第23話 私の娘

文字数 4,968文字

 テニス部のOB会でおまえが結婚したことを聞かされた。別れた翌年だ。
 おまえが別れ際に言ったことは嘘だと思っていた。冷静に考えてみればわかったはずだ。二股をかけるような女ではない。
 家庭教師をしていた少女のために、おまえのことをおろそかにした。話していればよかった。なぜ話さなかったのだろう? 
 おろそかにしていたのだ。軽く見ていたのだ。放っておいても、待っていてくれると。
 感謝も謝罪もたくさんあったの に口に出さなかった。そのためにいちばん大切な女を失った。それもひどい別れかただった。
 おとなしい女が怒りをぶちまけた。
「何度も踏みにじった……薄っぺらい人、軽薄な人、軽薄なひと……」
 それでも言い足りなかっただろう。
 二股をかけるような女ではない。別れたあとに出会ったに違いない。バカなオレを忘れるために結婚したのか? 
 しかし相手の男は幸せだ。つねに自分のことより相手のことを考えていた。だからそれに甘えた。
 あれから、1年と少ししか経っていない。
 やり直せるかも……なんて思っていた。おまえが来るのでは……と。

 ーーああ、未練がましいな。

✳︎

 その日は優子を自転車の後ろに乗せ急いでいた。車に接触したのは私のほうだ。支えきれずに倒れた。
「すみません。急いでいたので」
 優子は膝を擦りむいたが泣きもしなかった。私は娘を乗せて走り出した。義父がデイケアから帰ってくる。車の男がなにか言ったが聞く時間はなかった。

 デイケアの車と入れ違いに、ぶつけた車が入ってきた。
「ごめんなさい。車に傷付けました?」
「怪我はないですか?」
「大丈夫です。優子はたいしたことないし、私は……」
 足に擦り傷。
「悪いのは私のほうですから……でも明日になって診断書出して治療費出せって言ったら?」
「それが普通でしょう?」
 そこで初めて男の顔をしっかり見た。乗っていた車、着ているスーツ、雰囲気から素敵だとは思ったけど……美形はきらいだ。中身を知ればがっかりする。でもこの男は?
「畑やってるの?」
「義父が好きだったから」
 男は名刺を置いていった。私は知っていた。三沢英幸(えいこう)、H高の伝説の先輩だ。音楽室に写真が貼ってあった。ピアノコンクールで入賞した人だ。名刺を見た。株式会社ミサワ。

 H校のことは思い出したくない。

 次の日の夕方、三沢英幸は菓子折を持ってやってきた。少し話した。娘が優子の幼稚園と同じだと。
「入園するんだ。よろしく、優子ちゃん。早夕里(さゆり)っていうんだ。仲良くしてあげてね」
 
 幼稚園が始まった。優子は年長組になった。三沢早夕里(さゆり)、あの人の娘は大変らしい。先生の言うことを聞かない。
 雨の日、教室から抜け出しひとりで園庭の水溜りで遊んでいたという。それからは教室には鍵がかけられた。
 友達とうまく遊べない年少組の早夕里が、優子に懐いているらしい。

 時々、あの人が歩いて送ってくるようだ。平日が休みなのだろう。子供をあずけたあと、あの人は門の前で私を待ち話した。あの人は優子を褒めた。早夕里の話に出てくるらしい。我儘な娘と遊んでくれるのは優子ちゃんだけだ、と。優しいお嬢さんで羨ましい……

 インターフォンが鳴り、降りていくとあの人が立っていた。
「庭でバーベキューやるから優子ちゃん、お借りしてもいいですか? 優子ちゃんがいると、早夕里が聞き分けがいいんだ。あなたもどうですか? 妹と彼氏も来てるんだ」
 義父の世話があるからと、優子だけお願いした。庭の茄子とトマトを切って渡した。

 バーベキューの写真が送信されてきた。動画も。
 素敵なリビングに広い庭。あの人と奥さん? あの人の妹? 妹の彼氏? 

