その4 わたしは誰を恐れよう

文字数 6,007文字

主はわたしの光、わたしの救い
わたしは誰を恐れよう。
主はわたしの命の砦
誰の前におののくことがあるだろう。(ダビデの詩)

**

 補習がなかなか終わらないのは、補習の名目で学校で逢引をしているから。
 「吉亜先生と、いつからお付き合いをしているの」

 時間は牢獄のよう。
 いつものキッチンが、おぞましい場所になった。
 「とてもパパには話せないこと」なので、ママの尋問は、翌日、パパが会社に出勤していってから始まった。

 なにも変わったところのない朝ごはんが終わり、行ってらっしゃいとパパを送り出す。
 快活なDJのラジオ番組。夏の日差しが窓から差し込んでいる。
 
 今日も暑くなりますが皆さん熱中症にはくれぐれも気を付けて。では今日のリクエスト第一弾は、こんな夏日に聞きたいこのナンバー!
 ……。

 楽し気な夏の歌が流れ始める。
 だけどママは、そんな歌など全く聞こえていないかのように、洗い物の手を唐突に止め、神子ちゃん、ちょっとそこに座っていなさいと命令したのだった。

 コチコチコチ。
 台所の壁にかかっている時計は、不思議の国のアリスのデザインだ。きりのよい時間になると、扉から兎とアリスが飛び出して、くるくる踊りだす仕掛けになっている。
 今日は、時計の秒針の音が重苦しかった。ラジオから流れる夏のナンバーが明るければ明るいほど、空気は沈み、息は詰まった。

 追い詰められていた。
 「付き合うとか、全然そんなことはしていない」
 と言っても、ママはまるで聞く耳を持たなかった。
 
 「でも、あなたと吉亜先生、デートしていたんでしょ」
 ママは、そんなふうに切り込んで来た。
 
 デート。
 どこからどう説明すれば良いだろう。
 こじつけも良いところだ。これ以上の濡れ衣はないだろう。
 「誰がそんなこと言ってたの」
 と言い返すと、ママは、「誰だっていいでしょう」と突き放してきた。話になりそうもない。

 物事を面白おかしく話して、みんなに広める湯田さんのことを考えた。
 湯田さん。夏休み中だというのに、この噂を――ほとんど作り話といって良い、でたらめ話を――うちのママの耳に入ってくるほど広範囲にまき散らした。
 湯田さんの口から英会話部の女子たちや、仏田先生へ。そして、伝わったその噂は、さらに尾ひれをつけられて、その家族や友人へと伝播する。
 
 言葉は生き物だ。人から人へ伝わる度に形をかえ、大きさをかえる。性質も変わる場合もあるだろう。なんでもないことが、とんでもない大事になったり。逆に、本来は大問題になるべきことが、ありふれたどこにでもある日常茶飯事の出来事に書き換えられたり。
 ザビエル先生とわたしの件は、恐らく、あり得ない形に進化し、人々に伝わっていったのに違いなかった。
 (付き合うとか、デートとか。ましてや、補習が逢引だなんて)

 「そんなこと、あるわけがないでしょう」
 と、わたしは爆発しそうな心を抑えながら、やっとのことでそう言った。
 ママを見ると、ぎらぎらした目でわたしを睨んでいる。その目には涙が浮いていた。
 (悲しみの涙なのか怒りの涙なのか)
 
 「ママから吉亜先生に、ちゃんとお話しておきますから。学年主任の先生にはもう電話をしました。今後、数学の補習授業は別の先生にしてくださいとお願いしたわ」
 
 ばあん、と、ママはテーブルを引っぱたいた。
 わたしはまるで自分の頬が叩かれたかのように、全身が冷たくなった。

 「神子ちゃん、ママ信じてたのに。一生懸命お勉強してるって」
 ああそれとも、本当は数学は赤点なんか取っていなかったんでしょう。だけど、夏休みに二人きりの時間を作りたくて、わざと補習を受けるように演技させられたんでしょう。
 ねえ神子ちゃん、ママには本当のことを話して。吉亜先生と、どんな話をしていたの。
 ……。

 (頭が、おかしくなりそう)
 なにをどう言っても、まともには聞いてもらえない。
 学年主任にまで話をしたって――わたしはぞっとした――ザビエル先生の教師生命が終わってしまうかもしれない。
 冗談じゃない!

