その6 信じる者は、死んでも生きる
文字数 5,256文字
イエスは言われた。
わたしは、よみがえり。いのち。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのだ。(ヨハネ福音書)
**
駄目川君は、もちろん仇名である。
本当はどんな名前か、きっと中学の同級生の誰もが忘れてしまっている。わたしもそうだ。
「ダメダメ人間、ダメカーワー、何で生まれてきたのやら―」
ヤンキーみたいなクラスメイト達が声を揃えて歌っていた。ダメダメ人間、ダメカワ。
席に座ったすぐ側で、反応を楽しむようにじろじろ眺めながら――ある者は壁に凭れ、ある者は机に座り――でたらめなその歌を歌う。
駄目川君は、まるで聞こえていないように俯き、身動きもしない。
「あいつ聞こえていないんだろ」
「アレなんだよ、アレ。ちょっとアレだから、何言っても感じねーんだよ」
がん、がんごん。机を蹴ってゆく男子たち。
女子たちは駄目川君とすれ違うのも忌み嫌う。
ああ。わたしはどんなふうに駄目川君に接していただろう。
クラスの集団の中から外れていたとは言え、決して友好的ではなかった。いじめに加わらなかったのは確かだが、でもわたしは多分、いじめには関係している。
(あー、めんどくせー、また駄目川イビリが始まってるよ。うっるさいなあ)
中学時代の、優等生面したスカしたわたしは、つうんとして、そちらを見ようともしないで、ざわざわする教室の空気をただ嫌った。
卒業したあと、駄目川君がどうなったのか。
どこの高校に行ったのか。あるいはどこにも受からなかったのか。
受験戦争を乗り越えたみんなは、卒業式の時にはもうすっかり、自分たちがさんざん足蹴にした駄目川君のことなど気にしなかったのだ。
彼が今どんな状況で、何をしているかなんて、誰一人、考えようともしなかった。気に掛けなかった。
(なんてことだろう……)
ダメカーワー、ダメダメカーワー。
クラスメイト達の合唱が頭の奥の方で繰り返されている。それは恨みの声だ。駄目川君が、あのぼさぼさの前髪の間から上目でこちらを睨み、訴えている声。
ギイガタン。
覗き見していた扉に不用意によりかかったため、軋んだ音が鳴り響いた。
礼拝堂でザビエル先生と話をしていた駄目川君のママは、ゆっくりと顔をあげ、こちらを振り向いた。
駄目川君のママが、わたしが彼の、かつてのクラスメイトの一人だったことを勘付いたかどうか。
なんとも読めない表情で、おばさんは青ざめた顔でわたしを眺め、ゆっくりと会釈をした。
反射的にわたしも会釈を返した。
先生が眉をひそめて振り返る。
「聖山、どうしたそんなところで」
ヒジリヤマ?
その時、おばさんが口の中で名前を繰り返すのを、わたしは聞いた。ああ、気づかれたかも、と、思った。
聖山なんて名字、そんなにあるものではない。子供のクラスメイトに聖山という子がいたら、薄っすら覚えていてもおかしくはない。
凍り付いて動けなくなったけれど、おばさんはそっと視線を逸らし、穏やかな表情で立ち上がった。先生に頭をさげ、お礼を言っている。
やがておばさんは静かに外に出て行った。ざああ――未だ雨が降る道に、肩を落として項垂れて。
先生が近づいてくる。凍り付いて動けないまま、頭の中だけはこざかしく回転していた。どうしよう、なんて説明しよう、駄目川君のママを知っている、駄目川君とはクラスメイトだったと言ってしまおうか。
それとも、あんなおばさん知らない、と、ごまかしてしまおうか。
いや、ごまかせないだろう。わたしはきっと、ただごとではない表情をしているはずだから。
先生はじっとこちらを観察しているし、動揺しているのを見抜かれているに違いない。
言ってしまおう、懺悔してしまおう、何しろここは教会だから。
なんて、都合の良い思考に流された瞬間、わたしは駄目川君の本名を思い出せないことに行き当たったのだった。
先生はわたしの前に来た。背の高い先生の胸のあたりが目の前にある。
牧師さんの服に十字架が下がっている。
