その1 わたしの目には、あなたは高価で尊い
文字数 2,429文字
わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(イザヤ書)
**
明日から夏休み。今年はことさら太陽がまぶしい。
(焼けちまう……)
クラスの女子たちはきゃぴきゃぴと夏の予定について話し合っているし、男子たちもいつもにまして浮かれている。
ずうん。
その中で一人だけ、沈黙の沼に浸る奴がいる――わたしだ。
本来、高校は青春絶好調の時であるはずなのに、なんだろうこの暗い感じは。
進学校だしお嬢様は多いし、部活動だって活発だ。こんなに輝かしい舞台の中で、どうして自分だけこんなに澱んでいるのやら。
「……ねっ、聖山さん、だよねー」
いきなり話を振られて飛び上がった。
ぎょっと顔を上げると、何人かの女子たちが笑顔でわたしの机を囲んでいる。
クラスでも大人しめのひとたちだ。話しかけてきてくれた子は中でも優しいひと。孤立しているわたしを救おうと、これまでも何回か手を差し伸べてくれたことがあったけれど。
「……ん、うん」
だけどわたしの喉から出て来た言葉は、これが精いっぱいだ。
発語しようとしたら、気道が押しつぶされたみたいになってうまく言葉が紡げないのである。
ばくばく。心臓がものすごい勢いで早打ちしはじめる。怖い怖い。全身の細胞が青ざめている。
(ああ、いつからだろう)
人間が、怖いと感じるなんて。
否、怖いというより。
(大っ嫌い……)
せっかく話を振っても万事この有様だ。優しい子でも困ってしまうだろう。今も、ちょっと眉間を曇らせている。
周囲の女の子たちは目くばせしあい、溜息をついたり、小さくかぶりを振ったりしていた。
ダメよ、この人に話しかけても。
うまくやっていこうなんて気が、はなからないんだから……。
まるで水がするすると引いてゆくように、女の子たちはわたしの側から離れてゆく。
そしてまた別の所で、きゃあっと楽しそうな声が聞こえてくるのだった。
キンコーン。
一学期最後のベルが鳴る。これにておしまい。
みんな歓声を上げて教室を飛び出した。残ったわたしはスゴスゴとカバンに教科書をつめ、がたんと立ち上がったのだった。
「聖山ー、補習忘れるなよー」
ぎくっとした。
わたしだけしか残っていないと思っていたら、教室には担任の吉亜センセがいた。
教壇に頬杖をつき、淡々とした目でわたしを見ている。
独身。
まだ二十代。
それだけでクラスの女子たちは色めき立っているが、当の本人はまるで女子にはなびかない。
甘ったるい声でセンセ、セーンセ、と寄ってくる女子に対しても、冷静で淡々とした態度を変えず。
「ああいうのを朴念仁っていうのよ」
いつか、クラスの中心グループの子が言っていたなあ。
たぶん、自分が思うような反応をセンセが示してくれなかったから、腹を立てたんだろう。
「ねー聞いてよ、あのセンセ、クリスチャンなんだってさ」
「へー、じゃあホーリーネームとか持ってるわけー」
「えー、ザビエルとか。ちょーウケルー」
以来、担任のあだ名はザビエルになった。ちなみに、彼のホーリーネームが本当は何なのか誰も知らない。
そのザビエルが、やけに冷淡な声で、夏の補習を忘れるなと警告してきた。
「忘れませんよ」
と、わたしは言い返した。ザビエルはちょっとにやっとした。
「補習をして、追試。それで赤点を返上してやろうというのだから、感謝してほしいもんだ」
この暑いのに。
付け足してから、ザビエルは立ち上がり、教室を出ていった。
わたしも立ち上がり、ほてほてと廊下に出た。廊下も暑かった。
(灼熱の夏になるなあ)
クーラーがあまり効かない教室で、数学の補習。
しかもどうやら、補習を受けるのはわたし一人であるらしく。
おまけに補習を見てくれるのは、ザビエル先生なのだった。
(あー……)
もう生徒たちは学校の外に飛び出しているのか。
やけに白い廊下だった。
しいんとしている校舎の中は、まるで監獄のようである。かちゃかちゃ、がちゃん――あれ、今なにか聞こえた気がする。まるで、鉄のくさりが引きずられたみたいな?