 あの人の妹は若くて背が高くて垢抜けていた。目立つ女。先輩好みの……三沢英幸の妹の彼氏は……先輩だった。
 先輩と優子が並んで写っている……

 封印していた言葉がよみがえった。
「おまえは都合のいい女だった。金はかからないし、タダでできたからな」

 運動会、あの人が遠くから手を振った。隣に先輩がいた。遠目でもわかった。私は気分が悪くなったからと周囲に言い帰った。めまいがした。先輩の言葉が容赦なく攻撃してくる。
 おまえは都合のいい女だった……

 怒りの矛先は弱くて優しい優子にぶつけられた。 
 おまえが三沢さんの家になんかに行くから……
 早夕里を羨ましがる優子、大きなおうち、お庭、犬がいるの。ママ、優子も犬飼いたい……
 思わず優子の頬を叩いた。
「だったら、三沢さんちの子になればいいでしょう。おまえなんか産まなければよかった」

 眠る優子の顔をみて謝った。しかし同じことの繰り返し。介護の苛立ち。今までは感じなかった。義父は保険にも入っていたし貯金も思っていたより多かった。民間の施設にはとても入れることはできないが。
 長距離運転で留守がちの夫への苛立ち。私の負担を減らすために、いつかは施設に入れなければならない。そのために働いてくれているのに。
 私を下に見る女たち、夫の学歴や会社を自慢する園児の親たち。そして兄嫁。兄嫁はおさがりの服を送ってくる。
 ブランドの服だ。私はもったいなくて買ってやらない。ありがたかった。ありがたかったが……明らかに洗濯していない。髪の毛がついていた。染みつきの服も入っていた。ポケットには汚れたティッシュが入っていた。ひどい侮辱だ。あの義妹ならかまわないだろうと。
 義父が優子という名に執着した。女の子がいたら付けたかったらしい。優しい子ではなく優秀な子に。人より優れた女になってほしい。そう思い義父に従った。
 優子は優しい。優しすぎる。義父に当たるわけにはいかない。優子の優しさが疎ましい。いらいらして優子の腕をつねり言葉で虐めた。
「おまえのために、ママは不自由な生活を……」

 夜、テーブルの上に手紙が置いてあった。

 ままへ うまれてごめんなさい ゆうこ

 優子はいなかった。慌てて探す。なんということをしてしまったのか……
 優子は公園でブランコに座っていた。そばにあの人が立っていた。
「犬を散歩してたらひとりでいた。暗いのに」
「ごめんなさい。優子、帰ろう」
 家に戻り、泣いて抱きしめて謝った。

 夫から花束が届いた。ああ、誕生日だった。あとでもいいのに。
 毎年もらっていた。夫に花をもらうのは何度目だろう? 優子を産んだとき、毎年の結婚記念日、誕生日。そのたびに私は、もったいない、切り花はもたないのに……と思っていた。
 今年は涙が溢れてきた。あなたの真心は金では買えないものなのに……幸せなのに……

 よけいなことは考えないようにした。しかし先輩の声が聞こえる。何度もひどい思いをさせられた……おまえは都合のいい女だった……
 幼稚園に迎えに行くと、あの人が優子の髪を撫でていた。近づくとハッとして離した。
 遊びにおいで、と誘われたが断って引っ張ってきた。あの人の様子はおかしかった。夜の公園にいたのも考えてみればおかしかった。
 また、妻の仕事の忙しい時期なのかあの人の送り迎えが続いた。あの人は優子を待っている。手を振る。迎えに行くと聞こえた。
「優子、かわいいな。好きだよ」
 私を見ると舌打ちした。

 あの人の異様な行為はエスカレートしていった。犬の散歩をしている。家の前は私道なのに。犬が泣くと優子は外に出ていきあの人と話している。犬にさわらせ優子を抱き上げる。お尻にさわる。
「離してください」
「かわいいね。ほんと優子ちゃんは食べちゃいたいね」
 優子が三沢にもらった携帯で話している。私が変わると舌打ちの音。

 さらにエスカレートしていった。三沢は優子を勝手に連れて帰った。頼まれたからと。
 彼の信用……誰も信じないだろう。頼んでなんかいないと抗議しても。
 家にいくと、庭で遊んでいた。犬と遊んでいた。私を見ると優子を抱きしめた。返さないとでも言うように。
 私は三沢の足の甲を思いきり踏んだ。優子を奪い絡みついてくる指を逆側に折った。彼は悲鳴を上げたあと笑い出した。
「園長先生に話すわ」
「どうぞ。僕の信用。地域への貢献度。先生はどっちを信用するだろう?」
「……」
「家庭はばらばら、仕事もうまくいってない。優しいのは優子ちゃんだけだよ。優子ちゃん、今度、別荘に行こうか? きれいな湖があるよ。ボートに乗ろう」
 ゾクっとした。異常だ。この男は。まさか優子を道連れに?

