その4 世の終わりまで、いつも

文字数 4,216文字

 わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいる。(マタイ福音書)

**

 追試に失敗した。
 赤点を挽回するはずの追試で、さらに悪い点数を取るなんて。
 (ママには言えない……)

 じいわ、じいわ。
 校庭の蝉の声が夏の盛りを教えている。クーラーの利きが悪い教室は湿度が高く、座っているだけでスカートの中がじっとりしてくる。
 机に置かれた悲惨な答案用紙を睨んでいると、ザビエル先生が淡々と言った。

 「この追試で赤点以上取れていたら、おまえも晴れて夏休みだったのだが。残念だったなあ」
 あんまりにも淡々と言うので、残念感が伝わってこない。顔をあげると、ザビエル先生はいつもと変わらない、読めない表情で教科書を開いていた。
 「まあ、追試の追試はいくらでも受けさせてやる。夏休みは長い」
 二学期が始まるまで、赤点以上を取ればいい。ま、気を楽に。

 (ぜんっぜん、楽じゃない……)
 ザビエル先生は一生懸命教えてくれているのに、どうしてか頭の中に入ってこない。
 数学に侵食されるのを、脳が必死で拒否しているんだ。おまけに、例の白昼夢が現れるので、補習を受けていても上の空になってしまう。
 もう七月は終わろうとしていた。夏休みが始まって今に至るまで、ジャンヌ・ダルクについての知識は身についたけれど、数学のほうはサッパリだ。
 
 先生のほうも、落ちこぼれのわたしがどうにかならない限り、補習授業から解放されない。
 かたや必死で数学を教え、かたや数学に拒否反応を出して白昼夢を見る。誰も幸せにならない関係。
 
 先生もう留年で良いよ。ぼそっと呟いたら、黒板に向っていたザビエル先生が振り向いた。
 怒られるかと思ったら、意外に柔和な目だったので、はっとした。

 「高1の一学期で落第者を出してたまるか。いろいろ大人の事情があるんだよ」
 だけど先生の口から出た言葉は実に現実的で、ゲンキンですらあった。
 わたしはあーあとため息をつき、その間にカツカツと、黒板に数式が書き出されてゆくのだった。

**

 もし補習を受けずに済んでいたら。
 必死で授業に集中しようとするけれど、この暑さには勝てない。どんどん、眠気が襲ってきて、先生の静かな声が子守唄のように聞こえた。
 カツカツ。白墨の音がぼんやりと遠くなる。カツカツカツ――あれ、これはチョークの音だろうか。なんだか、馬の蹄みたいに聞こえるが。

 (もし補習を受けずに済んだとして、わたしは夏休みを楽しく過ごしていただろうか)
 カツカツカツ……。
 黒板に向かうザビエル先生の後姿がどんどん遠くなり、変わって埃っぽく、あちこちに石やドロドロの水たまりができた道が浮かんだ。
 あ、これいつもの白昼夢だ。やばい、また引きずり込まれる――必死に現実に留まろうとしたが、どうにも抗えない。
 白墨が黒板を叩く音は、茶色い馬が埃っぽい道を行く音にすり替わる。重たそうな鎧をまとった、でっぷりとしたおっさんが、やけに尊大そうに、ゆっくりと目の前を過る。
 
 高貴な人物ではないだろう。田舎の領主の部下のひとりに過ぎない男。
 損得勘定を頭の中で働かせ、日和見主義で、狭い世界を生きている。だけど年老いた母や妻子を背負う身でもあるから、何が起きるか分からない今の世で、一瞬の甘えも隙も許されない。
 損得勘定のソロバンが一瞬でも間違いを犯したら、男の首は飛ぶ。
 (……そういう、時代。世の中……)

 
 馬に乗った騎士が埃をたてて去ってゆくのを見送る。今わたしは、どこに立っているんだろう。どうして男のことが手に取るように理解できるのか。

 「神の視点だからだよ」
  ふいに、重々しい声が聞こえてぎょっとした。すぐ隣に、妙に背の高い、がっしりとしたものが立っていた。見上げて顔を確認しようとしても、逆光になってよく判らない。
 誰だろうこのひとは。わたしに話かけているのか、だとしたらこのひとはわたしの姿が見えているということになるのだが――「こっち」の世界を覗き見している間、ひとびとがわたしに気づくことは今までなかった。わたしは村人や、ジャンヌの様子をただ眺めているだけに過ぎなかった。
 
 「君は人間か。これは驚いた」
 そのひとは、さして驚いていないように、平坦な調子で言った。
 「……ああ、なるほど……」
 なにかを読み取るように、意味ありげな沈黙が続き、やがてそのひとはこう言ったのだった。

 「こういうことは稀にあるものだ。時空の歪みというか、この世の欠陥部というか。未来の人間が、過去の人間に同調して一時的に時代を行き来することは、ごくたまにある」
 はあん――わたしは呟いた。
 どこの中二病患者だろうか。つまりわたしは、タイムトラベラーだと言いたい訳か。

 しかし、このひとも、普通のひとではないようだ。輪郭がぼんやりとしているし、顔が見えないのは逆光のせいではないようだ。ふっと、下を見てみたら、長く引きずる白い衣装が地面についていた。こんな非実用的なものは、普通のひとは着ないだろう。

