その2 わたしは汚れた唇の者

文字数 6,815文字

「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」
セラフィムが、わたしのところに飛んで来た。手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。セラフィムはわたしの口に火を触れさせ、言った。
「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」(イザヤ書)

**

 目を伏せ、黙々と家路を行くジャンヌちゃん。
 季節は冬、ジャンヌちゃんは赤い古ぼけたスカートの上に、固そうな生地のマントを羽織っていた。淡い太陽を受けて、霜の降りた足元に揺れる影が作られ、それが一歩ごとにまとわりつくように踊るのだった。

 (綺麗になったなあ)
 小さい頃のジャンヌちゃんの姿を知っているので、感慨深い。
 遠目で見ると、ただの地味で小柄な女の子なのだが、近くでまじまじと見ると、どうしてどうして、なかなかの美貌だ。

 田舎娘らしく、簡単にまとめた髪はおくれ毛が乱れてはみでていたし、唇は荒れていた。決して華奢なつくりではない。さぞ良い働きをするだろうと思われる、健康的な体をしている。
 ただ、全体から醸し出される、どこか静かな感じがジャンヌちゃんを神秘的に見せていた。まあ、今は黙々と目を伏せて歩いているから、なおさらそう見えるのかもしれないが。

 心の中で、教会で聞いた説法を繰り返して噛みしめているらしいジャンヌちゃん。
 こころなしか、その横顔は強い。微かに眉がひそめられ、伏せた目には光が宿っている。
 ぼそっと、ジャンヌちゃんは呟いた。

 「……行かなくてはならない」
 行かなくてはならない。シノンに。
 
 ざくざくと木靴は霜を踏む。
 なんとなくわたしは来た道を振り向いた。ジャンヌちゃんが歩いた後は、霜が踏み砕かれて濡れた黒い土が見えている。先生がぽつんと立って、空を見上げていた。
 (先生、追ってこないんだ……)

 この見知らぬ時代の見知らぬ土地で、よく一人ぼっちでおれるものだ。
 わたしなら、連れがどこかに歩いていくときは、自分も一緒についてゆくと思う。
 (ここで先生と離れ離れになって、また何かのタイミングでタイムスリップが起きたら、どちらかが置き去りになったりして)
 一瞬、強い不安が生じた。けれど、ザビエル先生はこちらを気にすることもなく、ただ空を見上げ、何かを考えている様子だ。
 まあいい、今はジャンヌちゃんの方が優先だ。なにしろ、15世紀のドン・レミーにタイムスリップできるなんて、そうそうないことだから。

 「ジャンヌちゃん、聞いて、ジャンヌちゃん」
 心の中で祈りながら歩き続けるジャンヌちゃんに近づき、自分も一緒に早足で歩きながら、わたしは耳元で語り掛けた。
 「あのね、シノンに行くことはないよ。シノンに行って、王太子に会って、そしたらどんどんジャンヌちゃんは戦いに繰り出して勝利してゆく。けれど、王太子は助けるに値しない人だから」
 どれだけ尽くしても心には届かない。最後には、ジャンヌちゃんを見捨てるんだよ、そのひとは!

 語った。
 
 ジャンヌちゃんはザクザクと歩く。
 細い道を行き、やがて角を曲がり、農家らしい家々が立ち並ぶ区域に入る。
 冬の寒々しい木々が陰気な影を落とし、薄い縞模様になった道を、ジャンヌちゃんはただ歩いた。

 聞こえているんだろうか。
 不意に不安になる。ジャンヌちゃんは何ら反応しない。目を伏せ、唇を噛みしめて、ただ歩くだけだ。

 「みんな無責任だから。フランス王太子万歳、ラ・ピュセル万歳とかいうけれど、まつりあげるだけまつりあげて、結局、自分たちのことしかできない。誰もジャンヌちゃんのことなんか助けてくれないし、なぁんにも返してくれないんだよ」
 ばかばかしくない?
 だからね、ジャンヌちゃんはここにいて、一生をこの村で過ごして、たくさん赤ちゃんを産んで、大事なママを悲しませたりしないであげて。
 ね、聞こえてる、ね、ジャンヌちゃん……。