顔を見ることができないまま固まっていると、先生の方からこう言った。
「聖山は、天川さんの息子さんと、同じ中学だったんだよな」
アメカワ。
そうだ、アメカワ君。駄目川君じゃなくて。
やっと彼の本名を思い出して、ようやくわたしはまともに呼吸を取り戻したのだった。
「……アメカワ君、どうなっちゃったんですか。さっきの人、ママでしょ」
わたしが尋ねると、先生は一瞬間を置いた。そして、淡々と言った。
「亡くなった。知らなかったのか、同じ学校の同級生だろうに、お前……」
その声に非難の色は微塵もなかったはずだ。
わたしが苦しく感じたのは、全くもって、こちらの事情によるところである。
先生はいつも通り落ち着いていた。なにごともなかったかのように、少し雨がおさまって来たから、帰るなら今だぞ、と言った。
「風邪ひいて補習を休むことがないように」
先生に送り出されて、わたしは教会を出た。
そぼそぼと雨は降っていたけれど、確かに少しずつ小雨になってきている。曇天に明るい色が混じった。
雲が、薄れてきている。
借り物のジャージ姿で、とぼとぼと来た道を戻った。
無人駅で電車を待つ。さあさあ穏やかな雨の音を聞いているうちに、頬が生温かく感じた。
指でぬぐってみたら、涙だった。
それがどんな感情故の涙か一言では説明できなかったけれど、とにかくわたしは泣いていた。
(電車が来るまで泣き止まなくては)
**
そこはキリスト教の寺院だろう。教科書で見たことがある建物だ。だけどそこに集う人々の服装は現代のものではない。
わたしはまた白昼夢を見ているのだろうか。
ぼんやりと、半分寝ているような気分で、その寺院の有名なステンドグラスと、その光の下で支えられながら立つ、一人のおばあさんを見下ろしていた。
わたしの娘ジャンヌは無実の罪で処刑されました。娘は純朴なカトリック教徒で、その信条に反することは一度たりともいたしませんし考えたこともなかったはずです。
罪なき娘を、あのひとたちは残酷なやり方で死に追いやったのです……。
おばあさんは誰に向って主張しているのだろう。深い悲しみの中にあることはその眼を見ればわかる。
もうきちんと立つことも苦しいほどなのに、支えられながらも寺院に来て、血を吐くように思いを言葉にしていた。
その言葉はフランス語であるはずだけど、例によってわたしには、まるで日本語を聞くかのように理解できたのである。
(これ、ジャンヌ・ダルク復権裁判だ……)
補習の内容はトンと頭に残らないくせに、ジャンヌ関連の事ならするすると思い出せるのが不思議だ。
1455年、ノートルダム寺院にて。
おばあさんはジャンヌのママ。もし生きているなら今頃は何人もの子供を産み育てているはずの娘のために、命がけで裁判に臨んだ。
(そうだ、ジャンヌは火刑に処せられて亡くなった)
オルレアンの乙女、ラ・ピュセルと名声を得た彼女だけど、唐突に暗転した。真心をこめて仕えたシャルル7世は彼女を敵に売った。
牢獄の中で――ジャラ……ジャラジャラ……鎖の重い音――毎日ジャンヌは世にも恐ろしい目に遭いながらも、信じていることを貫いた――コツ、コツコツ……暗い石の建物の中、こちらに近づく陰気な足音。ぼうっと灯る恐ろし気な松明のともしび、その脂のにおい――そうだ、ジャンヌはこうなってしまうのだ。
黒い目の、純粋無垢な幼い女の子。
理不尽な戦乱の炎に幾度となく襲われた、大好きなドン・レミー村。そこで神様をひたすら信じて育ったジャンヌ。
(ジャンヌちゃん)
裸足のひょろっとした汚れた足。くるっと振り向いた大きな目。
どういう時空のいたずらか、わたしは彼女と対面したことがあるではないか。あの、古びた町の図書館のトイレで。
翼の人物が、どういう理由で彼女に目を付け白羽の矢を立てたのかは分からない。
フランスを護れ、と翼のひとはジャンヌに囁いていた。その様子は蛇が獲物を巻き取るようにも見えた。
史実では「神の声」に従って行動したジャンヌは、トントン拍子に王太子に謁見し、ついにオルレアン奪還の軌跡を果たすのである。