 「ママは、わたしと、その噂と、どっちを信じるの」
 そう言ったら、ママの表情が変わった。
 掌が宙を一閃した。あっという間もなく、わたしはママにひっぱたかれていた。

 「口ばっかり達者になって。じゃあ、神子ちゃんは、高校になってからお勉強ができなくなったことを、ママにどう言い訳するのっ」

 それ、今回のことと関係ないよ。言いかけて止めた。
 なにを言っても揚げ足を取られ、引っぱたかれたり、泣かれたり、騒がれたりして、口封じされるだけだ。
 わたしは黙って、身に覚えのないことをがみがみと言いたてられたり、わけのわからないお説教を、何時間でも、ママの気が済むまで、聞いていなくてはならない。反論は一切許されないし、もし口答えすれば、尋問の時間が長引くだけなのだ。
 
 朝ごはんの、味噌汁の残り香が、まだ台所には漂っていた。
 やがてママは、お仕事の出勤時間が近づいたので話を切り上げた。支度をしなくてはならないから、もうこれ以上台所に留まることができないのだ。
 「いい、今日は補習は休みなさい。ママから学年主任にお話ししておいたから。うちでお勉強すること。わかったわね」
 
 食卓の椅子に、縛りつけられたみたいに、わたしは動けなかった。
 体が強張って、息が苦しい。
 ママはお化粧をし、服を着がえ、出かける前に、神子ちゃんいつまでそんなところで遊んでるの、早く勉強しなさいと吐き捨てた。

 がらぴしゃん。玄関の戸が閉まる音。やっとわたしは大きく息を吸い込み、吐いた。
 
**

 湯田さんと話をしなくては、と思った。
 湯田さんの携帯なんて知らなかった。クラスの連絡網には自宅の固定電話しか書かれていない。
 勉強部屋に籠り、一息ついて心を落ち着けた。湯田さんとなんか、喋ったこともない。クラスの中心人物、おしゃべりで楽しい湯田さん。なんでも笑いものに仕立て上げ、盛り上げるのが上手な湯田さん。明らかに事実と違う噂を流した湯田さん。
 電話で喋ることを思うと、恐ろしくてくじけそうになる。何とか気を奮い立たせ、ら自宅の固定電話に電話してみた。
 
 とぅるるる、とぅるるる。
 思った通り、誰も電話に出ない。泣きそうになりながら、いつまでも待った。とぅるるる、とぅるるる。……出ない。

 
 電話して話すことができるのは、ママが出かけている時間だけだろう。
 夕方になればママが戻ってくる。明るい時間帯にかけるしかないのだけど――多分、湯田さんの家は日中は誰もいないに違いない――わたしは絶望していた。

 ザビエル先生に電話しようかとも思ったが、この状態で先生とコンタクトを取るのは危険だと思った。
 先生、大丈夫だろうか。先生こそびっくりして目を白黒させているのに違いない。
 だって、どの瞬間をとったって、わたしとザビエル先生の間に変なことはなかった。熱心な数学教師と、数学嫌いの落ちこぼれ生徒でしかなかった。
 (よくもこんなデタラメを思いつく……)
 喉の奥まで見せて、げたげたとよく笑う湯田さんの顔を思い浮かべると、ぐらぐらっと頭の芯が煮え立つような気がした。

 考えろ。考えるんだ。
 わたしは焦っていた。この酷い濡れ衣を、一刻も早く晴らす必要があった。
 携帯電話を握りしめ、勉強机に突っ伏した。頭がぐわんぐわんと混乱している。
 
 「あっ」

 急に、一筋の光が頭の中を過る。
 そうだ、その手があった――連絡網のプリントの裏を見ると、先生たちの連絡先が書かれてあった。
 なかには、固定電話ではなく携帯電話の番号を提示している先生もいる。たぶん、仕事用とプライベート用と、二つ電話をもっているのではないだろうか。若い先生に多いような気がするけれど。
 指で印字された文字を辿りながら、目指す名前を探す。あった。

 仏田先生。C組の副担任。
 仏田先生の電話番号は、携帯番号だった。ああ大丈夫だ、これなら繋がる――どきどきと心臓が走り始めた。途端に息が苦しくなる。
 
 仏田先生は英会話部の顧問。先生に話をしてみて、なんとか湯田さんと連絡が取れないか相談してみよう。
 仏田先生は感じのいいひとだ。先生のなかにもいろいろいて、生徒をえこひいきしたり、馬鹿にしたりする先生もいるけれど、仏田先生は誰に対しても公平で、生徒からの人気も高い。
 きっと先生なら話を聞いてくれるはず、親身になって相談に乗ってくれるはず。

 緊張のあまり指がぶれそうになりながら、その番号に電話をかけた。
 仏田先生。仏田先生。電話に出てください、お願いだから話を聞いて……。

 とぅるるるる……。
 ……。


 その時、目の前が真っ白くなり、一瞬、わたしは意識を失った。

**

 「泣かないで、話を聞かせて」

 あったかい手が頭を撫でてくれる。顔をあげると、黒い大きな目が覗き込んでいた。
 誰にも見られない場所に隠れて、ひっそりと泣いていた。ぶるるる、と、馬が鼻を鳴らしている。空気が籠って、むうっと暑い。
 小屋の中に光は入らない。薄暗がりの中で、藁の中に埋もれているところに、突然、手が差し伸べられた。

 ああ、わたしは何で泣いていたんだっけ。
 誰かにいわれのない罪を擦り付けられて、友達の中で村八分にあって、悲しくて悔しくて、馬小屋の中に隠れて泣いていた。それだけは分かる。

