第63話 タチの悪い恋 続き

文字数 3,572文字

 記憶はつぎつぎに蘇る。

「やっぱり大学出た人は違うわね」
 母は父に話していた。
「こんな近くに住んでて知らなかったの? 動物病院の亜紀先生を?」

 母は亜紀を知っていた。毎年犬に注射を受けさせに行っていた。

 祖母が飼っていたヨークシャーテリア、祖母は長い毛をカットさせなかった。祖父の介護が大変なときに、母は犬の手入れまでしていた。 

「あなたはしみったれすぎるわ」
 景気が良くなると祖母は贅沢になった。
 その犬が脳腫瘍になった。嘔吐しソファーにも飛び乗れなくなった。
 母は犬を大先生の動物病院に連れていった。遠くの病院まで検査に付き添ってくれたのが娘の亜紀だった。
 ふたりは同じ年だった。亜紀は父を知っていた。町内では誰もが憧れた存在だった。


 大先生はもうすぐ80歳になるが当時のことは覚えていた。
 母から動物病院に電話がきた。頼まれた亜紀は桃太郎の往診に来た。
「薬飲ませている?」
 僕はうなずいた。もう、桃太郎を守れるのは僕だけだ。
 亜紀は僕の目の上のアザに気づいた。僕は自分で転んだ、と父を庇った。亜紀にはお見通しだったろうが。亜紀は祖母と話していた。

 この家に亜紀が出入りするようになった。亜紀は僕の心配だけでなく父と祖母の心配もした。
 亜紀はこの家に必要な人間になった。
 
 母は誰になにを言われようが、感情をなくす訓練はできていた。母は潔白だった。しかし、祖母の嫉妬はひどくなっていった。自分がいれば余計に……
 父に本当のことは言えない。母親が若い男に夢中になり、嫁に嫉妬しているなどとは言えなかった。
 しかし、母の誤算だ。父は弱くて情けない男だった。

 
 祖母は母がいなくなると穏やかな祖母に戻った。家政婦を雇い家の中を仕切った。
 自分が1番の祖母の、1番大事な息子を奪っていったのは母だった。祖父は母を褒め祖母を非難した。あのダイヤを祖母にではなく母に与えた。 
 皆、母を褒めた。よくできた嫁だと。容姿も褒めた。化粧しなくても飾らなくてもきれいな人だと。

 島崎のことが決定的だった。祖母の最後の恋を母は奪った。息子を奪っていった女がまた……
 祖母は母が憎くてたまらなかった。

 亜紀は嫁いでも仕事を続け、家のことは祖母に任せた。祖母に逆らわず祖母に従順に。
 亜紀の肌は日に焼けていた。色白ではない。それだけで祖母は安心した。
 

 祖母は明け方、救急車で運ばれた。桃太郎と同じ病気だった。
 親戚が皆見守る中で祖母は息子を捜した。唯一自分より大事な息子……
 父はそばにいたのに祖母は捜した。
 亜紀が僕の手を引っ張りあなたの手を握らせた。あなたは僕を父と間違えた。母そっくりの顔を……そして逝った。
 いや、あなたが捜したのは母だったのか? 謝ろうとしたのではないのか? あなたは母にしたことを覚えていたのか、忘れたのか?

 亡くなったとき、父は謝っていた。寿命を縮めたのは自分のせいだと。
 
 故郷の海が母を癒した。母は父が来るのを待っていたのではないか? 
 いや、思い込みだ。そうであって欲しい……


 亜紀は母が戻ってくることを望んだ。
 英輔さんに迎えに行かせようか? おかあさんは……

 祖母は病気だったのではないか? 桃太郎と同じ……
 嫉妬と妄想であれほど人格が変わるだろうか?

 亜紀はすぐに気がついた。母は気が付かなかった。桃太郎をみていながら。
 そもそも原因は母だったのでは? すべてを母に奪われていくストレス……

 母は大変なときに逃げ出した。強い母が逃げ出した。祖母の病気を見逃した。初期症状はあったはずだ。頭痛に嘔吐。
 辛かったはずだ。それを見逃しあの悲劇が起きるまで気が付かなかった。それでもわからなかった。
 母は自分を責めただろう。自分が原因なのに……

 今さら祖母のそばにはいられない。真実を知れば父は苦しむだろう。この家に祖母とは暮らせない。
 祖母から息子を再び奪うことはできなかった。かわいがっている孫も……

 亜紀の気持ちはわかっていた。なぜ三沢家のために親身になり尽くしてくれるのか。母にはわかっていたのだ。
 この家には戻れない。

 母が愛したのは故郷だけ。母は金持ちが嫌いだった。金に媚びなかった。金に媚びるのを嫌っていた。 
 僕も父もこの家も、もう母が愛する価値はなくなったのか?

