第26話 社長と私 2

文字数 3,744文字

 先代の社長が危篤の時、病院へ行くと夫人と娘たちは泣いていた。あのひとは涙も見せず亡くなるとテキパキと後処理をした。しかし、私にはわかった。1番悲しんでいたのはあのひとだ。

 会社は順調だった。家庭も順風満帆……急用ができ久々に三沢邸を訪れた。夫婦は庭の椅子に座って……キスをしていた。美男美女。映画のようだった。息子が父親の膝に乗り真似をしてあのひとにキスをした。父親は息子の顔にキスをして舐めた。息子が嫌がると余計にペロペロ舐めた。幸せそうだった。社長が書類を取りに行った。
 あのひとの肌は光っていた。あのひとはおなかをさわった。ああ、銀河系宇宙との性交……待望の子を授かったのだな。なぜかピンときた。きっと女の子だ。あの人のように強い……
「夫と会う前は、卑屈で嫌な女だったのよ。笑わない女だった。恨んでた。自分の境遇、学歴。愛想笑いしかできなかった」
「まさか」
「この家の人たちも皆嫌いだった。夫は太陽なの。夫がいたから自分を好きになることができた。結婚を反対されて当然だった……ひどいことをしたわ」
 私は常々聞きたいと思っていたことを口に出した。
「その手の傷跡は社長と同じですね」
 あのひとは右の掌をみた。
「夫はバカなのよ。怒りに任せて外のゴミ袋を叩いたの。ガラスが入ってた。私は食肉工場で働いてたときに、肉の中に包丁がまぎれてた。つかんだの。袋詰めしてて……」
 どちらもゾッとして言葉が出ない。
「美人だから嫉妬されてた。慣れてるけどね。ヒヒッ」
 名状しがたいその微笑みの輝き……私もいろいろ読んだのだ。
 あのひとはまだ何か言いたそうだったが社長が戻った。

 幸せな家庭のはずだった。それが私があのひとを見た最後になった。

✳︎

 社長は数日休むと別人のようになっていた。魂が抜けた。あのひとは社長のすべてだった。
 あのひとが不倫? ありえないことだ。子を授かったのではなかったのか?
 なぜ? 1番幸せなときなのに。あのひとは会社の救世主だ。贅沢な生活でもなんだってできただろう。親戚もあのひとを敬う。
 いや、あのひとはそんなものは嫌いだった。あのひとが好きなのは苦労、逆境……
 あのひとは余命宣告された男の元へ、息子を置いて出て行った……いや、ありえない。信じない。

 社長は飲んで荒れた。私は毎日家まで送っていった。どうしてあんな男に……あの社長が未練がましく女々しかった。
「あいつが死ねば幸子は戻ってくる。死にかけてる男に同情しただけなんだ。おふくろがあんな男を家に入れるから……」
 男はかつて私が住んでいた会社の寮に越してきた。売られた寮は買い戻しアパートになっていた。社長の母親は音楽教師の独身の若い男に興味を持った。クラシック好きな彼女は男を気に入り、英幸(えいこう)君のピアノのレッスンを頼んだ。男はあのひとの妹とも親しくなった。社長は私と一緒にさせたかったらしいが……

 男はあのひとの妹と結婚すると思っていた。しかし破局。男はまた越して行った。数ヶ月後アパートの住人の娘が英幸君に話した。
「かずちゃん、死んじゃうんだって……かわいそう……」
 それを、英幸君はあのひとに話した……

 やがて社長は立ち直り再婚した。英幸君のためだろう。社長は乗り越えた。
 後妻の亜紀さんも魅力的な人だった。それよりも魅力的なのは内輪の宴で出会った彼女の従妹。社長は瑤子と私の仲を取り持った。ゴルフを教えコースに連れ出した。
 上手な夫妻と下手な私と瑤子。カートに乗らずに必死に走っていた瑤子……スコアを私が瞬時に計算すると、すごいっ、と大卒の女が褒めた。そんなことが嬉しかった……社長と、あのひとと会っていなければ、いまだに私は計算も苦手だった。
 休みのたびに私は三沢邸で瑤子に会った。英幸君はあのひとにますます似てきていた。私のことは覚えていなかった。瑤子がピアノを弾いた。英幸君が楽譜をめくった。英幸君は変わっていた。子供らしさが失われていた。あれほど無邪気で私に懐いていたのに……なにもかも変わったのだ。幸せだったのは幻か? それにもうすぐ妹が生まれる。

 瑤子には一方的な愛だった。幸せだと言っても、私も……とは返ってはこなかった。抱かれながら何を考えていた? 
 元々高嶺の花だったのだ。大卒の地方の1人娘。瑤子は学歴コンプレックスの私を笑い、自信をつけさせた。
「三島さんのが頭いいわよ。なんでも知ってる。英輔さんの片腕だもの」
 だから瑤子の両親も賛成したのだ。私の母は大卒ばかりの瑤子の親戚に気後れしていた。学歴はついて回る。会社が大きくなればなるほど。まわりは大卒ばかりになっていく……片腕はあのひとだった……

