第64話 ジーさん

文字数 4,537文字

 暑い日差しが朝から照りつける。今日も熱中症注意報だ。アパートのゴミ置き場で空き缶を集めていると、住人が声をかけた。
「暑いから気をつけなよ。じいさん」
 耳が聞こえないふりをする。今ではとがめられることもなくなった。これができなければ収入が途絶えるのだ。
 自転車に掛けられるだけのビニール袋に空き缶を集める。道行く人は、軽蔑と哀れみの表情をする。以前は自分もそうだった。
 自転車を漕いで40分、空き缶引き換え場まで日に何度も往復する。日に焼けた顔は余計老けて見える。まだ60になったばかりなのだが、70には見られるだろう。痩せているが、力も体力もある。粗食だから風邪もひかない。抵抗力もある。なによりもストレスがない。血圧が正常値に。尿路結石も十二指腸潰瘍もない。あの頃とは大違いだ。

 妻と息子にストレスをぶつけられなくなると、次郎の体は悲鳴を上げた。十二指腸潰瘍でトイレの前でのたうち回った。妻も息子も冷ややかな目で見ていた。死ねばいい……
「救急車呼びます?」
「いい。みっともない。タクシー呼んでくれ」
 息子を留守番させて妻は付いてきた。支えてくれた。心の中では死ねばいい、と思っていたに違いない。死ねば、家のローンは免除だ。高額の保険にも入っている。母子が困ることはない。死んでやればよかった。
 尿路結石で苦しんだときも冷ややかだった。ついてさえこなかった。

 すべてをなくした。妻も息子も家も。残ったのは仕事だけだった。家庭を崩壊するに至った仕事だけ。養育費のために働いた。できることはそれだけだった。息子が大学を卒業するまでは死んでも働かねば。死ねば保険金でまかなえるが。すべて自分が悪いのだ。妻と子供をひどく傷つけた。あのまま終わらなければ、息子に殺されていたかもしれない。2度と会うことはない。会ってはくれまい。

 エアコンが壊れた。修理はこない。窓と玄関を開け放して扇風機をかけて寝る。暑い。鍛えているはずの肉体が根を上げる。このままだと、朝には死んでいるかもしれない。それもいいか。開け放しだ。誰か、のぞいてくれるだろう。死後の事は契約してある。金は余るはずだ。息子は受け取るだろう。せめてもの償いだ。それも拒否されれば寄付される。

 朝は来た。残念ながら朝は来た。早く行かねば遅れを取る。すぐそばにできた新築のマンション。空き缶を集めていると視線を感じた。文句を言われても聞こえないふりをする。しかし、見つめているのは杖を付いた若い女だった。25歳位だろうか? 麦わら帽子を持っている。それを差し出した。
「帽子被らないと危ないわ」
 くれるというのか? 汚いオレに? 次郎は聞こえないふりをした。
「いらないなら捨てるわ。使わないから」
「いらないならもらうよ」
「やっぱり、聞こえているんじゃない」
 足が悪くなければ無視しただろう。明るい娘だ。骨でも折ったのか?
「ありがとうよ」
 礼を言って被った。風に飛ばされないようにゴムも付けてあった。
「気をつけてね。おじさん」
 おじさん……おじいさんだろう。

 足の悪い娘にはよく会った。よく会うはずだ。次郎は日に何度も近辺をうろついて空き缶を集めているのだから。娘はそのたび声をかけてきた。時々はビニールに入った空き缶を寄越した。ただの骨折ではないらしい。生まれつきか? それとも……
「あんたが飲むのか?」
 発泡酒と酎ハイの空き缶がたくさん。
「主人はビール。私は飲めないから私の分まで」
「……?」
「妊娠してるの」
「……それは、おめでとう」
「気をつけてね。おじさん」
「じーさんでいいよ」