振り向いたけれど、もちろんそこに鎖なんかあるわけもなかった。
代わりに背後に立っていたのは、さっき出ていったはずのザビエルだった。
ぎゃっとのけぞると、ザビエルはにたあとした。
「聖山、いつもそんなふうにしていろよ」
一言落ちて来た。ザビエルの目が笑っている。えっとわたしは聞き返した。
いつも、そんなふうに。
言われて気づいたけれど、ザビエル相手の時は、喉がつまることなく自然に言葉が出てくる。表情も強張らず、自然に顔が動く。
クラスメイトの中で過ごす時は、こんなふうにはできない。
どうしてだろう。本当に、どうしてだろう。
(まるで、周囲から自分自身を全否定されて小さくなっていなくてはならないみたいに)
絶句したわたしに向かい、ザビエルはこう言って去ったのだった。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い」
聖書の言葉だ、覚えておけ。
こつんこつん。
ザビエルの背の高い姿が階段を下り、やがて見えなくなる。
突然聞かされた聖書の言葉。なんだそれ、あなたは高価で尊い……。
悪魔……売女……異端者……。
ガチャン、カチャカチャ、がたん。
(あれ)
今、現実ではないようなものが見えたような気が。
白いがらんどうの校舎の中が、いきなり暗く陰気になり、やけに音が籠って響いたような。
だけどその幻聴も幻視もすぐに消え去り、わたしは夏の校舎にひとり、取り残されていたのだった。
ぽつねんと。
(明日から、ここで補習)
まるで、牢獄である。逃げたいが、逃げてはならない。
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明日から夏休み。今年はことさら太陽がまぶしい。
(焼けちまう……)
クラスの女子たちはきゃぴきゃぴと夏の予定について話し合っているし、男子たちもいつもにまして浮かれている。
ずうん。
その中で一人だけ、沈黙の沼に浸る奴がいる――わたしだ。
本来、高校は青春絶好調の時であるはずなのに、なんだろうこの暗い感じは。
進学校だしお嬢様は多いし、部活動だって活発だ。こんなに輝かしい舞台の中で、どうして自分だけこんなに澱んでいるのやら。
「……ねっ、聖山さん、だよねー」
いきなり話を振られて飛び上がった。
ぎょっと顔を上げると、何人かの女子たちが笑顔でわたしの机を囲んでいる。
クラスでも大人しめのひとたちだ。話しかけてきてくれた子は中でも優しいひと。孤立しているわたしを救おうと、これまでも何回か手を差し伸べてくれたことがあったけれど。
「……ん、うん」
だけどわたしの喉から出て来た言葉は、これが精いっぱいだ。
発語しようとしたら、気道が押しつぶされたみたいになってうまく言葉が紡げないのである。
ばくばく。心臓がものすごい勢いで早打ちしはじめる。怖い怖い。全身の細胞が青ざめている。
(ああ、いつからだろう)
人間が、怖いと感じるなんて。
否、怖いというより。
(大っ嫌い……)
せっかく話を振っても万事この有様だ。優しい子でも困ってしまうだろう。今も、ちょっと眉間を曇らせている。
周囲の女の子たちは目くばせしあい、溜息をついたり、小さくかぶりを振ったりしていた。
ダメよ、この人に話しかけても。
うまくやっていこうなんて気が、はなからないんだから……。
まるで水がするすると引いてゆくように、女の子たちはわたしの側から離れてゆく。
そしてまた別の所で、きゃあっと楽しそうな声が聞こえてくるのだった。
キンコーン。
一学期最後のベルが鳴る。これにておしまい。
みんな歓声を上げて教室を飛び出した。残ったわたしはスゴスゴとカバンに教科書をつめ、がたんと立ち上がったのだった。
「聖山ー、補習忘れるなよー」
ぎくっとした。
わたしだけしか残っていないと思っていたら、教室には担任の吉亜センセがいた。
教壇に頬杖をつき、淡々とした目でわたしを見ている。
独身。
まだ二十代。
それだけでクラスの女子たちは色めき立っているが、当の本人はまるで女子にはなびかない。
甘ったるい声でセンセ、セーンセ、と寄ってくる女子に対しても、冷静で淡々とした態度を変えず。
「ああいうのを朴念仁っていうのよ」
いつか、クラスの中心グループの子が言っていたなあ。
たぶん、自分が思うような反応をセンセが示してくれなかったから、腹を立てたんだろう。
「ねー聞いてよ、あのセンセ、クリスチャンなんだってさ」
「へー、じゃあホーリーネームとか持ってるわけー」
「えー、ザビエルとか。ちょーウケルー」
以来、担任のあだ名はザビエルになった。ちなみに、彼のホーリーネームが本当は何なのか誰も知らない。
そのザビエルが、やけに冷淡な声で、夏の補習を忘れるなと警告してきた。
「忘れませんよ」
と、わたしは言い返した。ザビエルはちょっとにやっとした。
「補習をして、追試。それで赤点を返上してやろうというのだから、感謝してほしいもんだ」
この暑いのに。
付け足してから、ザビエルは立ち上がり、教室を出ていった。
わたしも立ち上がり、ほてほてと廊下に出た。廊下も暑かった。
(灼熱の夏になるなあ)
クーラーがあまり効かない教室で、数学の補習。
しかもどうやら、補習を受けるのはわたし一人であるらしく。
おまけに補習を見てくれるのは、ザビエル先生なのだった。
(あー……)
もう生徒たちは学校の外に飛び出しているのか。
やけに白い廊下だった。
しいんとしている校舎の中は、まるで監獄のようである。かちゃかちゃ、がちゃん――あれ、今なにか聞こえた気がする。まるで、鉄のくさりが引きずられたみたいな?
振り向いたけれど、もちろんそこに鎖なんかあるわけもなかった。
代わりに背後に立っていたのは、さっき出ていったはずのザビエルだった。
ぎゃっとのけぞると、ザビエルはにたあとした。
「聖山、いつもそんなふうにしていろよ」
一言落ちて来た。ザビエルの目が笑っている。えっとわたしは聞き返した。
いつも、そんなふうに。
言われて気づいたけれど、ザビエル相手の時は、喉がつまることなく自然に言葉が出てくる。表情も強張らず、自然に顔が動く。
クラスメイトの中で過ごす時は、こんなふうにはできない。
どうしてだろう。本当に、どうしてだろう。
(まるで、周囲から自分自身を全否定されて小さくなっていなくてはならないみたいに)
絶句したわたしに向かい、ザビエルはこう言って去ったのだった。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い」
聖書の言葉だ、覚えておけ。
こつんこつん。
ザビエルの背の高い姿が階段を下り、やがて見えなくなる。
突然聞かされた聖書の言葉。なんだそれ、あなたは高価で尊い……。
悪魔……売女……異端者……。
ガチャン、カチャカチャ、がたん。
(あれ)
今、現実ではないようなものが見えたような気が。
白いがらんどうの校舎の中が、いきなり暗く陰気になり、やけに音が籠って響いたような。
だけどその幻聴も幻視もすぐに消え去り、わたしは夏の校舎にひとり、取り残されていたのだった。
ぽつねんと。
(明日から、ここで補習)
まるで、牢獄である。逃げたいが、逃げてはならない。