その2 最後まで耐え忍ぶ者は救われる

文字数 3,776文字

 あなたがたは、わたしの名のゆえにすべての人に憎まれるだろう。だが、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。(マタイ福音書)

**

 ドン・レミーは、小さな狭い世界。
 わたしはここで育ち、いつか誰かの妻になり、子を持つことになるのだろう。
 男を敬い、女は家を守り、村から出ることなど考えもせず、その日のことだけを考えて生きてゆく。
 
 
 わたしは何を見ているのだろう。
 直接頭の中にねじ込んでくる、独り言のような思考。生真面目で頑固で――なぜかわたしはそんなふうに感じたのだけど――一片の濁りもなかった。
 その声は、例えるならガラスの塊に似ていた。先端が研ぎ澄まされたガラスの矢じり。曇りなく透明で、光を浴びるとあますところなく反射をし、鮮やかな色彩を放つ。
 プリズムのように美しいが、同時に危うかった。

**

 わたしはまだ高校生になりたてで、おまけに家と学校との往復を長年続けて来たおかげで、世間様の事なんかなにひとつ知らない。
 自分が籠の中にうずくまったまま飛び立てない鳥であること位、自覚している。クラスメートの女の子はどんどん外に出て、遊んで楽しいものを知って、この世界がどんなものなのかを目を輝かせて味わっているはずだ。
 だけど、わたしは違う。この生ぬるい綿布団の中、いつまでも目を閉じ体を丸めて、自分の殻の外側で時間が無情に過ぎてゆくのを感じるだけ。

 「神子ちゃんは、あんなお洋服は着ません」
 カラフルなミニスカート、おへそが出そうな華奢な上着。
 「神子ちゃんは、そんなところに遊びには行きません」
 放課後、みんながお喋りするカフェ。雑貨屋。ゲームセンター。

 「ママは、神子ちゃんが自慢なのよ」
 
 大好きなママ。
 ママはわたしを大事にしてくれるもの。小さなころからママはわたしの味方だった。誰某君から意地悪された、と言うと、本気で激怒して先生に問い合わせた位に。
 神子はお勉強ができて、品行方正で、ヘンな友達はいない。身に着けているものも、きちんとしたものばかり。
 ママに抱きしめられて、ママに頭をなでられて。ママが成績表を見て喜んでくれることが、わたしの喜びだった。
 
 高校に入って、周囲のレベルが自分より上だと知った瞬間、がらがらと何かが崩壊した。
 それまで安閑と巣の中で眠り続けていたことが、唐突に意味合いを変えた。その巣は決して安全で完璧なものではなくて、むしろ、一刻も早く破壊し、飛び出すべきものになった。
 (ああだけど、わたしはママを)
 
 「神子ちゃん……」
 学期末、成績表を見せた時のママの声と表情。
 わたしは巣に居づらくなった。けれど、そこから飛び出すことは滅相もないことだった。絶対にわたしはここから出てはならない。この中に留まり、こうなりなさい、こうあるべきという課題を突きつけられ、それに沿うようもがき続けなくてはならない。
 (生きてきて、こんなに息苦しくなったことがあっただろうか)
 高校一年の夏休み。補習と追試の日々。取り残された青春。たぶん、わたしはもう、みんながいとも簡単に手に入れているソレを掴むことはできないだろう。
 
 グドドン、グドドン。キシャアア。
 補習に行くための、夏休みの分の汽車の定期券。ママは黙ってお金を出してくれるけれど、決して安いものではない。分かってる。
 汽車に揺られながら、わたしは不意に気づく。

 (ずっと前からだった)
 巣の中が苦しかったのは。

 「次は―、××駅」
 鼻が詰まったような声のアナウンスが流れ、わたしは何となくカバンを膝に乗せた。降りなくては。

**

 「なんで戦うの」
 幼い彼女が無心に尋ねた時、たくましい父親も、優しい母親も、正確に答えることができなかった。
 辺境ドン・レミーには、当時のフランス王家をめぐる勢力図を説明できることができる人間など、誰一人いなかった。
 
 村人たちにとって、脈絡なく不意に襲撃してくる、わけのわからない相手こそ敵だった。それはブルゴーニュ公の兵士であり、なんらかの意味を持ってドン・レミーを襲うのであるが、当の村人たちにとって、そんな理由など知るはずもない。
 「奴らがきた」
 「また奴らが」
 敵襲。敵襲。
 がんがんと鍋の底を叩く音が村に響き渡ると、男も女も子供も皆、砦に閉じこもる。
 必死になった村人たちは、武装した兵士にも引けを取らなかった。
 実際、村の男たちはよく戦った。もちろん何人も命を落としたけれど、現にこうやって戦いを乗り越え生き延び、結婚して新たに子をもうけ、脈々と続いている。