 話しかけている内に、なぜか胸が熱くなってきた。
 なんだろうこの感じは。今にも泣いてしまいそうになる。
 
 ああそうか。
 冬の小道をジャンヌちゃんと歩きながら、わたしはやっと気づいた。

 まつりあげるだけまつりあげて、結局……。
 
 ジャンヌちゃんに語り掛けていると思ったけれど、実は自分自身に重ねて喋っているんだ、わたしは。
 ざくざくと霜を踏む足音が小気味よい。その音を聞きながら、わたしはそれでもひたすら、ジャンヌちゃんに思いをぶつけ続けていた。

**

 バカバカしいよ?
 人の期待に応えて自分を殺して必死になって頑張るでしょ、栄光は確かに手に入るかもしれないけれど、それはその時だけなの。
 転落って、けっこうあっけないんだよ。それに、ある日突然、思いもよらないところから足元をすくわれるの。
 ほら、自分は傲慢じゃないって思うじゃない?
 いやなひとだなって思うひと、いっぱいいるでしょ。ちょっと人気者だから鼻が天狗になったり、ちょっと顔が良いからって勘違いしたり。そういうひとたちって、自分の価値観に会わないひとを見下したり、いじめたりするのよね。
 分からないかもしれないなあジャンヌちゃんには。だってジャンヌちゃんは可愛いし、村でも気立てが良い子って、きっと人気だもの。
 
 そうそう、はなしがずれたね。
 人ってさ、勝手なんだよ。
 苦しいから助けてほしい、って思うじゃない。問題はそれを自分でどうにかしないで、なにかにすがろうとするのよね。
 で、すがった相手が助けてくれたら、そりゃ喜んで、やいのやいのとまつりあげるけれど、その後は最悪だよ?
 
 あのね、助けてもらって当然になるんだから。人って。
 そして、なんの感謝もなくなって、最後、その助けてくれたひとが力を失って、期待に応えられなくなったらもう終わりよ、ポイだから。
 それで、ああ、もう助けてもらえなくなった、なんて奴だろう、役立たず、期待外れって、さんざん面白おかしく言うのよ。
 なかには、そうじゃない、あのひとは一杯いいことをしてくれた、頑張ってくれた、自分を殺してさぞ苦しかっただろうって思ってくれるひともいるかもしれない。
 だけどね、そんなひと、どれだけいるか分からない。
 だいいち、そんな優しいひとって、表に出てこないから、ほんとにいるのかどうかすら分からないのよ。

 ね。
 全ては現実、見えているものなんだよ。
 見えないもののことなんか、何の救いにもならないの。
 
 ジャンヌちゃんは今見えているものを見て。
 そこにある、大事なものを見て。
 ね。

**

 えんえんと言葉が口から繰り出される。
 しまいには、愚痴みたいにどろどろと流れて来た。
 ジャンヌちゃんは目を伏せて歩き続けている。聞こえていないのかもしれないと思ったけれど、横顔が微かに反応したので、わたしは確信した。

 ちゃんと、届いている。
 姿は見えていないだろうけれど、わたしの声は、ちゃんとジャンヌちゃんに聞こえている。
 
 だけどどうしてだろう、ジャンヌちゃんは何も答えてくれない。ただ心の中で、シノンに行かなくては、早くしなくてはと急いている。同時に、今夜は残っているあの野菜をスープに入れよう等と、家事の事を考えている。
 なんの矛盾も疑問もなく、二つの相反することを、ジャンヌちゃんは同時に考えているのだった。

 家族のために働くことと。
 フランスのために働くことと。

 わたしは切なくなった。
 
**

 勉強するじゃない。そしたら、存外簡単で、誰よりも良い点が取れたりするわけ。
 そしたらママが喜ぶじゃない。神子ちゃんは自慢の子よって言ってくれるじゃない。そしたらわたしも嬉しいの。
 
 ママ大好き。ママが喜んでくれたらわたしも嬉しい。そう思ってた。
 だけどね、少し違うの。
 ママ大好きだけど、ママが喜んでくれたら嬉しいというより、ママが機嫌が良さそうにしていたら安心だって思ってることに、最近やっと気づいたの。