だけどその栄光はあまりにも儚い。あっという間に彼女は転落し、世にも悲惨な最期を迎えることになる。
ふらふらのおばあさんが、何度も崩れそうになりながら必死に説く姿は、駄目川君のママに重なる。
いつの間にかわたしは、あの子のことを「ジャンヌちゃん」と心の中で呼んでいた。まるで古くからの友達を呼ぶみたいに。
「あの天使はジャンヌちゃんに色々囁いてその気にさせたけれど、同じようにわたしも囁いたら、彼女はあんな悲惨な運命を辿らずに済むかもしれない」
と、わたしは思った。
もし、わたしの声がジャンヌちゃんに届くなら、だけど――。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」
15世紀のフランスの寺院。その白昼夢の中で、おごそかな声が、そう告げた。
やっとのことで立つおばあさんの他は、みんな手を組んで祈り、その言葉を受け、やがて声を揃えてアーメンと呟いたのだった。
信じる者は、死んでも生きる。
わたしにはその言葉の意味は、よく判らなかったけれども。
……。
「聖山」
肩を叩かれた。
はっと振り向くと、そこには普通のポロシャツを着たザビエル先生が息を切らして立っていて、わたしに何かを差し出していた。
忘れ物だ。間に合って良かった。
それは、ジャンヌ・ダルクについての書籍。帰りに町の図書館に寄って返却しようと思っていた、読み終えた一冊。
どうしてそれがカバンから零れたのだろう。そうか、濡れた衣類をカバンに押し込むとき、本まで濡れるのが嫌で、中から取り出していたのだ。
紅茶をいただいたあの部屋に置き去りになっていたのを、先生がわざわざ届けに来てくれたのだ。
グドドン、グドドン。
電車が近づいてくる。パアン――もうすぐホームに電車が滑り込んで来る。
生温かい風が流れ込み、髪の毛が揺れた。
先生から本を受け取りながら、一瞬、どうせ明日も補習を受けるんだからその時に返してくれても良かったのに、と思った。
けれど、やっと息を整えつつある先生の様子を見ていたら余計なことは言えず、ぽろっと、ありがとうございます、と言葉が出たのだった。
「気を付けて帰れ。うちについたら温かくしなさい」
先生はホームに立ち、わたしはお辞儀をして電車に乗り込む。吊革につかまり、窓から先生の姿が遠ざかるのを見ていた。
グドドン、グドドン、キシャアアア……。
**
知らない町の、初めての教会で。
今日はいろいろなことがあった。
先生が牧師さんも兼業しているなんて初めて知ったし、いじめられていたクラスメイトが亡くなったことがショックだった。
衝撃的なことばかり立て続けに起きたけれど、電車に揺られているうちに、知ることができて良かったんだという気持ちに変わっていった。
牧師姿の先生。
駄目川君が天川君であることを思い出すことができた。
そして、もう彼がこの世にいないこと、それを彼のママが悲しんでいること。
(知らないままでいるよりも、知って色々感じることができて、きっと良かった)
なにかしなければならない、という気持ちはあるけれど、じゃあ具体的に何をしよう、という案はまるでなかった。
駄目川君のママに謝るのも違うし、そんな行動力も勇気もない。
同時に。
ラ・ピュセルとなる運命の、あの純朴な痩せて小さい女の子を、なんとか救いたいという気持ちも走り始めていた。
電車の走る音と揺れが、思いに拍車をかけている。
**
「……」
町の駅に到着し、ホームに降りた時、ふと視線を感じて振り向いた。
そしてわたしは息をのんだ。
再び走り出し、ホームを離れてゆく電車の中に、見覚えのある顔があったのだった。
それは、高校のクラスの中心女子グループのひとだった。
(いつから、そこにいたんだろう)
一瞬交わした視線。
夏休みらしく、華やかな恰好をして、これから遊びに繰り出す様子の彼女。
その目つきは好奇に溢れ、にやにやと口元は笑っていたように思う。
(見られた……)
ザビエル先生が、わたしを見送ってくれているところを。
