第49話 卒業 7

文字数 2,980文字

 あの夜のことはなにもなかったように美登利は接した。勉強を終え美登利の肩に腕を回す。
「旅行しよう。キャンプしよう。風呂も入れない」
「行かない。もう卒業できるから」
「卒業したらもう僕は必要ない?」
「お礼はしてあるでしょ? お釣りがくるくらい」
「……」
「あなたは、いい人よ。お酒なんか飲まないで、いい人のままでいてくれればよかったのに」
「僕は本気だ。結婚も考えた」
 フン……美登利は鼻で笑った?
「さすが、ドリーはすごいわね。三沢英幸をその気にさせるなんて」
「ああ。君のためなら家も捨てる。大事にするよ。君のパパも。理想的だろ? 僕は?」
「圭のことばかり言うくせに。忘れたいのに」
「……言わないよ。もう言わない」
「あなたといると圭のこと忘れられない。セットでついてくるの」
「……」
「あなたのせいで、いやらしいことばかり考えてる。バスルームであなたがしたこと……快感だった。シャワー浴びるたび……」
 美登利は手首を見せた。新しい傷跡が生々しい。
「だから罰を与えたのよ」
 美登利は剃刀を出し脅した。
「私はママみたいになる。だから罰を」
 いきなりの展開に僕は言葉をなくした。
「私はアリサなの」
「アリサ?」
「狭き門、倫理で読まされたでしょ? アリサはジェロームとの愛を諦め神を選んだ」
「ジェロームはアリサを奪うべきだった」
「ママみたいになりたくない」
 振りかざされた剃刀。
「よせっ」
 血が飛んだ。
 奪った瞬間手のひらを傷つけた。美登利は僕が流した血には臆病だった。
 僕はもっとうろたえた。血圧が下がり心拍は上がる。
「血が怖いの?」
「夏生がガラスに突っ込んで血だらけだ。僕のせいだ。僕は必死でガラスをどけた。僕の手からも血が流れた」
「怖い思いをしたのね。かわいそうに」
 美登利はおじけずいた僕の手の傷を自分の唾液で消毒した。
「僕はもう君を助けられない」
「いい人ね。一生忘れないわ」
 美登利は僕の手を治療した。
「僕は消えるから、頼むからやめてくれ。もう傷つけないで。そばにいたいよ。君のそばに」
 美登利は小さくごめんと言った。
「一生結婚しない。パパのそばにいる。犬を飼おうと思うの。もう克服できたから」
 僕が未練がましく動かないでいると美登利はまた脅した。僕は恐ろしい場所から逃げるようにして出てきた。

 負けた。もう少しだったのに。原因もわからない。なぜなんだ? 
 圭。結局ダメだった。あんなに、あんなに愛してやったのに。美登利の気持ちがわからない。

 いや、おかしい。こんな別れなんて。こんな結末はおかしい……
 戻って……いや、戻れない。情けない。
 心配だ。美登利が心配なのにそばにいられない。どうすればいい?

✳︎

 母が死んだ。
 長い闘病生活だった。入退院の繰り返し。
 葬儀が終わると気が抜けた。数日眠れない日が続いた。風邪気味で薬も飲んでいた。心の中は空虚だ。がらんどう……

 1カ所だけ封印している場所がある。7年前の恋だ。封印してある。思い出すと辛いから。
 抑える。思うのを抑える。あんなに好きだった女、いや、まだ少女のままだった。深い悩みを抱えていた……
 力になると誓ったのに、あの少女の涙が一生を決定したと思ったのに、残酷に残酷に裏切ってしまった。
 どうすることもできなかった。謝ることも。2度と顔を合わせることはできなかった。

 衝撃……
 自損事故か、よかった。誰も巻き込んでいないならいい。
 死んでもいい。死んでもいい。あの女が呼んでいる。悲しい女だ。
 愛した少女の母親。愛した少女の憎んだ母親、あの女が呼んでいる。
「来てくれたのね、大きくなったわね、私に似てきたわね、ね、圭?」

