その4 わたしの心が恐れるのはあなたの御言葉だけ

文字数 4,736文字

地位ある人々が理由もなく迫害するが
わたしの心が恐れるのはあなたの御言葉だけ。(詩編)

**

 思えばこの夏は、どういうわけかジャンヌ・ダークと自分自身がリンクしていた。
 謎の白昼夢に始まり、唐突に幼い日のジャンヌちゃんが姿を現わしたり、15世紀のドン・レミーに迷い込んだりもした。
 また、もしかしたら自分の前世はジャンヌちゃんと関係していたのではないかと思う事もあった。

 おそらくこのモヤモヤが解き明かされることはないだろう。
 ただ、確かなのは、わたしはジャンヌちゃんを通して自分自身を見つめ直しているのだった。
 
 「自分を犠牲にして戦い、名声を得たけれど、その代償として世にも悲惨な目にあった」かわいそうなジャンヌちゃん。
 わたしの中では、そんな認識だった。
 それは同時に、自分自身について、
 「自分を押し殺してママの言われたことを信じて勉強し続けてきて、それができなくなって、掌を返されている」惨めなわたし。
 という、思いにつながった。

 冬の日差しの中で、断食の苦痛にあえいでいるジャンヌちゃんの姿を至近距離で見つめながら、わたしは色々なことを考えた。
 目の前にいるジャンヌちゃんは恐ろしいほど透明で生真面目そうで綺麗で、自分とは全く違っている。気立ても良いし、明るいし、ドン・レミーの誰もがジャンヌちゃんを愛しているのに違いなかった。
 (わたしとは違う……)
 田舎娘の地味さ、質素さのために、ジャンヌちゃんの美しさは一見して分かるものではない。こうしてまじまじと見つめると、はっとさせられる。
 すっと通った鼻。優しいまなざし。だけど意志の強さを表しているのは眉と口元だ。凛とした空気が彼女には纏わりついていて、そこが余計に彼女を綺麗に見せているのだった。

 (自分と比べるなんて、とんでもないことだった)
 と、わたしは、その時になってようやく思い知ったのだった。
 (自分のものさしでジャンヌちゃんを見ていた……)

 視界の隅には、空気の中に溶けそうな天使が、じいっとこちらを見つめている。
 その目には悪意も、ましてや敵意もなく、ただ静かになりゆきを見守っているようだ。
 
 ジャンヌちゃんは乾いた唇を軽く開き、少し辛そうに息をしている。
 壁にもたれかかり、半分目を閉じて宙を見上げていた。
 今を逃せば、ジャンヌちゃんを「説得」することはできないだろう。ジャンヌちゃんはまさに今、出立の決意に繋がる「神の声」を聞く瞬間を迎えようとしている。
 その一瞬前、わずかな時間を、天使はわたしにくれた。

 (良かろう。それほどまでに思うのであれば、ジャンヌを引き留めて見せよ)
 チャンスだった、これは。
 わたしとしては、敵に塩を送られた感があるが、何でもいい、今しかないのだ。
 
 様々な思いや逡巡が頭の中を巡ったが、心を決めた。半眼で壁に寄りかかるジャンヌちゃんの耳元に、わたしは必死で語り続けたのである。

 「ジャンヌちゃん、よく聞いて」
 その声は届いたのだろうか。微かにジャンヌちゃんの頬が動いた。大丈夫だ、ちゃんと聞こえている。わたしは深呼吸した。

 「これからあなたに、お告げが下る。あなたはそのお告げに従ってシノンに向かう決意をするだろうけれど、もしそのお告げに従った場合、なにが起きるかをわたしが見せてあげる」
 
 天使がわたしに与えてくれた力を発動させる。
 目を閉じて、あの陰惨な風景の数々を――わたしはそれらを、あの町の古い図書館の書籍でさんざん読んできた――強くイメージしてジャンヌちゃんの脳裏に送り込んだ。

 敵の捕虜になった時。
 ジャンヌちゃんが命がけで戦ってフランス国王にしたシャルル7世。だけど彼は、ジャンヌちゃんを救わずに見捨てた。
 心が押しつぶされそうな監獄の日々、苦痛、屈辱。
 あまりにも過酷な異端者裁判の場面。そして。