いや、まさか。ああ、だけど、もしかして。
[第一章 了]
わたしは、よみがえり。いのち。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのだ。(ヨハネ福音書)
**
駄目川君は、もちろん仇名である。
本当はどんな名前か、きっと中学の同級生の誰もが忘れてしまっている。わたしもそうだ。
「ダメダメ人間、ダメカーワー、何で生まれてきたのやら―」
ヤンキーみたいなクラスメイト達が声を揃えて歌っていた。ダメダメ人間、ダメカワ。
席に座ったすぐ側で、反応を楽しむようにじろじろ眺めながら――ある者は壁に凭れ、ある者は机に座り――でたらめなその歌を歌う。
駄目川君は、まるで聞こえていないように俯き、身動きもしない。
「あいつ聞こえていないんだろ」
「アレなんだよ、アレ。ちょっとアレだから、何言っても感じねーんだよ」
がん、がんごん。机を蹴ってゆく男子たち。
女子たちは駄目川君とすれ違うのも忌み嫌う。
ああ。わたしはどんなふうに駄目川君に接していただろう。
クラスの集団の中から外れていたとは言え、決して友好的ではなかった。いじめに加わらなかったのは確かだが、でもわたしは多分、いじめには関係している。
(あー、めんどくせー、また駄目川イビリが始まってるよ。うっるさいなあ)
中学時代の、優等生面したスカしたわたしは、つうんとして、そちらを見ようともしないで、ざわざわする教室の空気をただ嫌った。
卒業したあと、駄目川君がどうなったのか。
どこの高校に行ったのか。あるいはどこにも受からなかったのか。
受験戦争を乗り越えたみんなは、卒業式の時にはもうすっかり、自分たちがさんざん足蹴にした駄目川君のことなど気にしなかったのだ。
彼が今どんな状況で、何をしているかなんて、誰一人、考えようともしなかった。気に掛けなかった。
(なんてことだろう……)
ダメカーワー、ダメダメカーワー。
クラスメイト達の合唱が頭の奥の方で繰り返されている。それは恨みの声だ。駄目川君が、あのぼさぼさの前髪の間から上目でこちらを睨み、訴えている声。
ギイガタン。
覗き見していた扉に不用意によりかかったため、軋んだ音が鳴り響いた。
礼拝堂でザビエル先生と話をしていた駄目川君のママは、ゆっくりと顔をあげ、こちらを振り向いた。
駄目川君のママが、わたしが彼の、かつてのクラスメイトの一人だったことを勘付いたかどうか。
なんとも読めない表情で、おばさんは青ざめた顔でわたしを眺め、ゆっくりと会釈をした。
反射的にわたしも会釈を返した。
先生が眉をひそめて振り返る。
「聖山、どうしたそんなところで」
ヒジリヤマ?
その時、おばさんが口の中で名前を繰り返すのを、わたしは聞いた。ああ、気づかれたかも、と、思った。
聖山なんて名字、そんなにあるものではない。子供のクラスメイトに聖山という子がいたら、薄っすら覚えていてもおかしくはない。
凍り付いて動けなくなったけれど、おばさんはそっと視線を逸らし、穏やかな表情で立ち上がった。先生に頭をさげ、お礼を言っている。
やがておばさんは静かに外に出て行った。ざああ――未だ雨が降る道に、肩を落として項垂れて。
先生が近づいてくる。凍り付いて動けないまま、頭の中だけはこざかしく回転していた。どうしよう、なんて説明しよう、駄目川君のママを知っている、駄目川君とはクラスメイトだったと言ってしまおうか。
それとも、あんなおばさん知らない、と、ごまかしてしまおうか。
いや、ごまかせないだろう。わたしはきっと、ただごとではない表情をしているはずだから。
先生はじっとこちらを観察しているし、動揺しているのを見抜かれているに違いない。
言ってしまおう、懺悔してしまおう、何しろここは教会だから。
なんて、都合の良い思考に流された瞬間、わたしは駄目川君の本名を思い出せないことに行き当たったのだった。
先生はわたしの前に来た。背の高い先生の胸のあたりが目の前にある。
牧師さんの服に十字架が下がっている。
顔を見ることができないまま固まっていると、先生の方からこう言った。