 待っていた男はついに来なかった。代わりに島崎が来た。自分が原因で離婚させられた女に会いに。
 死ぬ前にもう1度会いたかったのだろう。母は自分をずっと慕っている、死にいく男を放っておけなかった……
 母にも好意はあったのだろう。音楽好きなふたりだ。愛はひとつではない。

「島崎と暮らしているの」

 そんなようなことを母は亜紀に言ったのではないか? 父は亜紀と再婚した。 


 母の汚名を返上してやりたい。
 しかし、母は望まないだろう。あの弱い元夫は耐えられない……
 母は父の子を祖母に殺されたのだ。
 さすがの母も辛かったろう……


「かあさんか?」
 パパは疑っていた? 
 僕に聞いた。階段の上で。
 僕が見ていたと思っているのか? 

 祖母は階段の上にいた。腰を痛めていたのに。見ていたのは桃太郎だけだった。

 疑い、確信したときには妹の彩がいた。

 パパとママの子はもうひとりいたんだよ。

 僕たちが強かったら……
 

 母は田舎に行くとずっと海を見ていた。
 東京に戻る日はため息をついた。
 母が愛したのは故郷の海だけ。


 ママ、僕を残して……大丈夫だったの? 心配じゃなかったの?

「弱い子は嫌いです」

 母は僕より幼い頃に父親を亡くした。


 今となってはわからない。
 都合のいい思い込みだ。
 僕の願望だ。僕は母に捨てられたのではないと思いたい。
 なにが真実でなにが嘘なのか? 
 
 裏切られたのは母のほうだ。
 父は再婚した。僕は亜紀に懐いた。
 捨てられたのはママのほうだ。僕はママを憎み亜紀を慕った。
 
 亡霊が庭をさまよっている。窓を叩く。
 ママが怒る。亜紀をおかあさんと呼ぶと……
 
 ママ、パパは愛してたよ。狂うほどママを愛していた。
 僕のせいだ。僕のために再婚したんだ。僕が弱かったから。
 治だったら、パパの力になってママを迎えに行ってた……
 
 さすがの亜紀もこの真実には気づかなかった。 
 いや、亜紀は気づいただろうか? 
 不倫が祖母の妄想だと。死んだのが父の子だと。
 

「……どうして、……愛は永遠じゃないの? ひとつじゃダメなんだ? ひどいよ。ママは。こんなに愛したパパを裏切るなんて」
「……裏切ったのはパパのほうかも。再婚したパパのほうかも……」
「そんな……バカなこと」
「なんとなく、そう思うことがある……あなたも?」
「絶対違う」

「あの人が死んだときホッとした。あの人は島崎が死ぬと待っていたのよ。パパと暮らしてた故郷の部屋で。パパが帰るのを待っていた。
 いつパパが私と彩を捨てて、出ていくんじゃないかとびくびくしてた。
 会社は三島に譲って、なにもかも捨てて……
 あなたは渡さないわよ。あなたは私が育てた私の息子……
 パパが弱いからダメなのよ。離婚なんかしないで待っていれば幸子さんは帰ってきた。私と再婚なんかしなければ、今この家にいるのはあなたのママだったのよ」

 亜紀はずっと罪悪感を感じている。自分さえいなかったら……と。

 亜紀、僕はあなたの息子だよ。

 不思議だ。愛し合っていたと思いたい。母は島崎を愛した……そう思いたい……

 治、治は気が付いていた? 
 祖母の嫉妬、島崎の思慕……
 母は褒めていた。治は人の気持ちがわかる子だと。

 僕は大人たちにおだてられていた。坊ちゃん、坊ちゃんと。
 祖母は僕の言うことを聞くから。

 若い店員が僕の機嫌を取った。祖母に高価な宝石を買わせるために。
 僕は母の大嫌いな人種になっていた。
 僕は治にも尊大になっていた。
「友達なくすぞ。ママが見てるぞ」
 治が教えた。恥ずかしかった。

 ママ、僕は恥ずかしさのために死にそうです。
 ママ、ごめんなさい。治みたいになるから治みたいにひとの気持ちがわかる子に……

「治ちゃんががママの子ならよかった? 僕も人の気持ちがわかる子になるよ」
 ママは両手を広げた。
「弟と妹どっちが欲しい?」


 僕のせいだ。僕が祖母に喋った。
「僕、おにいちゃんになるんだ」
 すべての不幸は僕が原因だった。母が階段から落ちたのはすぐあとだ。


 風が窓を叩いた。絶望か希望か?
「弱い子は嫌いです」

 強くなるよ。強くなりたいけど……
 窓が震えている。
「英幸、ごめんね……」
 ママの言葉が聞こえた。

 
 ママ、もうすぐ孫が生まれるんだよ。


 おばあちゃん、あなたは病気だった。そう思うよ。僕には優しかった。
 僕を愛してくれたね。あなただけだった。僕はパパにそっくりだと……

 彩のいい兄貴になるからね。あなたのひ孫が生まれます。 



  (了)

 
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