 小さな十字架を帯に差し込んで空を見上げて祈り続ける彼女の足元から、容赦のない炎が立ち上ってゆく、最期の瞬間。
 
 「ジャンヌちゃん、ジャンヌちゃん、ちゃんと見て」
 
 今、ジャンヌちゃんは額に冷たい汗を浮かせている。半眼にした目は微かに潤み、唇は噛みしめられていた。
 この苦悶の表情は、断食の苦痛からくるものだけではない。
 ちゃんと見て、そして考えて。わたしは語り続けた。
 こうなってしまうのよ、ジャンヌちゃん。それでもあなたは、今から聞かされる「お告げ」を「神の声」だと思えるのかしら。

 
 「もうじきあなたは、村の青年と結婚して幸せな日々を送るんじゃないの」
 わたしは言った。

 ジャンヌちゃん自身も好意を抱いているはずの、村の青年と暮らし、子どもに恵まれる。
 同じ村の中にママたちも暮らしている。
 みんなが幸せになる。その道を選んで、一体なにが悪いというのだろう。

 ジャンヌちゃん、ジャンヌちゃん。
 わたしは語り続けた。
 無言でジャンヌちゃんはそれを聞いて、やがて静かに目を閉じた。

**

 すっとわたしの前に大天使が舞い込んだ。
 わたしはその場から少し離れた。選手交代だ。

 大天使は大きく羽根を広げ、ジャンヌちゃんの小さな体に羽根を纏わりつかせるようにした。ふわふわと純白の羽根が舞う様子が、わたしには見えた。
 冬の光を受けて、それは虹色の輝きを放っていた。

 天使はジャンヌちゃんに囁いている。
 なにを囁いているのか――シノンに行き、王太子を救えと言っているのだろう――大天使の羽根に隠れて、ジャンヌちゃんの様子はよく判らない。だけど、大天使がすうっと離れてゆく瞬間、ジャンヌちゃんの穏やかな表情が垣間見えてはっとした。

 ジャンヌちゃんは、さっきまでの苦悶を手放し、ただ穏やかで、幸せそうな顔をしているのだった。
 両手を祈りの形に合わせ、唇は微かに微笑んですらいる。
 冬の風がゆるゆると拭いてきて、ジャンヌちゃんの髪の毛を揺らした。冷たい空気にあてられて、頬が赤く染まった。

 ああ、負けた。
 わたしは知った。
 
 大天使はそのままゆっくりと空気の中に溶けて行き、いつかわたしの前から消えた。
 ひらひらと白い羽根が空から舞い降りて、濡れた足元に落ちる。

 ジャンヌちゃんは目を開いた。恐ろしいほどに澄んだ瞳だった。
 天からまっすぐな刃が落ちてきて、脳天を貫いたかのような強烈な意志が彼女の中に生じている。シノンに行く。行かねばならない。
 ジャンヌちゃんはついに、その道に足を踏み出してしまった。

 もう、懐かしく温かなドン・レミーに、彼女の心はなかった。
 かわりに、これから恐ろしい運命が待ち受ける、「ラ・ピュセル」の世界に、足を踏み入れたのだった。

 (どうして)

 愕然としながら、ジャンヌちゃんの変貌を見ている。
 断食に苦しんでいた姿ではない。心を決めた、毅然とした戦士だ。
 ジャンヌちゃんは、ついに行くことを決めた。明日にでも――と、彼女は思っている――ドン・レミー村に縁のある貴族がいるヴォークルールへ行き、協力を仰ごうと考える。
 きっとうまくいく。否、最初はうまくいかないかもしれないけれど、わたしには神がついている。必ず打開される。

 わたしは、シノンに行くのだ。
 ……。


 「みんなが悲しむよ」
 と、わたしは言った。
 すると、ジャンヌちゃんはすっと顔をあげた。わたしの方を見ているけれど、わたしの姿が見えていない目で、彼女は言ったのだった。