「聖山は、天川さんの息子さんと、同じ中学だったんだよな」
アメカワ。
そうだ、アメカワ君。駄目川君じゃなくて。
やっと彼の本名を思い出して、ようやくわたしはまともに呼吸を取り戻したのだった。
「……アメカワ君、どうなっちゃったんですか。さっきの人、ママでしょ」
わたしが尋ねると、先生は一瞬間を置いた。そして、淡々と言った。
「亡くなった。知らなかったのか、同じ学校の同級生だろうに、お前……」
その声に非難の色は微塵もなかったはずだ。
わたしが苦しく感じたのは、全くもって、こちらの事情によるところである。
先生はいつも通り落ち着いていた。なにごともなかったかのように、少し雨がおさまって来たから、帰るなら今だぞ、と言った。
「風邪ひいて補習を休むことがないように」
先生に送り出されて、わたしは教会を出た。
そぼそぼと雨は降っていたけれど、確かに少しずつ小雨になってきている。曇天に明るい色が混じった。
雲が、薄れてきている。
借り物のジャージ姿で、とぼとぼと来た道を戻った。
無人駅で電車を待つ。さあさあ穏やかな雨の音を聞いているうちに、頬が生温かく感じた。
指でぬぐってみたら、涙だった。
それがどんな感情故の涙か一言では説明できなかったけれど、とにかくわたしは泣いていた。
(電車が来るまで泣き止まなくては)
**
そこはキリスト教の寺院だろう。教科書で見たことがある建物だ。だけどそこに集う人々の服装は現代のものではない。
わたしはまた白昼夢を見ているのだろうか。
ぼんやりと、半分寝ているような気分で、その寺院の有名なステンドグラスと、その光の下で支えられながら立つ、一人のおばあさんを見下ろしていた。
わたしの娘ジャンヌは無実の罪で処刑されました。娘は純朴なカトリック教徒で、その信条に反することは一度たりともいたしませんし考えたこともなかったはずです。
罪なき娘を、あのひとたちは残酷なやり方で死に追いやったのです……。
おばあさんは誰に向って主張しているのだろう。深い悲しみの中にあることはその眼を見ればわかる。
もうきちんと立つことも苦しいほどなのに、支えられながらも寺院に来て、血を吐くように思いを言葉にしていた。
その言葉はフランス語であるはずだけど、例によってわたしには、まるで日本語を聞くかのように理解できたのである。
(これ、ジャンヌ・ダルク復権裁判だ……)
補習の内容はトンと頭に残らないくせに、ジャンヌ関連の事ならするすると思い出せるのが不思議だ。
1455年、ノートルダム寺院にて。
おばあさんはジャンヌのママ。もし生きているなら今頃は何人もの子供を産み育てているはずの娘のために、命がけで裁判に臨んだ。
(そうだ、ジャンヌは火刑に処せられて亡くなった)
オルレアンの乙女、ラ・ピュセルと名声を得た彼女だけど、唐突に暗転した。真心をこめて仕えたシャルル7世は彼女を敵に売った。
牢獄の中で――ジャラ……ジャラジャラ……鎖の重い音――毎日ジャンヌは世にも恐ろしい目に遭いながらも、信じていることを貫いた――コツ、コツコツ……暗い石の建物の中、こちらに近づく陰気な足音。ぼうっと灯る恐ろし気な松明のともしび、その脂のにおい――そうだ、ジャンヌはこうなってしまうのだ。
黒い目の、純粋無垢な幼い女の子。
理不尽な戦乱の炎に幾度となく襲われた、大好きなドン・レミー村。そこで神様をひたすら信じて育ったジャンヌ。
(ジャンヌちゃん)
裸足のひょろっとした汚れた足。くるっと振り向いた大きな目。
どういう時空のいたずらか、わたしは彼女と対面したことがあるではないか。あの、古びた町の図書館のトイレで。
翼の人物が、どういう理由で彼女に目を付け白羽の矢を立てたのかは分からない。
フランスを護れ、と翼のひとはジャンヌに囁いていた。その様子は蛇が獲物を巻き取るようにも見えた。
史実では「神の声」に従って行動したジャンヌは、トントン拍子に王太子に謁見し、ついにオルレアン奪還の軌跡を果たすのである。
