その1 わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから
文字数 5,236文字
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。(詩編)
**
ザビエル先生の補習のある日、ドン・レミー村の白昼夢が訪れる。
町の図書館で幼いジャンヌちゃんに遭遇した日も、午後から補習だった。
ザビエル先生の授業を受けている間、どうしてあんなに頻回にジャンヌちゃんの世界に引き込まれたのか――おかげで追試に次ぐ追試でさんざんな夏休みになっているわけだけど――どうやら不思議が起きる時は、ザビエル先生が側にいることが多いみたいだ。
今回もそうだ。
(時空のリボンが現れて、それを握ったのは良いけれど)
あの、宙から舞い降りてきた一本の美しいリボン。
ジャンヌちゃんが生きた15世紀末期のフランスと、21世紀の日本を結ぶ時空のリボンだ。
わたしは、そのリボンが例の天使によって斬り捨てられたと思っていたのだけど、どうやら未だ繋がっていたらしい。その証拠に、今まさに、わたしたちは、ドン・レミー村の風景の中に立ち尽くしているのだった。
いきなり目の前の景色が変わった。のんびりとした農村の昼下がりといった風景だ。家畜の鳴き声もするし、どこからか賛美歌を歌う声も聞こえる。
足下がしゃくっと音を立てたので見てみると、驚いたことに霜柱が立っていた。
「冬らしい」
唐突なタイムスリップに心を乱されることなく、ザビエル先生が静かに言った。手をかざして上を見ている。
わたしも同じように空を見上げてみた。太陽が柔らかく照っているが、夏の眩しさがない。
周囲を見回すと、ああそうかと納得した。農家らしい小屋がいくつも建っていて、家屋を護るように木々が家々を囲んでいる。夏の間はさぞ見事な茂みだったろうと思われる樹木だが、今は寒々しい黒い枝を空に突き立てているばかりなのだった。
ぼんやり立っていると、家屋や木々が並ぶ間に伸びた小さな石ころ道を、背中にたきぎを背負ったおばさんが、むっつりとした顔で歩いてくるのが見えた。
こちらに向かって来る。わたしたちはどう映るだろうか、怪しまれるだろうか。身構えて近づいてくるおばさんを見ていたが、思いがけず、視線すら合わないまま、おばさんは目の前を通り過ぎていった。
すれ違う瞬間、強い体臭が香り、おばさんの肌の様子や、服の埃っぽさがよく判った。思わず退くと、先生にぶつかってしまった。
ひゃ。
変な声を上げてしまい、口をふさいだ。
ところが、目の前のおばさんはなんら反応しないまま、重たそうにたきぎを背負って、一歩一歩踏みしめるようにして歩いて行ってしまったのだった。
「見えていない」
と、先生は冷静に言った。
どうやらそうみたいだ。
「先生、驚かないの」
わたしの問いかけに、先生は淡々と、いや、びっくりするだろう普通、と、全くびっくりしていない様子で答えてくれた。
いつも補習の時に、数式の説明をするのと同じ調子だった。
「ここ、多分、15世紀のフランスのドン・レミー村ですよ」
わたしが言うと、僅かに眉をあげた。これは驚きと言うより、問いかけだろう。どうしておまえがそれを知っているのか、という疑問だ。
なんと説明すればよいものか迷った。なにしろわたしは白昼夢や、夢の中で、何度もここを訪れているのだ。
ジャンヌちゃんの小さい時、敵に襲撃されて理不尽を味わっているドン・レミーや、大きくなってゆく中、牧歌的で楽園のように穏やかで楽し気なドン・レミーをつぶさに見てきた。
間違いなくここはドン・レミーである。そしてわたしには、今立っている場所からどう歩いたらジャンヌちゃんのうちにたどり着くのか、教会に行けるのか、そんなことまで分かっているのだった。
「先生の授業を受けている間、何回もここに来ていたんです」
と、言うと、流石に先生は眉をひそめた。理解に苦しんでおられる。当然だろう。
「なんというか、わたし、ジャンヌ・ダークに同調と言うか、リンクしているというか。夏休みに入ってから、ずっとそんな感じだったんです」
