その5 主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい

文字数 5,870文字

主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。(エフェソ人への手紙)

**

 あらっ、どうしたの。
 おおらかで、ハキハキした仏田先生の声が聞こえると、張り詰めていたものが一気に緩んだ。同時に涙腺も緩んだ。
 仏田先生なら聞いてくれる、大丈夫だ――そんな予感がして、思わずわたしは喋り出す前から泣いてしまったのだった。

 「ちょっとごめんね、移動するから」
 先生は小さな声で言った。
 背後で洋画のDVDが再生されているような音が聞こえている。ざわざわとした雰囲気だ。恐らく今まさに、英会話部の活動の最中だったのだろう。

 がらぴしゃん。
 教室の引き戸が開いて閉まる音がした。ああやっぱりだ、英会話部の活動中だったんだ。わたしは眩暈がするように思った。だとしたら、すぐそこに湯田さんもいるかもしれない。
 だらだらと流れる鼻水を、素早く始末した。泣いている場合ではない。頭の中で必死に言葉を組み立てながら、一生懸命にわたしは喋った。

 へんな噂が流れていて、それがうちのママの耳に入ってしまったこと。
 おかげでザビエル先生にまで迷惑をかけていること。
 そして、その噂のおおもとは、英会話部の湯田さんだと思われること。

 どんなふうに言葉を紡いだか、よく覚えていない。ただ、必死だった。もしかしたら、敬語ですらなかったかもしれない。
 
 仏田先生は、最初は「うん、うん、えっ」と、言葉を挟もうとしたけれど、やがて無言になり、わたしが喋るのをただ聞いていた。
 話し終えたわたしが鼻をすすっていると、電話の向こう側で先生は「……そうかあ」と、低く唸るように呟いた。「うーん、そっか、そっか……うーん……」

 変な沈黙が落ちて居心地が悪かった。
 ようやく平常心を取り戻しながら、わたしはヒヤリとする。そうだ、ただ事情をまくしたてただけでは、どうして仏田先生のところに電話をかけたのか不明なままだ。
 事情は話した。次は、どうして欲しいかを伝えなくてはならない。わたしはぐっと息を飲むと、今度はできるだけ抑えた声で話し始めた。

 「湯田さんとお話ししたくて。でもわたし、携帯の番号も知らないしラインもしていないので。さっき自宅に電話をしたけれど誰もいなくて」
 先生、そこに湯田さんいますか。電話を代わってもらえませんか。

 そこまで言うと、やっと先生は「あっ……そっか、ううん」と、気が付いたように言った。思った通り、仏田先生は、なんで自分に電話がかかってきたのかピンと来ていなかったらしい。
 
 そうだろうな。湯田さん本人と話したければ、ラインで連絡するのが一番早い。
 みんなそうしてる。だけどわたしはクラスメートとラインで繋がっていないし、携帯番号すら知らないのだ。
 改めて自分の立場の弱さを思い知らされたような気分である。

 仏田先生はてきぱきと話し始めた。

 「事情は分かったし、確かにここに湯田さんいるけれど、電話で喋るんじゃなくて本人と会ってみたら。学校に出てこれる。午前中いっぱいは、みんなここにいるよ」

 それでわたしは、自分の状況を説明しなくてはならなくなった。
 駄目なんです、うちから出てゆけないんです。ママから外出禁止って言われてるんです。もし出て行ったことがばれたら、ママがヒートアップして、もっと酷いことになっちゃうかもしれない。

 籠の鳥なんです。
 言っているうちに、惨めになって来た。引っ込んだはずの涙がまた盛り上がってきて、指で拭った。
 
 「電話をかけるのにしても、ママがいない時間じゃないと怪しまれてしまう。部屋で携帯電話を使っていても、話している声は伝わってしまいそうで」
 だから今しかなかったんです。
 先生お願い、湯田さんに代わってください。

 「ええー、うーん……でもこういうことは、顔を見て話したほうがいいと思うけれどなあ。ねえ聖山さん、今だけそっと出てこれない。そんなに時間取らないからさあ」
 仏田先生はこともなさげにそう言った。
 ああ、駄目だ。先生には、わたしの状況が理解できないのだ。

 ママがどういう人なのか。
 わたしが今、どんなに追い詰められているのか。
 
 (きっと、世界中の誰にも理解してもらえないのに違いない……)

 押し黙ってしまったわたしに、仏田先生は溜息をついた。
 わかったよ、ちょっと待ってね、と言うと、電話を手で覆ったらしい。耳元の音が籠った。微かに「湯田っち、ちょっとー」と、呼ぶ声が聞こえた。
 