 
 「フランス王太子をお助けするには、あんなふうにお馬に乗って、鎧を着なくてはいけない」
 その時、頭の中にねじ込むように、声が響いてきた。
 馬に乗ったデブの騎士を見送る、ひとりの女の子の姿が見える。黒髪で、裸足で埃っぽい地面に立ち、ぶらんと両手をさげて立ち尽くしていた。
 今、頭の中に流れ込んできた声は、この子の思考である。切実で、胸がきりきりと痛くなるほど強い思いだった。

 そうだジャンヌ、おまえはフランスに行くのだ。王太子シャルルを助け、フランスを取り戻すのだ。これは神の御意志なのだ……。

 さっきまでわたしの側に立っていた奇妙な人物は、立ち尽くす小さな女の子を覗き込み、その両肩に手を置き、耳元に口をつけるようにして語り掛けている。
 本当に長身なのらしい、いくら女の子が小柄とは言え、ここまで身をかがめ、覗き込むようにして話しかけているなんて――まるで、蛇がとぐろを巻いて獲物を取り込もうとしているみたい――わたしは思った。
 
 これは、得体のしれないなにかだ。この世のものじゃない。
 鳥肌がたった。エライものを見てしまった気がした。
 女の子に語り掛けているそのひとの背中には、真っ白な巨大な翼がついていたのだった。翼は光の加減で薄くなったり濃くなったりと、輪郭が不安定だった。
 一方、女の子の方は、呆然と立ち尽くしている。翼の人物のことなど見えていないかのようだ。だが、語り掛けてくる声は耳に届いているらしい。
 わたしは走って行って、女の子の前に回り込んでみた。黒い丸い目を見開き、口を少し開いて立ち止まっている。

 ジャンヌである。
 この間、図書館で出会ったのより成長した姿をしている。中学生くらいだろうか。痩せて小柄だけど、顔立ちは大人びていた。
 こうしてみると、純朴な、かわいい顔をしている。耳に聞こえてくる不思議な囁きに驚愕し、恐れおののいて祈る様子はあまりにも必死で、気の毒にすら思えた。

 「神の御意志なのだ……」
 翼の人物は囁き終えると、ジャンヌから離れた。
 ジャンヌなにしてるのー、早くおいでよー。
 何人かの女友達が遠くで呼ぶ声がする。はっと我に返ったジャンヌは、素足の裏を見せて駆けだしていた。
 
 「まあ、ある意味、神の御意志だがな」
 道をかけてゆくジャンヌを見送りながら、翼のひとは言った。その、無感情な調子に、わたしは何故かぞっとした。
 「フランスがこのままの状態でいるのは、歴史の流れ上、よろしくない。この戦争はあまりにも長引いている」

 我々の計画では、こんなに長引くはずではなかったのだ。
 そのひとは一方的な調子でそう言った。
 
 (どうしてこんなに嫌な感じがするんだろう)
 ぐろぐろとした嫌悪感が煙のように沸き起こる。
 凄く、嫌な感じがした。この天使みたいなひとは――翼が生えているし、様子からしてたぶん本当に天使と呼ばれる存在なのだろう――ジャンヌに何かをさせようとしている。あんなふうに、姿を現さないまま声だけでジャンヌに近づいて、洗脳するように囁くなんて。
 天使はわたしの心を読んだようだった。ふっと鼻で笑うと、すうっと空気に溶けるように薄くなっていく。

 「おまえには、何も手出しはできぬ」

 わたしは、埃っぽく、石ころだらけの道に、ぽつんと一人で立っているのだった。
 小さくて、ほとんど聞き取れないほどの声が、辛うじて耳に届いた。

 「こちらにも、事情があるのだ」

 **

 大人の事情があるんだ。
 先生はそう言って、補習の授業に専念している。

 キーン、コーン。
 夏休みで生徒が誰もいなくても、授業の終わりを告げるベルは鳴る。
 ファイト―、オー。ファイト―。
 校庭から、運動部の声が聞こえて来た。

 先生は黒板から振り向くと、また寝ていたのかと呆れたように言った。
 わたしは口元の涎を拭った。返す言葉がない。本当に、自分でもどうにもならないのだ。集中しようとしても、できない……。

 「神子ちゃん、もうすぐ補習が終わるのよね。夏休み、どっかママと遊びに行こう」
 ママの、うきうきとした楽しそうな声とか。
 「ファイト―、ファイト―」
 はつらつとした運動部の女子の声とか。
 「海いこ海ー」「きゃー、水着どうする」「セパレートに決まってるやーん」
 クラスメイトの女子たちのはしゃぐ声とか。
 
 そういうものから取り残されて、補習や追試を受ける。
 早くここから出て、夏休みの中に駆け込まないと。そう思うのに、どうしても集中力が欠けている。
 (こんなこと、今までなかったんだけどなあ)

 一体わたしはどうしてしまったんだろう。
 鼻がつうんとして泣きたくなっていた。

 「今日はおわり」
 ザビエル先生は教科書を抱え、さっさと教室を出ていった。そして、こう言ったのだ。

 「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」
 聖書の格言だ、まあ、腐るなー―こつこつと遠のいてゆく先生の足音を聞きながら、わたしはティッシュで、ちいんと鼻をかんだのだった。
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