「ママの恋人?」
「責めないで。もうすぐ死ぬのよ。今までこんなに親身になってくれた男はいなかった。手術しろって言うの。どうせ死ぬのよ。きれいまま死にたい」
「よろしくね、圭……さん。ママをよろしく」

 ドリー。許してくれ。幸せでいてくれ。おまえといた時間だけが幸せだった……


 屋上で女はタバコを吸っていた。特別室の女だ。
「なに? 悪い? それとも心配してくれるの?」
「別に」
「坊や、毎日きてるわね。おかあさん? 幸せね」
 圭は黙っていた。金のことで頭がいっぱいだ。
「ねえ、買い物頼まれてくれない? 頼める人、誰もいないのよ。天涯孤独なの」
 最初は雑誌やCDだった。多すぎる駄賃をくれた。
「取っておきなさい。どうせ死ぬのよ。使いきれないの」
 何度目かに、ある男を探してくれと頼まれた。
「初めての男。反対され見合いさせられ、駆け落ちしたけど連れ戻された。死ぬ前にどうしているか知りたい」 

 興信所に頼むだけで簡単だった。
 かつて駆け落ちした男には妻も子もいた。
「私が死んだら、伝えてくれない? お嬢さんが愛したのは1人だけだったと。あ、もしかしたら坊やを好きになるかも」

 女は金を貸してくれた。貸したのではない。先生に話をつけ母の手術の段取りをつけていた。圭は断れなかった。
「返すよ。必ず返す」
「無理よ。死ぬほうが早いから。その代わり付き合いなさい。遊びたいの。死ぬ前に」

 ボーリングをした。力のない女はうまかった。圭は初めてだった。女に教えられストライクをとった。
 酒を飲みにいきダンスを教わり歌を歌った。金のため……それだけではない。同情……それもある。だが、初めての男を生涯思い続けた女に感心した。
 その店で幸子に会った。言われたことが引っかかった。女が歌いにいったとき、
「うまいわね。プロ級ね。ねえ、ドリーに似てない? ドリーはどうなったの? あの巨乳のハスキーボイス。男子のセックスシンボル。寝たの? 圭君? あのサッカーに明け暮れていた少年は今は年上の女と、不潔」

 圭はもう1度女に聞いた? 身内はいないのか? 女は嘘がうまかった。平気で嘘をつく女なのだ。
 その夜、飲み慣れない酒とひどい疲労で女の部屋で眠ってしまった。
 美登利の夢を見た。圭の母親のことを自分のことのように心配して励ましてくれている。美登利がいるから夜学も卒業できた。辛い境遇も恨まずにすんだ。
 美登利が、美登利の声が圭を誘った。決して許さない唇、性的な行為は嫌った。ふれあうのは手と腕、頬、髪……美登利がしないことなのになぜ? 酔いが判断力を鈍らせた。
 愕然とした。女は、死を覚悟していた女は最後の男にすがりついた。


 圭は帽子を被りマスクとサングラスをしてドリーの部屋を見上げた。電気がついている。
 とてつもない悲しみを与えてしまった。美登利は心の病気になった。1年留年した。
 情報は母親が教えた。聞き出させた。母親を断ち切ることはできなかった。金を借りている。もうすぐ死んでいく女だ。憎んでいても美登利の母親だ。
 美登利に対しては、もうどうすることもできない。窓を見上げて、電気が消えるまで見守る。そんな日々が続いた。

 遠目で痩せすぎた美登利がやがて元気を取り戻した。下ばかり向いていた美登利が前を向くようになった。
 同じクラスの橘夏生と親しくなり、彼女の家で勉強しているという。夏生のそばにはあいつがいる。
 あいつが美登利を送ってきた。美登利の隣に三沢がいた。かつて圭の親友だった男。美登利に似た境遇の、すねていた男。美登利は笑っている。
 三沢が美登利を立ち直らせている。三沢なら安心だ。安心して任せられる……


 
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