 湯田っち。
 仏田先生はフレンドリーなひとだ。部活動では友達のように生徒を呼んでいるのだろう。
 なにか突き放されたような感がした。

 やがて、えっ、なんでわたしにー、ヤダー、という湯田さんの声が聞こえ、それを窘める仏田先生の声も聞こえた。
 うんざりするほどの時間が過ぎ、やっと電話に湯田さんが出たのだった。

 「……なに」
 こんな冷酷な声を、湯田さんが出すのを聞いたことがなかった。
 教室では、いつも明るくてげらげら笑っていて、人当たりが良い湯田さんなのに。
 
 わたしは泣きそうになりながら、ザビエル先生のことを必死で話した。あの日は、たまたま雨宿りした教会がザビエル先生の家で、そこに本を忘れて来てしまい、先生は駅までそれを届けに来てくれた。ただそれだけであることを説明した。
 事実である。
 それ以上もそれ以下もない。この事実のどこに、噂になるような要素があるのか。

 「知らないよー、そんな、アンタの事情なんか」

 だけど湯田さんは、その冷酷な声でそう言ったのだった。

 「アンタがどこで何をしたとか、そんな経緯は関係ないんだしぃ。あのさー、人って、見たものが全てなんだよね。とにかくわたし、あの日見ちゃったから。だから、そんな言い訳知らないよー」
 うっざ、何言ってんの、そんなんで先生の携帯に電話して来たりして、アンタストーカーみたい。キンモー。

 早口で、こちらが言葉をはさむ余地がなかった。
 わたしは勇気を奮い起こして、今にも電話を切ろうとする相手に叫んだ。

 「なにを見たって言うのよ。ホームで本を渡されただけでしょう」
 
 悲鳴のようになった。もしかしたら、家の外にまで響いたかもしれない。
 相手はだけど、それには答えないまま、ぶつんと電話を切った。つーつーと虚しい音を立てる電話を耳に当てたまま、わたしは凍り付いていた。

 つうっと涙が流れ落ち、ぼとぼとと顎から机に落ちた。
 目の前に、この夏、毎日開いて来た数学の教科書と、補習のノートがある。涙がその上にぼたぼたと落ち、染みを作った。
 崖の底に突き落とされたような気分だった。

 駄目だ。なにをどう言っても、湯田さんには伝わらない。

 頭が沸騰していた。
 心臓がごとごとして苦しい。電話を置くと、わたしは立ち上がった。どうにもならなかった。

 どうして。一体どうして。
 わたしが話していることはただの事実だし、噂になっているような、ホームでいちゃついていたりとか、デート代わりに補習していたとか、そんなことは全くない。
 もし、わたしが仄かにでもザビエル先生に恋していたのならギクリとしたかもしれない。けれど、現実はそんなロマンチックでも青春でもなんでもなくて、ザビエル先生は数学の先生に過ぎず、わたしはただの落第生なのだった。
 (ザビエル先生にしても、青天の霹靂だろうな……)

 あの、淡々としたザビエル先生が、どんな顔をしてこの事態を受け取っているか気になった。
 いつもの、表情の読めない顔で「ああそうですか、そんなことは全くないのですが、そんな話になっているのですか」と受け入れたか。
 あるいはあの静かな表情が一気に崩れ、眉を吊り上げて目を狼狽えさせて「冗談じゃない」と声を荒げたか。

 この場合、わたしより先生の方がよほど危うい立場に立たされていると思われる。
 わたしは何度も溜息をつき、ベッドに倒れ込んだ。どうしたら良いのだろう。というより、この状況に打開策などあるのだろうか。
 (わたしはここから動けないし……ママが帰って来たら、また拷問地獄が始まるのだろうし)

 煮詰まった頭を抱えているうちに、ぼおんと耳鳴りがして、気が遠くなっていった。ああまたか、今日はよく失神する日だな。神経が相当イカれてるのに違いない。
 
**

 ジャンヌちゃん。
 
 白い旗を掲げ、男たちに混じって戦場に立った彼女。
 ドン・レミーの一少女に過ぎなかったのに、神の声を受け入れ、王太子のために戦った。
 オルレアン奪還に成功してから、ジャンヌちゃんの地位は不動のものになった――と、思われたのだけど、その転落はあっけなかった。

 王冠を手にしたシャルル七世にとって、ジャンヌはただの煩い小娘に過ぎない。
 やがて戦いの中で敵に捕まり、捕虜となったジャンヌを、王太子は助けなかった。当時、保釈金を払えば捕虜は返してもらえたはずなのに、それをしなかったのである。

 ジャンヌは見捨てられた。
 神の声に従った聖なる乙女、ジャンヌ・ダークは、異端者、悪魔に身を売った女として扱われることになった。
 
 こつんこつん、がちゃがちゃ――陰鬱な音が反響する暗い空間。不気味に燃える松明の光が壁を照らす。めらめらと炎が踊り影が揺れる。
 ああ、ここはジャンヌちゃんが閉じ込められた場所。
 異端者裁判にかけられ、火あぶりに処せられるまで押し込められた牢獄。