だけどその栄光はあまりにも儚い。あっという間に彼女は転落し、世にも悲惨な最期を迎えることになる。
ふらふらのおばあさんが、何度も崩れそうになりながら必死に説く姿は、駄目川君のママに重なる。
いつの間にかわたしは、あの子のことを「ジャンヌちゃん」と心の中で呼んでいた。まるで古くからの友達を呼ぶみたいに。
「あの天使はジャンヌちゃんに色々囁いてその気にさせたけれど、同じようにわたしも囁いたら、彼女はあんな悲惨な運命を辿らずに済むかもしれない」
と、わたしは思った。
もし、わたしの声がジャンヌちゃんに届くなら、だけど――。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」
15世紀のフランスの寺院。その白昼夢の中で、おごそかな声が、そう告げた。
やっとのことで立つおばあさんの他は、みんな手を組んで祈り、その言葉を受け、やがて声を揃えてアーメンと呟いたのだった。
信じる者は、死んでも生きる。
わたしにはその言葉の意味は、よく判らなかったけれども。
……。
「聖山」
肩を叩かれた。
はっと振り向くと、そこには普通のポロシャツを着たザビエル先生が息を切らして立っていて、わたしに何かを差し出していた。
忘れ物だ。間に合って良かった。
それは、ジャンヌ・ダルクについての書籍。帰りに町の図書館に寄って返却しようと思っていた、読み終えた一冊。
どうしてそれがカバンから零れたのだろう。そうか、濡れた衣類をカバンに押し込むとき、本まで濡れるのが嫌で、中から取り出していたのだ。
紅茶をいただいたあの部屋に置き去りになっていたのを、先生がわざわざ届けに来てくれたのだ。
グドドン、グドドン。
電車が近づいてくる。パアン――もうすぐホームに電車が滑り込んで来る。
生温かい風が流れ込み、髪の毛が揺れた。
先生から本を受け取りながら、一瞬、どうせ明日も補習を受けるんだからその時に返してくれても良かったのに、と思った。
けれど、やっと息を整えつつある先生の様子を見ていたら余計なことは言えず、ぽろっと、ありがとうございます、と言葉が出たのだった。
「気を付けて帰れ。うちについたら温かくしなさい」
先生はホームに立ち、わたしはお辞儀をして電車に乗り込む。吊革につかまり、窓から先生の姿が遠ざかるのを見ていた。
グドドン、グドドン、キシャアアア……。
**
知らない町の、初めての教会で。
今日はいろいろなことがあった。
先生が牧師さんも兼業しているなんて初めて知ったし、いじめられていたクラスメイトが亡くなったことがショックだった。
衝撃的なことばかり立て続けに起きたけれど、電車に揺られているうちに、知ることができて良かったんだという気持ちに変わっていった。
牧師姿の先生。
駄目川君が天川君であることを思い出すことができた。
そして、もう彼がこの世にいないこと、それを彼のママが悲しんでいること。
(知らないままでいるよりも、知って色々感じることができて、きっと良かった)
なにかしなければならない、という気持ちはあるけれど、じゃあ具体的に何をしよう、という案はまるでなかった。
駄目川君のママに謝るのも違うし、そんな行動力も勇気もない。
同時に。
ラ・ピュセルとなる運命の、あの純朴な痩せて小さい女の子を、なんとか救いたいという気持ちも走り始めていた。
電車の走る音と揺れが、思いに拍車をかけている。
**
「……」
町の駅に到着し、ホームに降りた時、ふと視線を感じて振り向いた。
そしてわたしは息をのんだ。
再び走り出し、ホームを離れてゆく電車の中に、見覚えのある顔があったのだった。
それは、高校のクラスの中心女子グループのひとだった。
(いつから、そこにいたんだろう)
一瞬交わした視線。
夏休みらしく、華やかな恰好をして、これから遊びに繰り出す様子の彼女。
その目つきは好奇に溢れ、にやにやと口元は笑っていたように思う。
(見られた……)
ザビエル先生が、わたしを見送ってくれているところを。
いや、まさか。ああ、だけど、もしかして。
[第一章 了]