さらに付け加えて反応を見た。
中二病と馬鹿にされるか、心を患っていると思われるか。
だけど先生は、すぐに淡々とした表情に戻り、またいつもの調子で言ったのだった。
「神が創りたもうた世界は不思議に満ちている。科学や計算、世の中にまかり通っている常識が全てではない」
まあ、こういうこともあるだろう。現に今、起きている。
(完全に受け入れている)
ザビエル先生の底知れなさを見た。
わたしですら、突然のタイムスリップに驚いていたというのに。
ぼそりと先生は言った。
「すべての出来事には神の意思が働いている。今ここに来たという事には、何らかの意味があるはずだ」
何らかの意味。
ぼうっと立ち尽くすばかりのわたしだったが、その時、一際高く、賛美歌の合唱が流れてきてはっとした。
ミサの最中なのだろう。これは、村の教会から聞こえてくるのに違いなかった。きっと、ジャンヌちゃんもいるのに違いない。
(わたしがここに来た意味。それは)
この夏、わたしはジャンヌちゃんの事を色々と考えた。
自分の置かれている状況と重ね合わせるようにして、ジャンヌちゃんの運命を何とか修正したいと願ってきたのだ。
時空の扉が開き、こちらとあちらを行き来できるらしいことが分かってから、その思いは強くなった。
ジャンヌちゃん。
純粋な黒い目の女の子。信じるもののために戦って名声を得て、そして転落して理不尽な死に方をした。
わたしはジャンヌちゃんの年老いたママが、ジャンヌちゃんの名誉回復のために声を枯らしているのを見た。
それはまるで――思い出すとまだ胸が痛む――駄目川君のママの涙みたいだった。
(あんなふうになっては、いけない)
こつん、こつん。監獄に響く陰鬱な足音。じゃらじゃらと纏う鉄の鎖。
毎晩恐ろしい目にあわされ、抵抗しては顔の痣が増えてゆく……。
「先生、わたしはジャンヌ・ダークの運命を変えたいです。もしここが、ジャンヌちゃんがシノンに旅立つ前のドン・レミーなのだとしたら、まだ間に合うと思うんです」
先生を見上げると、淡い冬の太陽の逆光になって、顔が一瞬、違う人のように見えた。
淡々とした目に蒼い光が宿り、顔の彫が深くなったような気がした。
なにかの面影が重なった。その「なにか」が、とんでもないものだったので、わたしは思わず先生の顔を凝視したのだった。
だけど先生がゆっくり体をゆすると、その幻影はあっけなく消えた。先生は先生であり、あいつ――あの、ジャンヌちゃんにまとわりつき、しつこく耳元でささやき続けていた天使――とは似ても似つかないのだった。
顔を凝視してしまっていたことに気づき、目のやり場に困った。
「間に合う。何に」
と、先生は宿題の答えを問いかけるような無頓着さで言った。
わたしは口ごもりながら「だから、ジャンヌちゃんがあんなひどい運命をたどる前に、この村で一生を送ることができるように、あの子を説得できるかなと」と言った。
説得する。
神の声――あの、天使のささやき――を聞いて、自分こそシノン城で不遇を味わっているシャルル王太子を救うラ・ピュセルだと信じ込んでしまっているジャンヌちゃんを。
どう説得するのか、と、先生が静かにきいた。
その声になんら感情は籠っておらず、もしかしたらわたしは、そこに漂う違和感に気づいていたのかもしれない。けれど、いや、そんなはずはない、先生はいつもこんな感じだと無意識に思い直していた。
「ジャンヌちゃんの耳元に、あの天使が――ああ、わたし、ジャンヌちゃんにお告げを囁く天使の姿を見たんです――いろいろ囁いたみたいに、わたしもジャンヌちゃんの側に行って、一生懸命話しかけてみます」
ジャンヌちゃん、シノンに行ったら最後、酷い運命が待ち受けているのよ。
王太子は確かに救われてシャルル7世になるかもしれないけれど、そのあとジャンヌちゃんは敵の捕虜になってしまう。だけど王様はジャンヌちゃんを助けようともしないで見殺しにするのよ。そうなったら、ジャンヌちゃんのママも悲しむ。
そっちに行っちゃ駄目。
その声を信じてしまったら、取り返しがつかなくなる。
