その3 心を入れかえて幼な子のように

文字数 3,698文字

幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのだ。(マタイ福音書)

**

 うちから自転車で十五分のところに、古い図書館がある。
 小さい時から本が好きで――というと聞こえは良いが、その実、外に出て友達と遊ぶのが嫌だから、自然、引きこもってうちにある本を読んで時間を稼いでいただけのことだ――ママの買い物についていった後は、図書館に寄ってもらうようねだったものだ。
 ママの自転車の後ろに乗って、ぎいぎいと重たげなペダルの音を聞いて、狭い坂道をぐいぐい上ってゆくのが好きだった。
 当時から図書館の壁にはツタが這っており、古ぼけて、謎めいた建物だった。その頃から、あまり図書館に人がいるのを見たことがなかった。いつだってすいていて、まるでわたしのために用意された隠れ家のようだった。

 やがて、わたしがある程度大きくなると、ママはわたしを図書館に送り届けてから、自分一人で買い物に行き、帰りに迎えに来るようになった。
 
 じいわじいわと、開いた窓から蝉の声が聞こえる暑い夏や。
 びちびちと粉雪が窓ガラスを鳴らす、暗く曇った冬を。

 わたしはよく、そこで過ごした。

 だけど、まさか高1の夏休みに、再びそこを訪れることがあるとは!
 (いったい、何時ぶりだろうなあ)
 
 その日の補習は午後からだったので、午前の空き時間を利用して図書館を訪れた。
 もともと出不精で、町の中のことにはとんと疎い。電車通学をするようになってから、それに拍車がかかっていた。
 今、町のどの店が潰れたり、代替わりしたり、あるいはどこに新しい建物が建ったりしているかなんて、町民でありながら、サッパリわからない。
 駅から図書館に上がる細い坂道は、幼い日のままのようであって、よく見ると違った。
 空き家になってしまった家とか、閉店してしまった魚屋とか。
 人通りは、不気味な程なかった。町の過疎化を考えながら、ぎいこぎいことペダルとこいだ。制服のスカートがぬるい風を孕む。汗が流れて来た。そのうちに、あの古びた建物が見えてきたのだった。

 同じなようで、ちょっとずつ時間が流れて変わってしまった町の中で、図書館だけは奇妙に変わらなかった。
 子供の頃見たままのツタの這い方だったし、割れたところをセロテープで補修した出入り口のガラス引き戸もそのままだった。
 自転車置き場には蜘蛛の巣がかかっている。滅多に誰も、そこを使わないのだろう。薄汚れたトタン屋根の下に自転車をとめると、わたしは図書館の中に入った。
 
 すのこが敷かれた玄関で靴をぬいであがり、スリッパで狭い廊下を進む。
 玄関横の窓口から眼鏡のおばさんが覗いて、いらっしゃいと不愛想に言った。驚いたことに、そのおばさんまで昔のままなのだった。

 
 ママー、オバケとお姫様の絵本、また借りたーい。
 ええー、神子ちゃんこれで何回目かしら、その本がよっぽど好きなのね。

 赤いエプロンをしたママと、ママにすがりついて飛び跳ねる、小さいわたし。
 暗い廊下の行く手に、ふいにそんな色あせた幻想が見えて足が止まった。
 カチカチカチ、ポーン、ポーン……。
 たぶん、わたししか利用客のいない図書館の中に、これまた昔のままの音で、時計が鳴り響いた。

**

 ぱらり。木造のテーブル席に座り、本をめくる。窓際の席は明るい。図書館のまわりは桜の木が並んでいて、今は青い葉がさわさわと揺れていた。
 その青い木漏れ日を受けながら、黙々と本を読んだ。

 ジャンヌ。
 ジャンヌ・ダーク。

 世界史の教科書に出てくる、百年戦争。その末期に唐突に現れ、無残な死を遂げたラ・ピュセル。
 
 久しぶりに町の図書館を訪れたのは、彼女について少し調べてみようと思ったからだ。
 このところ、ジャンヌのことが気になっている。妙な白昼夢はしばしば現れ、補習中のわたしを悩ませている。
 戦乱の時代の、日本ではない国の、片田舎の村。そこで生きる少女。彼女の心の中がダイレクトに伝わる。おかしな幻聴、幻覚。こんなことママに知られたら、精神のお医者に連れて行かれるかもしれなかった。
 