 「それでも、行かねばならない。わたしはこの道に進みたい。なにを信じるかは、自分で決めます」

**

 こん。
 ……こん。

 小さな音が繰り返し聞こえる。冬の風で折れて垂れた枝が、他の枝にぶつかっているのだろう。
 黒い枝木の下で、ジャンヌちゃんが立ち去ってゆく姿を見送った。

 わたしは、何もできなかった。
 渾身の説得のつもりだった。
 さんざん、酷い目にあっている様子を本で読んだし、白昼夢や夢の中でも見て来た。
 ジャンヌちゃんが処刑された後、老いたジャンヌちゃんのママが泣きながら語る様子も。

 それらの風景を、ジャンヌちゃんの脳裏に送り込んだはずなのに。
 なのに、彼女は心を変えなかった。

 (それでも、行くんだ)
 分かっていても。
 その方向に行ったら、決して世間一般の幸せは手に入らない。なのに。


 「なにを信じるかは、自分で決めます」
 ジャンヌちゃんは、こう言った。
 わたしの説得は、撥ねつけられた。
 
 断食していて辛いはずなのに、しっかりとした足取りで歩き去ってゆくジャンヌちゃん。
 その後姿をいつまでも見送りながら、わたしは途方に暮れた。

 ああ。
 離れてゆく。
 行ってしまう。ジャンヌちゃんが。

**

 「人はみな、いずれは神のみもとへ行く」
 不意に、背後から声をかけられた。

 ザビエル先生が淡々と立っている。
 振り向くと、やはりザビエル先生は、件の天使の彫の深い顔をして、いつもとは微妙に様子が違っている。目を凝らすと、うっすらと羽根が見える気がした。
 天使に憑りつかれたザビエル先生は、重々しく言うのだった。

 「そして、なにが本当の幸いかなど、神以外の者が分かるはずもないのだ」
 
 わたしは先生を見上げた。
 そして、怒りのような、悲しみのようなものが込み上げてくるのを感じた。

 そうだ、人には分からない。
 だけど、やっぱりわたしは、ジャンヌちゃんには幸せになってもらいたかった。

 「わかんないわよ」
 先生に向って、わたしは叫んでいた。
 わかんないわよ、なにが本当の幸いよ、もっとわかるようにかみ砕いて言うべきなのよ、神様とやらも、数学の教科書も!

 どんなに目を凝らして読んでも、意味が全く分からない数学の公式のように、神様の考えも、わたしには分からない。
 ただ必死になって生きているだけ、苦しい、どうしようと惑いながら。
 
 叫び散らした時、ひらっと天からなにかが泳いできて、わたしの目の前をふんわりと漂った。七色に輝いている。柔らかいオーガンジーのようなリボン。
 時空のリボンが、また目の前に現れた。

 「ねえ、分かるように言ってみなさいよ」
 しまいには、先生に言っているのか、神様に啖呵を切っているのか、自分でも分からなくなった。
 そうこうしているうちに、オーガンジーのような時空のリボンはゆるやかに分解されはじめ、今にも空気の中に溶けてゆきそうだった。

 ああ、時空のリボンが消滅する。
 そうなったら、わたしは現実に戻れなくなる。
 あの、21世紀の、なんら面白いところのない、理不尽な現実の中に!

 (選べ)
 頭の中に、重々しい声が響いた。

 選べ。
 このまま、15世紀フランスに留まり、ジャンヌちゃんを説得し続けるか。
 なにひとつ良いことがない、夏休みのさなかに戻るのか。
 そこにはヒステリックなママがいて、わけのわからない数学の補習が残っていて、心がねじれているにも拘わらず、周囲のひとから好かれているために、やりたい放題の湯田さんみたいな人がいる。

 一瞬、わたしは、ここにこのまま留まろうかと思った。
 だけどその時、なにかがわたしの手を動かして、溶けかけた時空のリボンを取らせたのである。

 力強く時空のリボンを握りしめる自分の手を見ながら、わたしは、吐き気を覚える現実の中に、ゆるゆると戻ってゆくのを感じていた。
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