 どうしよう? 夫はいない。夜は怖かった。あの男は家の周りをうろついているのではないか? 私が眠ったら優子は出ていくかもしれない。
 
 私は電話をかけた。携帯の番号は削除していたが覚えていた。
「美月か?」
 先輩は削除していないの? それとも覚えているの?
「先輩? お願い。助けて」
 一気に喋った。
「家の外にいるかも。優子を連れていかれる」
英幸(えいこう)さんがロリコン? 君の娘を?」
「本当なのよ」
「美月、英幸さんに聞かれたよ。おまえになにをしたのか? って。
 オレの写真を見てから、運動会でオレを見かけてからおまえがおかしくなったって。オレがなにかしたか? 二股かけて振ったのはおまえのほうだ。ひどい言葉投げつけて別れていったのはおまえのほうだ」
「先輩はまたほかの女に恋をした。わかってたわ。私はただの都合のいい女だもの」
「オレは本気だった。おまえのために、おまえと結婚するために貯金してたんだ」
「嘘よ」
「少ないバイト料から貯金してた。おまえを、おまえしか妻になる女はいないと思ってたからな」
「嘘よ。じゃあ、ナホって誰なの? 寝言で言った。先輩は帰らなくなった」
「バカ、ナホは十も年下だよ。当時小学生だ」
「……」
「家庭教師してた子だよ。心臓の手術するからそばについててやってた」
「どうして話してくれなかったの?」
「話したら、手術が失敗するんじゃないかって思ってた。おまえならわかってくれると思ってた」
「わからないわよ。なにも言ってくれないで」
「そうだよな。オレが悪かった。もう遅いけど。」
「……」
「美月、過去の話だ。オレは何度も恋したけど、愛したのはひとりだけだった。わかるな?」
 氷解。氷が溶けていく音がした。
「三沢さんは、ロリコンじゃないのね?」 
「あたりまえだろ。英幸さんに言われた。おまえを手放した奴は大バカヤロウだと」
「‥‥先輩……真剣に思ってくれてたのね?」
「あたりまえだろ」
「私、優子にひどいことを……イライラしてぶったり、ひどいことを言った。あの子を見てると自分を見てるみたいで」
「優子ちゃん、素敵なお嬢さんだった。本当におまえそっくりだよ。いい子に育てたな」
「優子は許してくれるかしら?」
「おまえなら許すだろ? おまえは何度もオレを許した」
「……」
「もう、オレのことなんか忘れろ……それとも、駆け落ちしようか?」
「……軽い男」
「じゃあ、切るぞ。いいママに戻れよ」

 翌日幼稚園であの人は待っていた。子供を送ったあと話した。
「お芝居だったのね? 私に罰を与えた」
「まさか和樹に電話するとは思わなかった」
「怖かった。優子を道連れに心中でもするんじゃないかって」
「悪かった。僕は本当に訴えられるか、刺されるかも、なんて思ったよ」
 私の目から涙がボロボロこぼれた。
「僕は携帯を渡してたから電話して励ました。ママは、今、病気なんだ。心の病気。すぐ治るから、と。手紙を書かせて公園に連れ出して君を懲らしめた。
 考えたよ。あれほど人のいい君が豹変するようなことは?
 和樹だね? 君はH高の後輩。美月さん、思い出したよ。君はずっと和樹を見ていた。
 僕は君を尊敬してたよ。優しい子に育ててる。自分より早夕里のことを考えて自分は控えめで。早夕里も他の子も皆、他の大人もそうだよ。地球は自分中心に回っていると思っている」
「私だってそう思いたいわ。いつも脇役。ヒロインにはなれない。お人よしだから人に利用されてばかり」
「和樹には君は唯一の女だった」
「嘘」
「唯一、本気で妻にしようと思った人だよ。和樹の心にずっと住み着いている。妹がかわいそうなくらい……君を妻にした旦那は幸せだよ」
「あの人は妹さんと結婚するの?」
「どうだろ、誰かと駆け落ちしたりしないかな」
 彼は笑った。私も声に出して笑った。
「久しぶりに母を思い出した。祖父の介護をして、畑で、野菜作ってた。早夕里を見せたかった……」
 


 


 
 



 
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