 あの黒髪の地味な女の子が、有名なジャンヌ・ダークとは。
 白昼夢で見るその世界の中では、彼女は確かにジャンヌと呼ばれていた。だからといって、彼女がジャンヌ・ダークであると決めるわけにはいけない。ジャンヌという名前は多分、ヨーロッパではありふれているんだから。
 (いや、間違いない……)
 何故かわたしは確信していた。どうしてかは分からない。理屈ではない。恐らく、あれは確かに、ジャンヌ・ダークだろう。
 
 そしてわたしは、自分の根拠のない確信の裏付けが欲しくて、ジャンヌ・ダークについて調べることにした。
 教科書では、ほんの一文にしか登場しないジャンヌ。
 肖像画も見たけれど、あれはジャンヌの死後、想像で描かれたらしいと先生は言っていたっけ。

 無性に彼女のことが気になっていた。
 虚しい補習と追試の夏休みだけど、どうやらラ・ピュセルと共に過ごす夏でもあるらしかった。
 (もっと、はっきりとその輪郭を捉えることができたなら……)
 白昼夢の中で見る彼女の姿。わたしは未だに、彼女の顔を正面から見てはいない。話しかけてみたいと思いながら、いまいち彼女の輪郭がとらえきれなくて、ただ受け身で彼女の思いを受け取るだけなのだった。

**

 時間を忘れて読みふけってしまった。
 気づくと電車の時間が近づいている。慌てて立ち上がると、本を三冊持って図書ルームを出た。
 玄関の受付で貸し出しをしてもらうのだ。制服のポケットには、古びた図書カードが入っている。「ひじりやまかみこ」と、ひらがなで記名された、三冊分の図書カード。
 自分でもよく持っていたと思うが、その図書カードは今でもしぶとく、うちの勉強机の一番下に入っていたのだった。

 「はい、二週間後まで」
 受付のおばさんは無表情に言うと、ぽんとスタンプを押した。わたしは本を受け取った。
 本当はそのまま外に飛び出して大急ぎで自転車をこいで駅に向かいたかったのだが、尿意を感じていた。トイレに行ってから補習に行こう。まだ少しくらいなら大丈夫だ。
 おばさんが音もなく中に引っ込んだのを見計らって、わたしは暗い通路の突き当り、向かって右手にあるトイレに向かい、走ったのである。

 トイレは開け放されていて、すのこでスリッパをぬぎ、トイレのサンダルに履き替えるようになっていた。
 濡れて冷たい床に踏み込んだ時、ふいにわたしは立ちくらみを起こしかけた。慌てて洗面台に手をつき、本を胸に抱え込む。そうして、一番奥の個室の内開き戸から、ひらっと小さな女の子が飛び出して、途方に暮れたように立ち止まるのを見たのだった。

 十歳前後か。小柄である。
 真黒に見えるのは日焼けしているからではなく、全体的に薄汚れているためらしい。着ているものも珍妙だった。
 だぼついたワンピースだけど、あちこちにツギが当たっている。おまけに、トイレの床の上に、その子は裸足で立っていた。

 「あれっ、間違った。ここじゃなかったみたい」
 
 その子はそう言った。日本人じゃないはずなのに、確かにわたしには、そう伝わったのだった。
 くりくりの黒い目は好奇心に満ち、活き活きとしている。きょろきょろとトイレの中を見回し、立ちすくんでいるわたしに気づくと、興味深そうにじっと見つめた。
 
 (ああ……)

 一言も発することができないまま、わたしは彼女が再びトイレの中に飛び込み、消えてしまうのを眺めていたのだった。
 ふとした拍子に、どういうわけだか繋がってしまった時空。小さいジャンヌは扉を開き、そこが目的の場所ではなかったので、間違った扉を開いたと思った。
 こっちの世界のわたしと出くわし、視線を交わし合い、そして再びジャンヌは自分のいる時代に、世界に戻ったのだった。
 
 やせっぽちの小さい体、素足のみすぼらしいジャンヌ。
 疑うことを知らない、純真なジャンヌ。


 「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」
 ジャンヌが消えたトイレの個室から、ゆっくりと語る声が聞こえる。そっとわたしは歩いた。中を覗き込みたい好奇心に背中を押された。
 「弟子の質問に、イエス様はこうお答えになりました。『よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない。この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのだ』と」

 牧師の説法らしい。
 アーメン、アーメン。
 無数の声が祈っている。
 
 この幼子のように自分を低くするものが、天国では一番偉い。
 ……。

**
 
 わたしは、黒髪の少女が現れ、また消えたトイレの個室を覗いてみた。
 なんのことはない、普通の洋式トイレがそこにはあり、覗き込んだ時点で漏れ聞こえていた声や気配は嘘のように消えていたのだった。
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