 誰も話を聞いてくれなかった。
 反論しようとしたら、よってたかって攻め立てられて、遂には嘘つきと呼ばれるはめになった。
 
 うちには父親がいない。母親ひとりでわたしを育てている。
 母は仕事と称し、時折姿を消す。どこで何をしているのか、わたしは知らない。だけど、村人たちは母を白い目で眺め、その子供であるわたしに対しても冷淡だった。

 (そうか)

 誰からも相手にされず、どんどん追い詰められていったわたし。
 ただ一人、話を聞いてくれようとしたのは、ジャンヌちゃんだけだった。
 ジャンヌちゃんの家は、村の中でも大きい農家だ。教会通いをかかさず、働き者で、あの子ならどこに嫁いでも大事にされるだろうとみんなが言っていた。

 そのジャンヌちゃんが、わたしに寄り添ってくれようとした。

 「みんなが何て言っているかなんて関係がないわ。本当のことを、わたしに教えて」

 だけどわたしには、村のひとたちが恐ろしかった。みんな、わたしを笑いものにして、スケープゴートにするのだと思っていた。
 せっかく差し伸べられた手を素直に取ろうともせず、わたしは怯えてますます藁の中に深く退いた。

 その時、ジャンヌちゃんは不意に、聖書の文句を暗唱したのだった。
 不思議な微笑みを口元に刻み、黒い瞳を輝かせながら。

 「主はわたしの光、わたしの救い。わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦。わたしは誰の前におののくことがあろう」
 
 神様はちゃんと見ていて下さるわ。わたしには分かるもの、あなたはちっとも悪くはない……。
 
 「ね、だから、話して。聞かせて」

**

 ひらっと上からなにかが降ってきて、はっと我に返る。
 降って来たものを反射的に片手で捕まえた。白い、ふわふわしたものだ。なんだろう、埃だろうか。

 一瞬、気を失った瞬間に見た、リアルな夢。これは、15世紀のドン・レミーが舞台だろう。
 それにしても、今見せられた白昼夢の中で、わたしは現代のわたしではなく、小さい怯えた子供で、ジャンヌちゃんと同じ立場で顔を突き合わせていた。
 裸足の汚れた小さい足や、ぼろぼろのスカートの裾――自分が身にまとっていたものまで、鮮明に思い出せる。

 (これは、今までザビエル先生の補習の日に見ていた白昼夢とは全然別物だ。きっと前世の記憶というやつ……)
 中二病になりそうな気がして、それ以上考えるのを止めた。
 
 そうだ、わたしは今、とてつもなくヤバイ状況にある。こともあろうにザビエル先生と噂になるとは。
 ママはあんな状態だし、たぶんこれから毎日、パパが出勤してしまった後は、あんな牢獄のような時間が待ち受けるのだ。

 わたしはきっと今、普通の精神状態ではない。だから、前世の記憶じみた変な夢を見てしまったのかもしれない。
 前世でジャンヌちゃんに親切にされ、だから今、こんなにジャンヌちゃんに惹かれているのだと理由づけるのは、あまりにも漫画っぽい。

 とぅるるるる。
 耳元で電話の呼び出し音が鳴り続けていて、わたしは丹田に力を込めた。白昼夢を見ている場合じゃない。今わたしは、仏田先生に電話をかけている。
 とんでもない誤解を解くべく、相談をしようとしているのだ。しっかりしろ、聖山神子。

 とぅるるるる。
 一体、どれほど呼び出し音が鳴っているだろう。
 心臓は嫌な感じでばくばくと音を立てていたし、口の中は緊張でカラカラだった。
 
 いっそ逃げたい。
 そう強く思った時、脳裏にザビエル先生の淡々とした後姿が浮かんだ。かつかつと黒板に数式を書きつけている姿。時折、唐突に呟く聖書の名言。
 (駄目だ、ザビエル先生に変な迷惑をかけるわけにはいかない……)

 そもそも、数学で赤点を取った上に、追試を落としまくっているわたしが根本の原因なのではないか。
 (ごめんなさい、ごめんなさい、ザビエル先生)


 突然、電話の呼び出し音が切れた。はいもしもし、と、仏田先生の声が耳元で聞こえて、わたしは飛び上がった。
 どうしよう、仏田先生だ、どう話そう、なんと言ってお願いしよう――ほんの数秒の間にわたしは大きく揺れた。
 
 もしも仏田先生も、わたしの話を聞いてくれなかったら。
 軽蔑と好奇の言葉を投げかけて来たら。
 (怖い、逃げたい……)

 思わず電話を切ろうとした瞬間、ジャンヌちゃんの声が蘇り、わたしは思いとどまった。

 わたしは誰の前におののくことがあろう……。


 「突然すいません、聖山です」
 口の中が粘ついていた。声が上ずっていた。今にも喉が押しつぶされそうな苦しさを覚えながら、わたしはゆっくりと、話しかけていた。
 「話を、聞いていただきたいんです……」

 お願いします。


 電話の向こう側で、仏田先生が息を飲む音が聞こえた。
 わたしは、さっき宙から舞い降りてきて、片手で捕まえたものを、何気なく見た。掌に収まっていたのは、小指の先ほどの大きさの、真っ白い羽根だったのである。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み