あなたは、この村で結婚して子供をたくさん産んで、普通のひととして生きることもできるのよ。
「そのほうが、ジャンヌちゃんも、ジャンヌちゃんのママも、みんな幸せ。そのほうが絶対にいいのよ」
先生は黙って聞いていたが、わたしが言い終わるのを待って、「だけどジャンヌ・ダークの活躍がなければ、百年戦争は終わらなかった。フランスがなくなってしまったかもしれない」と、言った。
数学の先生でも、世界史の知識はあるみたいだ。
わたしと先生は無言でにらみ合っていた。
お互い、相反する考え方を持っている。つまり先生は、歴史の流れを変えるのは良くないと言っている。
「全ての事には神の意思が働いている。ジャンヌ・ダークの運命も、神の意志の結果であり、そのことを我々のものさしで測るのはどうだろう」
神の意志か。
先生は確かさっきも言った。すべての事には意味がある、と。
だから、ジャンヌちゃんがあんな死に方をするのも、ちゃんと意味があるということか。
わたしは押し黙って考えた。一生懸命考えた。
そうしている間に、時間はずいぶん過ぎたらしい。いつの間にか教会から流れてくる賛美歌はやんでおり、村人たちののんびりとした会話が聞こえていた。
今日の夕食の事とか。
どこそこの家で肉が手に入ったから、分けてもらおうとか。
だれそれの奥さんが、どうやらまた子供を身ごもったらしいとか。
たわいもない会話が遠くから細切れに届く。フランス語のはずだけど、きちんと意味が伝わる。
神様の意志。
先生の黒い目は鋭くて切り込んで来るようだった。
わたしは考えに考えた挙句、こう結論した。
「……納得できません、神様は不公平で理不尽です」
おかしいじゃないですか、どうしてジャンヌちゃんばっかりそんなひどい目に遭うんですか。同じ年頃の他の女の子は誰も、そんな運命は辿らないのに。
**
そうだ。
わたしはそれでいつも、立ち止まってきた。
世界はいつも不公平だ。学校もそうだ。
人気者のひとは、嘘をついても許される。誰かを笑いものにすることで自分の地位がゆるぎないものになる。
足蹴にされた弱者は、たとえ事実を訴えても、庇われたり守られたりすることはない。
湯田さんは、家庭環境に問題のあるひと。孤独なひとだから、尾ひれをつけた話を流して人の関心を買おうとする。ちょっとくらい嫌な思いをしたくらいで何だ、許してやれ――わたしは唇を噛みしめる。許せるはずがない。湯田さんはまだわたしに謝っていないし、仮に謝ってくれたとしても、許してやる気にはなれなかった。
それに、家庭環境の点なら、わたしにだってあるじゃないか。
そう言葉に出して言うと、胸がしめつけられるようだけど。
だけどやはり、わたしは、家庭の事で確かに苦しんでいるのだった。
ママの支配下から抜け出せずに今まで生きて来た。
優等生だった時はママは笑っていたけれど、牛のお尻になってしまった今、ママは今までのママじゃなくなった。
牢獄の中に入れられて、そこから永久に出してもらえないみたいな家庭環境。
それはちょうど、ジャンヌちゃんが閉じ込められた牢獄に重なった。なにを言っても聞いてはもらえない。最初から決めつけられている。
「そんな不公平な神様なんか、逆らってやります」
と、わたしは言った。
その時、視界の隅に、ひらっと赤いものがひるがえった。
見覚えのある色合いだったので、はっとする。振り向くと、ジャンヌちゃんが一人で歩いてくるところだった。
ジャンヌちゃん。
ずいぶん大きく、綺麗になった。
赤い古ぼけたスカートは、はしょっていた裾をぜんぶ引き出して長く揺れている。
木靴が霜の降りた道を踏み、さくさくと小気味よい音を立てていた。
純朴な黒い目は伏せ気味で、唇は軽く開かれている。
ジャンヌちゃんはミサから帰るところだろう。お祈りの世界から、まだ戻り切っていないみたいだ。
「絶対にジャンヌちゃんを引き留めて見せますから」
と、宣言すると、わたしは通り過ぎようとするジャンヌちゃんと並んで歩き、耳元に囁き始めたのだった。
「ジャンヌちゃん、シノンに行っては駄目。絶対に駄目だからね……」
