は虫も少ない気がする。暑すぎて蝉も弱っているのかもしれない。
窓から見える夏の風景は、くっきりと強烈で美しかった。
猛烈な緑の茂みはてらてらと光りを受けていたし、青い空には雲が勢いよく吹き上がっている。
校庭のフェンスの向こうに連なる家々の瓦は焼けて暑そうで、どこからか「じゃーっ」と、ホースで水を撒く音も聞こえた。
同じ「ぼー」っとするのでも、こんな「ぼー」っと仕方を、忘れていた。
ジャンヌちゃんの白昼夢でぼうっとしていたことはあっても、窓の外を見て綺麗だと思う事はなかった。
世界は、綺麗だった。
強烈に輪郭がくっきりとしていて、なにもかもが生きて主張していた。
そして、その世界こそがわたしが生きている現実であり、そこには膨大な歴史が下積みになっているはずなのだった。
日本とヨーロッパは離れているけれど、ジャンヌ・ダークが歴史に多大な影響を及ぼしたのは事実だ。彼女がいたからこその、今のフランス、ヨーロッパなのだろう。
だとすると、多少なりとも、現在の日本にも彼女の存在は影響しているはずだ。
ジャンヌちゃんの上に成り立っている世界。
そう思ったら、なおさら窓の外の風景が美しく、鮮やかに思えた。
きゅっきゅっ。
教壇では、今しがたわたしから受け取った追試の答案用紙を、ザビエル先生が添削していた。
淡々とした表情で、答案の出来が良いのか悪いのか、見ているだけでは想像もつかない。
だが、わたしには手ごたえがあった。
(この時間が、今まで苦痛で仕方がなかったんだよな)
なにひとつ、まともに解けていないテストの答案を、添削されている時間。
だけど今日は、穏やかな気持ちだった。
なにか、目の前の幕が開けたようだ。
夏なのだ。今まで、気が付かなかった。この風景を見ないまま、俯いて季節を通り過ぎるところだった。
ひらひらと、今にも落っこちてしまいそうな飛び方で、蝶が窓の外を過る。日陰に入って止まるのかもしれない。
その白い色彩が通り過ぎるのを見送った後、わたしは、自分の手元にぽたんと水滴が落ちるのを見たのだった。
なんで自分が泣いているのか、分かるような、分からないような気分だった。
目が痛くなるような日差しと、暑い暑いと文句を言いながらも、必死で涼を取りながら生きている人々、生き物たち。
もくもくと天へ伸びる雲の向こう側に、もしも、本当に神様がいるのだとしたら――この世を創ったという神様がいるのだとしたら――やはり神様は、得体が知れないほどの力をお持ちなのに違いないのだった。
理不尽な思いをしている人でも、誰かを踏みつけている人でも、同じ場所で、同じ季節を過ごしている。
みんな同じ船に乗って、時間を流れてゆく。生きてゆく。
そこには平等になにかが注がれているのかもしれない――納得できているわけでは決してないのだけど、なんとなくわたしは、そう思ったのだった。
**
「よく、がんばった」
合格だ。
答案用紙が返って来た。
ザビエル先生は淡々とした顔で、わたしを見下ろした。
わたしも、ザビエル先生を見上げた。
じいわじいわ――再び、油蝉が鳴きはじめる。
やっと、夏休みだ。
「新学期まで、元気で過ごしなさい」
先生はそう言うと、わたしの前から離れていった。
とんとんと教材を机の上で整えている。先生はこれから職員室に行って、まだ仕事があるのかな。
わたしは立ち上がると、ありがとうございました、と、先生に頭を下げた。
合格した答案をカバンに入れ、教室から廊下に出た時、一瞬、期待した。
扉を開いた向こう側に、ジャンヌちゃんのいる世界が広がっているのではないかと。
だけどそこはただの白い廊下であり、大きな窓からは真夏の日差しが白く強く、差し込んでいるだけだったのである。
じいわ、じいわ……。
(やっと、夏休みなんだ……)