 いやああ、きゃああ。

 抵抗する物音や悲鳴。下卑た笑い声がそこに混じり、びりびりと布が引きちぎられた。ジャンヌにとって最も耐えがたい出来事だったのではないか。
 壁に、争い合う影が映し出されて揺れる。
 粗末な寝台に押し付けられるジャンヌ。
 ごん、がしっと鈍い音がして、ぎゃあっと醜い悲鳴があがった。男の方だ――この魔女め、なんということをするんだ、可愛がってやろうとしているのに、この……――男が拳を振り上げる影が大きく壁に映る。目を覆いたい一瞬。

 がらがら、がちゃん。
 重たい音が反響する。そして、しいんとした静寂――やがて、すすり泣きながら、祈りを呟く声が聞こえた。

 衣擦れの音。
 床に畳んで置かれていた衣類を拾い上げ、引き裂かれたスカートの代わりにそれを身に着けるジャンヌ。小さい体に、馴染んだ衣服。それは、ラ・ピュセルとして身に着けていた、男物の衣服だった。
 殴られて傷ついた横顔が見える。
 黒い髪の毛の間から覗く紫の痣が痛々しい。

 わたしは。

 わたしは、こうして白昼夢の中で彼女の運命を見ているだけで、なにもできないままだった。
 せめて、ラ・ピュセルの名声を手にする前の彼女に「そっちに行ってはならない」と耳打ちすることができればと思う。その「神の声」は、破滅の声。聞いてはならない。ジャンヌちゃん、お願い、話を聞いて。
 ……。


 「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」
 ジャンヌちゃんの祈りの声が微かに聞こえた。
 聖書の言葉を暗唱しているのか。

 確か、ジャンヌちゃんは文盲だったはずだ。
 自分で名前を書くこともできなかった。もちろん聖書を読むことができるわけもない。
 恐らく、ドン・レミーの教会で聞いた説法を、繰り返し聞いているうちに覚えてしまったのだ。心が痛くなる程の熱心さで、ジャンヌちゃんはその言葉を呟いていたのだった。

 「どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい……」


 絶えず、目を覚まして。
 ぼろぼろの肉体を引きずるようにして祈るジャンヌは、眠りに安息を求めることができぬ。
 そしてそのまま、意地の悪い裁判の日々を過ごし、最期の時を迎えるのだ。

 (この子が、何をしたというのだろう)

 お願い、なんとかして。
 なんとか、この状況を打ち壊して。

 
 そこで、わたしは目が覚めた。恐ろしい夢を見たせいで、全身にぶつぶつの汗が浮き出している。

**

 帰宅したママは機嫌が悪く、ほとんど何もしゃべらなかった。
 食事の時も、決してわたしのほうを見ようとはしなかったし、絶えずいらいらしたように指先でテーブルを叩き続けていた。

 ごはんが終わり、わたしは勉強部屋に逃げた。
 じきにお風呂が沸く。そうしたら、ママに言われる前にお風呂に入って出て、また勉強部屋に籠って静かにしていなくては。
 もしかしたらママが部屋に押し入ってくるかもしれない。とてもそんな気分にはなれないが、勉強机に数学の教科書を広げ、勉強しているふりだけでも続けなくてはならない。

 ママの充血した目や、こちらの話を全く聞こうともせず、まくしたてる顔を思い浮かべると、おなかのなかが冷たくなるようだった。
 いつ階段を上ってこちらにやってくるかと思うと気が気ではなく、小さな物音ひとつに飛び上がる始末だ。
 (怖い……)

 カレンダーを見る。
 夏休みの終わりはまだ遠い。一体いつまでこの息詰まるような状態が続くのだろう。

 (自殺したくなるのって、こういう時なのかなあ……)

 机の引き出しにカッターが入っていたのを思い出した。
 
 ぼんやりと、何もしないでただ机に向かっていると、階下から、ピンポーン、とチャイムの音が聞こえた。
 ママの、よそ行きの声が聞こえる。
 あらっ、まあまあ、えっ、そうなんですか、まあ……。

 お客だろうか、こんな時間に。
 
 やがて階段を上ってくる足音が近づき、身構えていると、がちゃっと扉が開いてママが顔を出した。
 強張ったお面みたいな顔をしている。目がガラス玉みたいに光っていた。

 「神子ちゃん、お客さん。お座敷に通してあるから早く来なさい」
 
 えっ。
 わたしは聞き返した。
 ママは無表情に言った。

 「英語の、仏田先生がお越しよ。神子ちゃんの話が聞きたいんですって……」

 ガタン。
 椅子を後ろに倒す勢いで、わたしは立ち上がっていた。
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