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。(詩編)
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ザビエル先生の補習のある日、ドン・レミー村の白昼夢が訪れる。
町の図書館で幼いジャンヌちゃんに遭遇した日も、午後から補習だった。
ザビエル先生の授業を受けている間、どうしてあんなに頻回にジャンヌちゃんの世界に引き込まれたのか――おかげで追試に次ぐ追試でさんざんな夏休みになっているわけだけど――どうやら不思議が起きる時は、ザビエル先生が側にいることが多いみたいだ。
今回もそうだ。
(時空のリボンが現れて、それを握ったのは良いけれど)
あの、宙から舞い降りてきた一本の美しいリボン。
ジャンヌちゃんが生きた15世紀末期のフランスと、21世紀の日本を結ぶ時空のリボンだ。
わたしは、そのリボンが例の天使によって斬り捨てられたと思っていたのだけど、どうやら未だ繋がっていたらしい。その証拠に、今まさに、わたしたちは、ドン・レミー村の風景の中に立ち尽くしているのだった。
いきなり目の前の景色が変わった。のんびりとした農村の昼下がりといった風景だ。家畜の鳴き声もするし、どこからか賛美歌を歌う声も聞こえる。
足下がしゃくっと音を立てたので見てみると、驚いたことに霜柱が立っていた。
「冬らしい」
唐突なタイムスリップに心を乱されることなく、ザビエル先生が静かに言った。手をかざして上を見ている。
わたしも同じように空を見上げてみた。太陽が柔らかく照っているが、夏の眩しさがない。
周囲を見回すと、ああそうかと納得した。農家らしい小屋がいくつも建っていて、家屋を護るように木々が家々を囲んでいる。夏の間はさぞ見事な茂みだったろうと思われる樹木だが、今は寒々しい黒い枝を空に突き立てているばかりなのだった。
ぼんやり立っていると、家屋や木々が並ぶ間に伸びた小さな石ころ道を、背中にたきぎを背負ったおばさんが、むっつりとした顔で歩いてくるのが見えた。
こちらに向かって来る。わたしたちはどう映るだろうか、怪しまれるだろうか。身構えて近づいてくるおばさんを見ていたが、思いがけず、視線すら合わないまま、おばさんは目の前を通り過ぎていった。
すれ違う瞬間、強い体臭が香り、おばさんの肌の様子や、服の埃っぽさがよく判った。思わず退くと、先生にぶつかってしまった。
ひゃ。
変な声を上げてしまい、口をふさいだ。
ところが、目の前のおばさんはなんら反応しないまま、重たそうにたきぎを背負って、一歩一歩踏みしめるようにして歩いて行ってしまったのだった。
「見えていない」
と、先生は冷静に言った。
どうやらそうみたいだ。
「先生、驚かないの」
わたしの問いかけに、先生は淡々と、いや、びっくりするだろう普通、と、全くびっくりしていない様子で答えてくれた。
いつも補習の時に、数式の説明をするのと同じ調子だった。
「ここ、多分、15世紀のフランスのドン・レミー村ですよ」
わたしが言うと、僅かに眉をあげた。これは驚きと言うより、問いかけだろう。どうしておまえがそれを知っているのか、という疑問だ。
なんと説明すればよいものか迷った。なにしろわたしは白昼夢や、夢の中で、何度もここを訪れているのだ。
ジャンヌちゃんの小さい時、敵に襲撃されて理不尽を味わっているドン・レミーや、大きくなってゆく中、牧歌的で楽園のように穏やかで楽し気なドン・レミーをつぶさに見てきた。
間違いなくここはドン・レミーである。そしてわたしには、今立っている場所からどう歩いたらジャンヌちゃんのうちにたどり着くのか、教会に行けるのか、そんなことまで分かっているのだった。
「先生の授業を受けている間、何回もここに来ていたんです」
と、言うと、流石に先生は眉をひそめた。理解に苦しんでおられる。当然だろう。
「なんというか、わたし、ジャンヌ・ダークに同調と言うか、リンクしているというか。夏休みに入ってから、ずっとそんな感じだったんです」