 次郎は息子が傷つけた少女のことを考えた。忘れたことはない。夏の日、母親は娘の手を引き乗り込んできた。あの時に、間違いに気づいていればまだ間に合っただろう。息子は嘘をつくしかなかった。金を取った、なんて父親に知られたら半殺しの目に遭わされただろう。
 自分のせいなのだ。息子があの少女を怪我させたのは。取り返しのつかないことになった。家を売り、できる限りの賠償をした。
 その後、妻と息子は出て行った。それきり会っていない。会社だけは辞めるわけにはいかなかった。息子が大学を卒業し、早期退職者を募集したときに、すぐに決めた。条件は良かった。3年分の給料7割りに退職金。
 辞めて暇だからバイトをした。いろいろとした。人と関わりたくなかった。学歴を自慢していた、有名企業に勤める外面の良い男は転落した……
 しかし、転落は苦ではなかった。むしろ、楽しかった。自由だ、ストレスがない。困らないだけの金はある。使いはしないが。

 妊婦が気になった。次郎は待つようになった。
「つわりはないのか?」
「少しね」
「旦那は優しくしてくれるか? つわりは病気じゃない、とか言わないか?」
「優しいわよ。いい旦那。いい父親になるわ」 

 次郎は思い出した。妻のつわりがひどくて食事の支度ができない……次郎は自分でラーメンを作った。
 3度までは我慢した。キッチンに溜まっていた洗い物をした。次郎は几帳面だ。鍋の汚れが我慢できない。磨き出した。なぜ、普段からきれいにしておかないんだ……鍋を叩いた。
 妻は2度と夫をキッチンに立たせることはなかった。やればできるんじゃないか。甘えていただけだ。そう言って妊娠中の妻を怒鳴った。
 膀胱炎になったときも漢方薬しか出してもらえず、妻は辛かった……それを……思い出したくない。3日ゴロゴロしていた妻を怒鳴った。掃除しろと。ひどい夫だった。妻は恨んだだろう。一生忘れないはずだ。子供がいなかったら、帰る実家があったなら、生活力があったなら、とっくに妻は出て行った。出て行く準備をしていたのだ。間に合わなかった。

「気をつけてね。ジーさん」

 足の悪い妊婦は次郎を見かけると声をかけた。
「ジーさん」
 せめて、おじいさんと呼んでくれ。
 じーさんではない? まるでアルファベットのGだ。Gさんと呼ばれている? 郡司のG。まさか。

 妊婦はゴミ出しの日は毎朝出てきた。次郎は待つようになった。土曜日は旦那と出てくる。手を振り見送る。仲が良さそうだ。
「土曜日なのに仕事なのか?」
「忙しいから」
「いいことだ」

 忙し過ぎた。忙し過ぎて心をなくした。





 無事に子供が産まれたようだ。里帰りはしないと言っていた。母親が手伝いに来ると。父親は幼い時に亡くなった。自分の母親なら甘えられるだろう。

 次郎の母親は手伝いに来ても文句ばかりだった。空気が冷えていくのがわかった。妻は感謝もしない……文句を言う母に交通費と小遣いを渡して帰らせた。その夜、喧嘩した。田舎から出てきた母に渡した金が多すぎる、と。来てもらわなければよかった。朝早く起きて、茶が飲みたいって起こされた。ほとんど寝てないのに……余計に大変だった。
 思わず怒鳴った。産後の妻を。妻も限界だったのだろう。何か言い返した。手を挙げていた。産後の妻を殴った。1度ではない。平手だが4回以上。怒りに任せて。妻は倒れ、ハーフパンツの足に噛み付いた。肉がちぎれるかと思った。
 噛まれたあとを確認した。妻は子供を置いて出ていった。産後2週間も経っていない。次郎はすぐに追いかけ、謝るべきだったのだ。妻に行くところはない。子供を残して戻らないわけがないと、たかをくくっていた。
 息子が泣き出した。それからは大変だった。慣れない手つきでオムツをはずしたら、ちょうど出ているところで手と服を濡らした。なんとか着替えさせたが泣き止まない。ミルクの作り方を読んで作った。時間がかかった。その間息子はずっと泣いていた。
 ようやく飲み終え、寝かせようとしたら吐いた。勢いよく。驚いて怖くなった。育児書を読んだ。げっぷさせなかったからか? 心配はなさそうだ。シーツを変え、もう1度着替えさせた。

