第61話 ロカさん

文字数 2,713文字

 新しい入居者が決まった。
 ひとり亡くなっても新たな入居者はすぐに決まる。数えきれない高齢者が順番を待っているのだ。
 ファイルを確認する。入居してきたのは……

 偶然なのか縁なのか、声と響きが45年前を思い出させる。

 
 風呂に入れた。車椅子だが自分で立ち上がる。会話に不自由はない。無口だが。

 あの頃はかけていなかったメガネをかけていた。髪はごま塩で薄くはない。
 優しそうだ。
 脳梗塞に軽い認知症。75歳では早いと思う。

 裸を見た。長く運動していたのだろうか? 75歳の介護を必要とする男の体は崩れていなかった。無駄な肉がついていない。
 
 頭を洗う。背が高い。座高が高い。頭が大きい。
「痒いところ、ないですか?」
「……大丈夫、よ」
 優しい答え。顔を洗わせた。素直だ。体は? 
「洗えない、よ」
 大きな体を洗う。
「痛くない?」
 何を聞いても
「大丈夫、よ」

 娘さんの名を聞いた。ファイルを読んで知っていたが。
 娘に私の名をつけたりはしなかった。文学的な名前だ。
 息子の名は教えてくれない。連絡先は娘になっている。ファイルに息子の住所はなかった。

 後ろから支えると、またいで浴槽に入った。ゆっくり浸からせる。
「ぬるくない?」
「大丈夫、よ」
 そればかりね。

「……頼朝の頼子ってのがいたな」
「……なに、それ?」
「オヤジさんの初恋の女だ。ハッハッハッ」
 初めて笑った。声を出して。
 覚えてくれていたの? 私が話したこと……
 
 上がる時は少し大変だった。体が大きいから支えるのが大変だ。
「いいよ。倒れても。そのまま……死にたい」
 死にたい……無縁の言葉だったろうに。

 体を拭きボディーローションを塗る。広い背中は乾燥してはいない。ふくらはぎにはまだ筋肉が付いていた。
「運動やってたの?」
「……やってないよ」
 爪が伸びていた。切りながら言った。
「お昼は手毬寿司ですよ。ひな祭りだから」
「……食べたいものなんかないよ」
「桜が咲いたらお花見に行けますよ」
「花を愛でるっていう気分じゃないよ」
 否定的だ。何を聞いても。
 
 娘は父親が大好きなようだ。面会も多い。私は昼で帰るから会ったことはない。孫の中学生の男の子がひとりで来ることもあるようだ。慕われているようだ。
 
「おかしなやつだよな」
 風呂に浸かりながら言った。
「ママについていかなかった」
「……」
「ま、金があったからな」
 今は? ないの? こんなところに入れられて……
「全部捨てやがった」
「……」
「……」
「何を捨てられたの?」
「石川達三の本」
「……」
 脚本家になりたかった……45年過ぎても同じことを言った。

 ロカさんは湯船からなかなか出ない。気持ちよさそうだ。
「ああ、おなかすいちゃった」
 浴槽に浸かる男に言った。
「……俗っぽいな」
「え? 俗っぽい? 俗っぽい、か」
 何を食べようか? そればかり聞いていたくせに。
 
 次の日、ロカさんの部屋には鍵がかかっていた。明け方救急車で運ばれた。たぶん脳梗塞。戻らないかもしれない。
 様子はわからない。私は週3日の午前中だけの契約社員。
 胃ろうにするかも……胃ろうは拒否してたんじゃ? 娘さんがね……パパが大好きなのよ。

 戻ってきた。あんなに食べることが好きだった人が10キロ痩せて戻ってきた。高栄養のドリンクとペースト状の食事。
 口から垂れる。飲み込めずに垂れる。
 尿が出ず、すぐに病院に戻された。もう戻っては来ないかも……

 しかし戻ってきた。今度は回復した。飲み込めるようになり、食べられるようになった。
 左手でカップを持ち自分で飲む。

 寝浴だから私の担当ではなくなった。食事のあとはベッドに寝かせる。私の出番はなくなった。見守るだけだ。

 こんな状態でも息子は面会に来ないようだ。誰も余計なことは言わない。聞かない。会いたいだろうか? おそらくは行方不明の息子……借金だろう。
 父親は返済のために貯蓄も家も手放した。息子はおそらく日本にはいない。
 
 回復はそこまでだった。次に救急車で運ばれたのは連休の間だった。

 戻ってきた。看取りだ。
 今まで何人も看取ってきた。そういう場所なのだ。大半は病院で亡くなり戻らないから実感はない。部屋は片付けられすぐに次の人が入る。看取りで戻ったものは静かに亡くなっていく。
 初めて看取ったときはショックだった。食べなくなる。食べないのだ。何日も。食べなければ餓死をする。私は調べた。枯れるように死んでいく。当たり前の死だ。理想的な死だ。

 娘が通い詰めた。意識のない父親に話しかける。パパ、パパ、パパ……
 娘が席を外したときに別れの挨拶をした。
「ロカさん、頼朝の頼子よ」
 耳元で囁いた。手を握った。変化はない。
 娘はすぐに戻ってきた。互いに会釈した。

 息子は来なかった。連絡も取れなかったのだろう。昼で私は帰った。夜、スタッフからメールがきた。
『徳冨さん、亡くなりました』

 翌日、遺品を整理した。多くはない。箱にたくさんの映画のDVDが入っていた。中に古いビデオテープが。自分でも忘れていた映画だ。

 初めてふたりで観に行った。
 ロカさんは観たくはなかっただろう。話題性だけはあったが『ベルサイユのばら』の外国映画。 笑いながら付き合ってくれた。観終わったあと、
「主演女優、きれいだったね」
と聞くと、
「モモエのほうがいい」
 そう言った。
 モモエのファンクラブに入っていると。
 いつ買ったのだろうか? 別れたあと? ビデオテープだからかなり前だろう。もうビデオデッキなんてないだろう? 
 
「欲しいものがあったら貰って。あとは処分してって」
 捨てるのにも金がかかるのだ。私はビデオテープを貰うことにした。マジックで落書きしてある。入居してすぐにマジックを借りて書いたらしい。
 入居してすぐ? それは落書きではない。『子』と『へ』は読めた。

 頼子へ
 
 私には読めた。入居してすぐ? 
 あなたにはわかっていたの?

 葬儀は身内だけで行われた。
 昔暮らしていた場所を訪れた。住んでいた借家はなくなり小道は舗装されていた。小学校と中学校は同じような形で残っていた。高校は様変わりしていた。
 あなたも通ったという高校。私の10年前にあなたは通っていた。文学少年、スポーツもできたのだろう。人気もあっただろう。青春を謳歌しただろう。
 なのに、晩年があんなに寂しすぎるなんて……

 駅のそばのあなたの家、聞いていた場所は飲食店のビルになっていた。
 あなたの家も、もうないのね。おそらくすべて取られた。息子の借金のために。
 不遇な晩年。妻には出ていかれふたりの子どもを育てた。その手塩にかけた息子は……?



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