さらに付け加えて反応を見た。
中二病と馬鹿にされるか、心を患っていると思われるか。
だけど先生は、すぐに淡々とした表情に戻り、またいつもの調子で言ったのだった。
「神が創りたもうた世界は不思議に満ちている。科学や計算、世の中にまかり通っている常識が全てではない」
まあ、こういうこともあるだろう。現に今、起きている。
(完全に受け入れている)
ザビエル先生の底知れなさを見た。
わたしですら、突然のタイムスリップに驚いていたというのに。
ぼそりと先生は言った。
「すべての出来事には神の意思が働いている。今ここに来たという事には、何らかの意味があるはずだ」
何らかの意味。
ぼうっと立ち尽くすばかりのわたしだったが、その時、一際高く、賛美歌の合唱が流れてきてはっとした。
ミサの最中なのだろう。これは、村の教会から聞こえてくるのに違いなかった。きっと、ジャンヌちゃんもいるのに違いない。
(わたしがここに来た意味。それは)
この夏、わたしはジャンヌちゃんの事を色々と考えた。
自分の置かれている状況と重ね合わせるようにして、ジャンヌちゃんの運命を何とか修正したいと願ってきたのだ。
時空の扉が開き、こちらとあちらを行き来できるらしいことが分かってから、その思いは強くなった。
ジャンヌちゃん。
純粋な黒い目の女の子。信じるもののために戦って名声を得て、そして転落して理不尽な死に方をした。
わたしはジャンヌちゃんの年老いたママが、ジャンヌちゃんの名誉回復のために声を枯らしているのを見た。
それはまるで――思い出すとまだ胸が痛む――駄目川君のママの涙みたいだった。
(あんなふうになっては、いけない)
こつん、こつん。監獄に響く陰鬱な足音。じゃらじゃらと纏う鉄の鎖。
毎晩恐ろしい目にあわされ、抵抗しては顔の痣が増えてゆく……。
「先生、わたしはジャンヌ・ダークの運命を変えたいです。もしここが、ジャンヌちゃんがシノンに旅立つ前のドン・レミーなのだとしたら、まだ間に合うと思うんです」
先生を見上げると、淡い冬の太陽の逆光になって、顔が一瞬、違う人のように見えた。
淡々とした目に蒼い光が宿り、顔の彫が深くなったような気がした。
なにかの面影が重なった。その「なにか」が、とんでもないものだったので、わたしは思わず先生の顔を凝視したのだった。
だけど先生がゆっくり体をゆすると、その幻影はあっけなく消えた。先生は先生であり、あいつ――あの、ジャンヌちゃんにまとわりつき、しつこく耳元でささやき続けていた天使――とは似ても似つかないのだった。
顔を凝視してしまっていたことに気づき、目のやり場に困った。
「間に合う。何に」
と、先生は宿題の答えを問いかけるような無頓着さで言った。
わたしは口ごもりながら「だから、ジャンヌちゃんがあんなひどい運命をたどる前に、この村で一生を送ることができるように、あの子を説得できるかなと」と言った。
説得する。
神の声――あの、天使のささやき――を聞いて、自分こそシノン城で不遇を味わっているシャルル王太子を救うラ・ピュセルだと信じ込んでしまっているジャンヌちゃんを。
どう説得するのか、と、先生が静かにきいた。
その声になんら感情は籠っておらず、もしかしたらわたしは、そこに漂う違和感に気づいていたのかもしれない。けれど、いや、そんなはずはない、先生はいつもこんな感じだと無意識に思い直していた。
「ジャンヌちゃんの耳元に、あの天使が――ああ、わたし、ジャンヌちゃんにお告げを囁く天使の姿を見たんです――いろいろ囁いたみたいに、わたしもジャンヌちゃんの側に行って、一生懸命話しかけてみます」
ジャンヌちゃん、シノンに行ったら最後、酷い運命が待ち受けているのよ。
王太子は確かに救われてシャルル7世になるかもしれないけれど、そのあとジャンヌちゃんは敵の捕虜になってしまう。だけど王様はジャンヌちゃんを助けようともしないで見殺しにするのよ。そうなったら、ジャンヌちゃんのママも悲しむ。
そっちに行っちゃ駄目。
その声を信じてしまったら、取り返しがつかなくなる。