 洗濯機を回そうと、もたもたしていたところに妻が帰って来た。買い物をしていた。妻は黙って手を洗うと息子の世話をした。次郎は黙っていた。口を開いて再び怒らせると面倒だ。

 
 母親になった女は2週間もするとゴミ出しに来た。元気そうで安心した。他人を気にかけることなど、なかったことだ。妻や息子のことさえ気にかけなかった。
「ジーさん、変わりない?」
 気にかけられることもなかった。
「無事、生まれたか? どっちだ? 名前は?」
「男の子、健康の健」
「健坊か」

 少しすると、母親は健坊を抱きゴミ出しに来た。杖を付いて。少しずつ外気に慣らしていく。次郎はおもわず頬に触った。母親はとがめなかった。
「かわいいなあ。いろんな顔をするんだな」
「1日中見てても飽きない」
「夜泣きしないか? 旦那にうるさいとか言われないか?」
「オムツ変えてくれるわ。ミルクも作ってくれる」
母乳は? とは聞けなかった。妻と母はそのことで険悪になった。頑張って母乳飲ませなさいよ……妻も頑張っていてのだ。ストレスで出なくなった。
 夜泣きがひどかった。仕事に差し障る。大声を出した。妻は寒い夜中に息子をおぶって外に出た。泣き止んで眠るまで外を歩いていた。

 次郎は健坊の成長を見守った。息子のことを考えた。息子は結婚はしないだろう。いや、すでに結婚して、自分のようになっているのではないか? 暴力を振るい悲惨な家庭を……そして妻に言われているのでは? 嫌ってた父親と同じことをしている、と。

 健坊の成長は次郎の生き甲斐になった。健坊は早起きだ。いつもゴミ出しを手伝った。次郎は買ってきたおもちゃをプレゼントした。消防自動車が好きだと言っていた。毎日歩いて消防署まで見に行くのだと。健坊は喜んだ。
「こんな汚いじーさんにもらったら、怒られないか?」
「汚くなんかないですよ。健はおばあちゃんはふたりいるけど、おじいちゃんはいないから。おじいちゃん代わりです」
 涙が出そうになった。孫どころか、息子に見限られた身だ。自転車を押して3人で消防車を見に行った。コンビニで菓子を買ってやる。健坊は時間をかけて選んでいた。ひとつだけ、と決められているらしい。かわいかった。この子のためならいくつだって買ってやりたい。なんだってしてやりたい。

 こんな小さな息子にも当たった。怒って泣かせ、次の日にはおもちゃを買って帰った。ひどい父親だった。懐くわけがない。

 季節が何度か巡った。母親は行事があると健坊の写真を見せた。幼稚園入園、遠足、運動会、七五三……

 小学校に入る前だ。
「引っ越しするの。家を買ったの」
 ついにきた。もう、このマンションは手狭になった。
「そうか、寂しくなるな。旦那さん、頑張ったな」
「近くだから、3丁目の建て売りだから、寄ってね、缶貯めておくから。健に会いに来て」
「あそこの建て売りか? よかった。また会えるな。健坊」
「会いに来てね。おじいちゃん」
「ああ、行くよ」
「1番奥の家よ。いずれ、夫の親に来てもらうから」
「うまくやってるんだな。ところで苗字は?」
「キクチだよ」
 健が教えた。
「菊池?」
 妻の旧姓だがよくある姓だ。
「ママの名前はきくちまき」
「えらいな。健坊。迷子になっても言えるな」
「パパの名前はきくちやすし」
「やすし……」
「僕の名前はきくちけん、だよ。おじいちゃん」


     (了)
 

  
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