 逆になった。私は酒を飲み荒れ、社長が慰め謝り送ってきた。バカなことするなよ……
 バカな社長の話を聞いた。酔って息子に暴力を……社長が英幸君に暴力を? ありえない!
「英幸が幸子に話したせいだ。だから酔うと殴った。おまえのせいだと。寝ているのを起こして殴った。
 犬が吠えて俺の手を噛んだ。俺は犬を投げた。おふくろが止めた。おふくろが別れさせた。おふくろまで突き飛ばした。英幸はおふくろと犬を守った。責める目が幸子にそっくりだった。
 寝顔を見て謝っても同じことの繰り返し。
 犬が……死んだ。あの子はそれまでは気丈にしていた。犬に死なれてあの子は絶望した。俺は酔って亜紀の動物病院へ行った。亜紀は俺に水をかけた。酒の匂いのした俺をホースで容赦なく……
 子供と犬を虐待するなんて、最低の大バカやろうだと。あの子は返さない。酒を止めるまで絶対に返さない。
 俺は土下座して謝った。亜紀は呆れた。呆れて軽蔑して同情した。
 あの1ヶ月を悔いた。悔やんでも悔やみきれない。息子は笑わなくなった。無邪気だった俺の息子が笑わなくなった。俺の前では笑わない。笑う顔は母親にそっくりだと俺が殴ったから……
 亜紀と出会えたことは幸せだった。2度と愛する女は現れない。そう思っていた。容赦なく水をかけられたあの夜に、絶望の淵で光を見た。俺は土下座した。土下座なんてしたことがあっただろうか? ああ、あったな。幸子に土下座して東京に戻ってもらった。戻らなければ、親を見捨てていたら、幸子はまだ俺のそばにいたのだろうか?
 皆が誤解している。再婚したのは息子のためだと。母も息子も君も。違うんだ。亜紀は必要だった。俺が生きていくために。亜紀は怒るだろうが、幸子と重なる。心根が似ていた。芯が通っている。強い女だ。たくましい女だ。ふたりは知り合いだった。亜紀は桃太郎の獣医だった。

 最初亜紀は俺を軽蔑し同情した。亜紀は心配して息子の顔を見にきた。勉強を教えにきた。俺は茶を入れもてなした。リビングにふたりきり」

 想像する。三沢邸のリビングルームに、社長と亜紀さんが……
「お酒は飲んでないようね」
「はい。仰せのとおりに」
「おいしい。私なんかティーバックだから」
 社長は紅茶の話をする。どうでもいい話だが……
「結婚しないのか?」
「ほしいのは奥さんね。身の回りのことやってくれる奥さんが欲しいわ」
「……俺でよければ……」
 それは冗談だった。亜紀さんには最低の男と思われていた筈だ。十歳も年上の、妻に逃げられた子持ちの情けない男。
「家事は苦手。獣医は続ける。自分のことは自分でやるのよ。期待しないで。料理とか……パンまで焼けって言いそうだわ。掃除も苦手。私の部屋を見たらその気も失せる。呆れるから」
「嘘だろ?」
「本当よ」
「本当に結婚してくれるのか? 後妻だぞ。子持ちのババア付きだ」

「亜紀と英幸は仲よくなった。俺は入っていけない。俺は息子に亜紀をプレゼントした。ひどい父親にできた最高の贈り物だ。幸子も、このために……亜紀を息子の母親にするために出ていったのではないか? そう思うほどふたりは強い絆で結ばれた。
 彩が生まれると、息子は父親代わりだ。風呂に入れミルクを飲ませる。亜紀はうまく息子を育てた」

 社長は、時間が解決すると言いたかったのだろう。

 先代の社長夫人が亡くなった。脳腫瘍だった。孫の誕生を喜び夫人は逝った。
「もしかしたら、不倫はおふくろの妄想ではなかったのか、と考えてしまうんだ。バカだな、幸子は毎日島崎の面会に行ってた。島崎と暮らしている。島崎の子供を身篭っているのに……」
 社長は泣いていた。自分の不甲斐なさを。
「あのひとは社長を太陽だと言ってました。社長がいたから自分を好きになることができたと……」

 知人の紹介で結婚した。会社は工場を増やし私は工場長になった。詫びのつもりか? 瑤子の裏切りの……


 あのひとの兄から電話がきた。あのひとが危篤。英幸君の名を呼んでいると……ちょうど私とふたりだけのときだった。社長はすぐに動いた。私に仕事を任せ英幸君を連れ前妻に会いに行った。
 34歳の若さであのひとは亡くなった。あのひとは海で溺れている子供を助けて死んだ。あのひとらしい。なにより愛した故郷の海があのひとを殺した。
 あのひとは大株主だった。業績はずっといいから配当金もいい。あのひとに毎年振り込まれた配当金は、男が亡くなってからは手付かずのままだった。あのひとが節約して貯めた金は男の手術代と治療費だけに使われた。

 
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み