あなたは、この村で結婚して子供をたくさん産んで、普通のひととして生きることもできるのよ。
「そのほうが、ジャンヌちゃんも、ジャンヌちゃんのママも、みんな幸せ。そのほうが絶対にいいのよ」
先生は黙って聞いていたが、わたしが言い終わるのを待って、「だけどジャンヌ・ダークの活躍がなければ、百年戦争は終わらなかった。フランスがなくなってしまったかもしれない」と、言った。
数学の先生でも、世界史の知識はあるみたいだ。
わたしと先生は無言でにらみ合っていた。
お互い、相反する考え方を持っている。つまり先生は、歴史の流れを変えるのは良くないと言っている。
「全ての事には神の意思が働いている。ジャンヌ・ダークの運命も、神の意志の結果であり、そのことを我々のものさしで測るのはどうだろう」
神の意志か。
先生は確かさっきも言った。すべての事には意味がある、と。
だから、ジャンヌちゃんがあんな死に方をするのも、ちゃんと意味があるということか。
わたしは押し黙って考えた。一生懸命考えた。
そうしている間に、時間はずいぶん過ぎたらしい。いつの間にか教会から流れてくる賛美歌はやんでおり、村人たちののんびりとした会話が聞こえていた。
今日の夕食の事とか。
どこそこの家で肉が手に入ったから、分けてもらおうとか。
だれそれの奥さんが、どうやらまた子供を身ごもったらしいとか。
たわいもない会話が遠くから細切れに届く。フランス語のはずだけど、きちんと意味が伝わる。
神様の意志。
先生の黒い目は鋭くて切り込んで来るようだった。
わたしは考えに考えた挙句、こう結論した。
「……納得できません、神様は不公平で理不尽です」
おかしいじゃないですか、どうしてジャンヌちゃんばっかりそんなひどい目に遭うんですか。同じ年頃の他の女の子は誰も、そんな運命は辿らないのに。
**
そうだ。
わたしはそれでいつも、立ち止まってきた。
世界はいつも不公平だ。学校もそうだ。
人気者のひとは、嘘をついても許される。誰かを笑いものにすることで自分の地位がゆるぎないものになる。
足蹴にされた弱者は、たとえ事実を訴えても、庇われたり守られたりすることはない。
湯田さんは、家庭環境に問題のあるひと。孤独なひとだから、尾ひれをつけた話を流して人の関心を買おうとする。ちょっとくらい嫌な思いをしたくらいで何だ、許してやれ――わたしは唇を噛みしめる。許せるはずがない。湯田さんはまだわたしに謝っていないし、仮に謝ってくれたとしても、許してやる気にはなれなかった。
それに、家庭環境の点なら、わたしにだってあるじゃないか。
そう言葉に出して言うと、胸がしめつけられるようだけど。
だけどやはり、わたしは、家庭の事で確かに苦しんでいるのだった。
ママの支配下から抜け出せずに今まで生きて来た。
優等生だった時はママは笑っていたけれど、牛のお尻になってしまった今、ママは今までのママじゃなくなった。
牢獄の中に入れられて、そこから永久に出してもらえないみたいな家庭環境。
それはちょうど、ジャンヌちゃんが閉じ込められた牢獄に重なった。なにを言っても聞いてはもらえない。最初から決めつけられている。
「そんな不公平な神様なんか、逆らってやります」
と、わたしは言った。
その時、視界の隅に、ひらっと赤いものがひるがえった。
見覚えのある色合いだったので、はっとする。振り向くと、ジャンヌちゃんが一人で歩いてくるところだった。
ジャンヌちゃん。
ずいぶん大きく、綺麗になった。
赤い古ぼけたスカートは、はしょっていた裾をぜんぶ引き出して長く揺れている。
木靴が霜の降りた道を踏み、さくさくと小気味よい音を立てていた。
純朴な黒い目は伏せ気味で、唇は軽く開かれている。
ジャンヌちゃんはミサから帰るところだろう。お祈りの世界から、まだ戻り切っていないみたいだ。
「絶対にジャンヌちゃんを引き留めて見せますから」
と、宣言すると、わたしは通り過ぎようとするジャンヌちゃんと並んで歩き、耳元に囁き始めたのだった。
「ジャンヌちゃん、シノンに行っては駄目。絶対に駄目だからね……」