第41話 鎮静剤

文字数 1,093文字

 君は部屋に押しかけて来た。
 風呂もない古いアパートには玄関もない。
 強引に入って来たので思わず怒った。
「靴を脱げよ」

 いや、
 入っていいと言ったわけではない。

 君は部屋を見回した。
 ここは母が独身のときに住んでいた部屋。
「エイコウ、会いたかったぁ」

 5月の連休に早夕里(さゆり)が来た。早夕里は夏生(なつお)の従姉妹で同じ年だ。長い休みには遊びに来ていたので幼い頃から知っていた。
 早夕里は親が医者だから当然医学部を目指していた。
 年頃になると容貌を気にした。背は小さくメガネをかけていた。きれいとか、かわいい部類ではないだろう。
 
「容貌なんて化粧でどうにでもなる。中身を磨け」
 僕は無責任に励ました。

 本をたくさん読んでいて歴史に詳しかった。語り合う早夕里は生き生きしていて、彼女の訪れは楽しみだったのだ。
 それが、なにがあったのか、いや目覚めたのだろう、恋でもして。長年見守ってきた利発な少女は変身していた。
 分厚いメガネはやめ化粧していた。
 下手な化粧。それに流行りだとかウィッグを被っていた。
 バカなダイエットもしているようで菓子にも手を付けなかった。
「がっかりだな。早夕里も低俗な女になりさがったか」
「エイコウ、私は留学するの。しばらく会えなくなる」


 そのとき僕は他人のことを思いやる余裕などなかった。  
 この少女……もう19歳か。幼い頃から僕を慕っていた。幼馴染の夏生を羨ましがり、毎年長い休みにはひとりで郷里から出てきていた。
「いつ?」
「明日。見送りはいらないから」
「夏には帰るだろ?」
「花開き折るに堪へなば
 直ちに (すべから)く 折るべし」

 実家のリビングに額が掛かっていた。父が入学式の挨拶に引用していた。
「エイコウ、お願いがあるの」
「なに?」
 折って欲しい、と早夕里は言った。
「よしてくれ」
 僕の目にまったくその気がないのを悟ると早夕里は泣き出した。
「ひどいわ。勇気を出してきたのに」
「ありがたいけどね。医者志望の君だから言うけど、僕はね、僕はEDなんだよ」
「上手な断り方ね。ゲイとか」
 早夕里は机に突っ伏し泣いていた。ひどく疲れているようだった。

 車に乗せると早夕里はずっと泣いていた。
 夏生の家の前で降ろす。
「キスもしてくれないの?」
「君がいい女になったらね」
「哀れなのは忘れられた女です」
「なに?」
「忘れないでね。私のこと」
「ああ、夏にまた会おう」

 
 ああ、鎮静剤か。

退屈な女よりもっと哀れなのは悲しい女です
悲しい女よりもっと哀れなのは不幸な女です
不幸な女よりもっと哀れなのは病気の女です
ーーーー

死んだ女よりもっと哀れなのは忘れられた女です

 (マリー ローランサン 『鎮静剤』より)
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