 いつからだったかな、ママの顔を見ながら、次はこうすればきっと喜んでもらえるって考えながら動くようになったのは。
 
 
 ジャンヌちゃんの事ではなくて、自分の事を語っていることに気づいた。
 けれど口は止まらず、歩き続けるジャンヌちゃんの耳元に、わたしはだらだらと愚痴を垂れ零していた。

 
 わたし自分が人と喋ったり、関わったりするのが得意じゃないって分かってた。
 多分、小さい時から知ってた。これはネックだなって、なんとなく不安に思ってたのよね。だって、クラスの子と遊んでも全然楽しくないし、話している内容も、一体なんのことを喋ってなにを楽しんでいるのかな、って、いつもついて行けなかったの。
 そういうのって、自然に伝わるじゃない。
 わたしは普通にぼっちだった。もうね、幼稚園の時からそうだったような気がするの。

 だけどね、何とかいじめられず、一見まともそうに生きてこられたのは、お勉強ができたからだと思う。
 なにせ優等生だったもの。テストは学年で十位以内。それ以下の番数なんか、取ったことなかったなあ。
 勉強ができるってのは、学校の中ではひとつのステイタスなわけ。
 美人な子、勝気ではきはきしたスポーツ万能な子、おしゃべりで楽しい子。そういう色々なキャラの中で、無口でとっつきにくくて何考えているかわからない優等生ってのは、十分に成り立った。
 
 いつの間にかね、勉強ができるっていうことが、わたしの隠れ蓑になってたの。

 だけどね、それが高校に入ってから唐突に取り去られた。
 周囲はもっと勉強ができる人だらけで、おまけに何の努力もなく、涼しい顔で難解な数式を理解して、英会話もペラペラなの。
 そして、おうちが豊かだったり、スポーツ万能だったり、容姿端麗だったりね。もちろんみんな、コミュニケーション能力も高くて。

 その中でわたしはね、完全に、なにもできない、頭の悪い、はなしもできない、おかしな人ってことになってしまったの。

**

 思い出す。
 いろいろな場面を。

 聖山神子は人と楽しく喋ることができない。
 聖山神子は自分がない。
 
 ママの言うとおりに勉強をしていれば、全てが上手くいっていた。
 だけど、勉強ができなくなったら、全てが駄目になってしまった。
 そしてママは鬼の顔をするようになり、わたしは怯えるようになった。

 「頑張って来たんだよ」
 クラスの子たちが町に買い物にいったり、誰かのうちでご飯をたべたり、楽しく遊んでいる間も、聖山神子は勉強部屋でドリルを復習していた。
 分からないところがあったら、ママがどこまでも付き合ってくれた――というより、理解することができるようになるまで、その問題から離れられなかった。

 山田君は時速10キロで歩きます。駅は家から25キロ離れたところにあります。電車の時間に間に合うには、何時に家を出れば良いでしょう。
 ……。

 「頑張って来た……」
 正直、自分の頭が良いと思ったことは無かった。
 実は地頭は誰よりも悪いと判っていた。
 それだからこそ、恐ろしくて勉強から離れることができなかった。ちょっと油断したら、あっという間に転落してしまう。常にその不安にさいなまれていた。

 一度、クラスのみんなから誘われたことがあった。
 お泊り会をしよう。みんなでお菓子を持ち寄ってさあ。男子の事とか、クラスの女子全員で喋ろう。
 
 秘密のパジャマパーティに誘われた。初めての事だった。
 参加してもうまく喋ることができないだろうし、なにより、今まで優等生の仮面の下に隠していた、コミュニケーション障害のことがばれてしまうのが怖かった。
 だけど、心の中ではやっぱり参加したかった。

 ママに聞いてみた。
 もちろん、ママはダメだと言った。
 わたしはそれを理由にして断った。
 結局、パジャマパーティに参加しなかったのは、わたしだけだったらしい。

 中学時代、まだ優等生面で来ていた頃の一幕。

 「けれどね、頑張って来たけれど、やっぱり化けの皮が外れてね。わたしはみすぼらしい本当の姿を、周囲にも、ママにもさらすことになってしまったの」
 
 聖山神子。
 学年最下位。

 お勉強が、分からない。
 
 せめて、コミュニケーション能力があって、みんなと多少なりとも楽しく話すことができたら。
 クラスに溶け込むことができていたら。
 実は、成績の良し悪しなんて、高校生活を楽しく過ごすことにほとんど関係がないってことに、気が付いた。
 