 「神様が護って下さるわ。祈りなさい」
 母親は幼い彼女にそう言い、自分も熱心に祈り始める。暗く、むうっと空気が籠る砦の中では、女子供が身を寄せ合い、めいめい、独特の真剣さで神への祈りを始めていた。
 
 「フランス万歳」
 「フランス王太子万歳」
 
 砦の外では、耳を覆いたくなるような戦いの音が響いている。村は今、焼き尽くされようとしているのかもしれぬ。ぶすぶす、どしゃあ。これはどこかの建屋が燃え落ちた音。
 砦の中にまで、焦げ臭い異様な臭いが漂っていた。

 「神様はフランスの味方なの」
 「そうよ」
 「神様は王太子様の味方なの」
 「そうよ」
 「だから村も護って下さるの」
 「そうよ」

 そうよ。ジャンヌ。
 ……。

 頭の上に置かれた優しい手。荒れた母の手。
 そこでわたしは、目が覚めた。

**

 「補習中に寝るな」
 
 ザビエルの冷めた声が降ってくる。
 わたしは涎を垂らしていたのだった。我に返ると、目の前にザビエルの顔がある。わわっと叫んでのけぞると、椅子がぎしいと音を立てて後ろに倒れた。
 悪いことに後ろの席との間隔が広すぎた。わたしは無残に椅子ごと転倒するはめとなる。

 「黒板から振り向いたら、生徒が白目を剥いて涎を垂らしていた」
 俺の身にもなって欲しい。こっちも夏休みを返上して、この暑い中補習をしている。少しは真剣にやれ。

 淡々とした口調だが、目はマジだった。
 わたしは涎を拭いた。あまりにも数学に興味がなさ過ぎて白目をむいて寝てしまった。
 ごりごりと頭をかきむしる。未だ頭はぼうっとしていた。黒板に書かれた計算式を虚ろに眺めながら、わたしは未だ鼻の奥から消えない焦げ臭い臭いに悩まされる。

 (最近、妙な幻聴というか、幻想というか、白昼夢を見るのだけど)
 自分が一体、どこからその風景を見ているのかも判然としない。一人の女の子の心の中がダイレクトに伝わってくるのだが、中二病じゃあるまいし、一体どこの異世界を夢見ているのだろうと自分を訝る。

 ただ、妙にその女の子の心と自分が重なる気がした。
 (なんというか、あの、息詰まるような、逃げ場がないような、だけどここにいることが義務のような、でもそれは違う、みたいな……)

 ぼうっとしていたら、ぺたんと頭を軽くはたかれた。ああ、体罰だ。ザビエルがうちわでわたしの頭をはたいたのだった。
 
 「白昼夢を見るか、補習を受けるか。どっちかにしろ」
 
 どっちか。
 いやでも先生、この変な白昼夢はわたしの意思とは関係なく、勝手に入り込んで来るみたいなんすけど?

 言いたかったけれど飲み込んだ言葉。
 ザビエル先生はだけど、わたしの思いを見抜いたように半眼になった。猛禽類の目つきみたい。

 
 「その狭い世界の中で耐え忍び続ける」
 ふいに先生は言った。
 なぜかわたしの心臓は、どきんと高く跳ね上がった。なにか、奇妙なことが起こりつつある――ような気がした。

 「逃げても結局、生きているうちは世界からは逃げられない。そんなもんだ、世の中なんて」
 一体先生はなにを言っているんだろう。恐らくわたしのクラスにおける状況やら、成績やら、いろいろなことを総合して、わたしという人間を見抜いた末にそんなことを語っているんだ。
 逃げられない、だけど、そういうものだ。先生はそう突き放している。

 さあ補習に戻るぞ、今度こそ集中しろ。
 先生はまた黒板に向った。すらっと背の高い背中を向け、淡々として低い声で、先生は言ったのだった。

 「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」
 
 その言葉は意味が分からないなりに、なんとなくわたしの胸を熱くした。
 そしてどういうわけか、その言葉はわたしの胸を通り越し、今もまだ続く白昼夢の中の、理不尽な戦に抵抗する村の砦で神様に祈る小さな女の子の心にも、ぽとんと温かな希望を落としたのだった。


 天にまします われらの父よ
 願わくは御名をあがめさせたまえ
 御国をきたらせたまえ
 みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ
 われらの日用の糧を今日も与えたまえ
 われらに罪をおかすものを
 われらがゆるすごとく
 われらの罪をもゆるしたまえ
 われらを試みにあわせず
 悪より救い いだしたまえ
 国と力と栄えとは
 限りなくなんじのものなればなり


 「アーメン」
 女の子の小さな声が、授業を受けようと必死に目を開き続けるわたしの頭の片隅で、ほわんと響いた。
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