 楽しく生きてゆくのに必要なのは、もっと別の事だったのだ。
 それこそ、努力しても手の届かないもの。

 
 「できなくなったじゃない、そしたらね、今までちやほやしてくれたママが、手のひらを返した」
 話を聞いてくれなくなった。
 
 こんなに会話がかみ合わないなんて、まるで外国人と生活しているみたいだ。
 ママは自分の価値観にあわない部分をきっちりと斬り落とす。わたしは、ママを失望させた。

 そして、あのオゾマシイ噂事件が起きた。
 補習をしてくれている担任の先生と、おかしな関係になっていると。
 
 どんなに違うと説明しても、ママには伝わらなかった。
 家から出るな、ザビエル先生ではない先生に補習をしてもらうことにした等と、ママは言った。
 
 「牢獄に入れられるのよ。下手に期待されてそれに応えてしまったら」
 ジャンヌちゃんの耳に、わたしは囁いた。
 「いつまでも人からの期待に応えられるわけがないじゃない。カミサマがくれる力なんか、永遠じゃないんだもの。」

 ねえジャンヌちゃん。神様は助けてくれるかもしれないけれど、見捨てるのもあっという間だよ。
 わたしだって、最初からなにもできない、駄目な聖山神子で生きていたら、こんなことにはならなかったの。
 ジャンヌちゃん、ねえ、ねえったら、ジャンヌちゃん。

**

 ふいにジャンヌちゃんは足を止めた。
 目の前に気の扉がある。ぽたんぽたんと冷たそうな滴が軒から落ちていた。
 喋りながら歩いている間に、いつの間にか、ジャンヌちゃんの家にたどり着いていた。

 「ねえ、お願い聞いてよジャンヌちゃん……」

 その時わたしはむせび泣いていた。
 ジャンヌちゃんをシノンに生かせないよう説得するうちに、いつの間にか自分語りになっていた。
 だらだらと涙が出ていた。道中、わたしが語ったのは、自分の愚痴話だった。心底、みっともないと、嫌になった。
 
 ジャンヌちゃんに聞こえているのだとしたら、さぞうんざりしただろう。
 ごめんジャンヌちゃん。わたしに、あなたに語り掛ける資格はないのかもしれない。

 喋るだけ喋り、どんよりと暗くなった。
 扉に手をあて、今にも開いて入ってゆきそうにするジャンヌちゃんの背中を、途方に暮れた思いで眺めた。
 
 ジャンヌちゃん。
 ジャンヌちゃん。
 ……。


 「だけど、わたしは、シノンに行きたいの」

 えっ。
 思わず聞き返した。

 真っ黒い瞳で、ジャンヌちゃんは振り向いていた。
 こちらが見えていないのだろう、視線は空を向いていた。だけど、しっかりとジャンヌちゃんはわたしに反応し、答えてくれたのだった。

 「行かなくてはならない、というのは嘘なの。わたしが行きたいの」


 それだけ言うと、ジャンヌちゃんは家の中に入った。ただいま、今帰りました――家の中から、お帰り、寒かっただろうと声が聞こえる。

 「あんた教会にほんとによく行くね。あんたが出かけている間に、ジャックのとこのおふくろさんが来ていったよ」
 教会に行く暇があったら、嫁に行く支度でもしておくれよ。あんた、春にはジャックの嫁さんになるんだからね。はやくママを安心させておくれ。あんたならたくさん良い子を産めるよ。



 ごおおおん。
 ……。
 
 村の教会の鐘が鳴る。
 淡い光の太陽は、ぶあつい雲に隠れながら、ゆっくりと傾いていた。

 ぽたぽたと雨だれを落とす軒下で立ちながら、わたしは茫然と今聞こえたことを頭の中で反芻する。
 
 お嫁に行って、ママを安心させておくれ。
 (もしかしたらジャンヌちゃんは)

 
 もしかしたら、ジャンヌちゃんは、ここから逃げたかったのかもしれない。
 なんて、わたしは歴史上の聖女に対して、とても失礼なことを考えてしまったのだった。
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