第16話 乗馬服の女

文字数 4,445文字

 美月(みずき)はH高テニス部の1学年下の後輩だった。無口で目立たない生徒だった。
 ほかの女子は和樹の冗談に笑った。コロコロ笑った。美月はいつも真面目で……詰まらなかった。
 彼女はバレンタインデーにはチョコレートをくれた。ほかの女子と同じように。気があるのはわかっていたが、気が付かないふりをしていた。地味な彼女には……興味がなかった。

 おとなしい美月は告白もしなかった。だから乗馬クラブで会ったときには驚いた。就職した彼女は薄化粧をしてきれいになっていた。高卒なのに真面目な彼女は中堅の企業に合格し、その会社の馬術同好会に入っていた。和樹を誘った大学の馬術部の友人は、社会人の彼女たちを教えていた。友人は美月に気があったのだ。 
 無口で影がある美月を守ってやりたくなる、と……だから和樹は美月につれなくした。仲を取り持つよう頼まれたのだ。

 あの日、馬術雑誌から抜け出たような女がクラブにやってきて、皆の視線を釘付けにした。スタイルのいい女は乗馬もうまかった。障害物を飛び越えた。ポニーテールの長い髪が跳ねた。
 モデルのような女が和樹たちの横を通った。歩き方まで美しい。しかし、ああいう女は好きではない。自信満々の堂々とした、プライドの高そうな、颯爽とした、格好いい、格好いい女は……
 あの女は馬に水を飲ませていた。ポニーテールのほつれた後れ毛が……魅力的だ。白いパンツのヒップラインが……

「アブネスヨ!」
 大声で言われた。怒られた。方言? 
 女は顔に紅葉を散らす……
「後ろを通ったら蹴られるわよ」
 今度は標準語で怒られた。思わず出たのか? 東北弁か? 
 第1印象が崩れた。大きく崩れた。美月が走ってきて和樹の代わりに謝った。
「美月の彼氏?」
「高校の先輩です」
 あの女はジロジロ見た。

 あの女が和樹を食事に誘った。美月と友人と。あの女の車で行った行きつけのレストラン。友人は美月を見ていた。和樹はあの女を見ていた。多くは喋らない。
 あの女が店のピアノを弾いた。和樹は驚いた。久しぶりに聴いたベートーベンのテンペスト。和樹は近付いた。引き込まれた。拍手すると、
「ショシ」
「?」
「え?」
 女は笑う。
「田舎者だと思ってる?」
「と、とんでもない」
「恥ずかしい。よかった? って聞いたのよ」
「よかったです。テンペスト好きです」
「んだ。あなたも弾けるの?」
「んだ。弾けません。弾けません……1番なら」

 和樹が弾き終わると皆が拍手してくれた。テーブルに戻ると、友人は褒めたが美月はなにも言わず微笑んだ。
 それから……あの女とピアノの話をするのは楽しかった。もう方言は出さない。美月も熱心に友人の話を聞いていた。聞き上手だ。

 あの女には田舎に婚約者がいた。別にどうでもいい。友人の恋を成就させるために婚約者のいる女を好きになったフリをした。あの女はトイレに行き会計を済ませていた。3人で少しばかりの金を出すと、受け取った。どうでもいいのだろう。

 美月はあの女に旅行に誘われていた。あの女の故郷。父親の経営している乗馬クラブで特訓してくれると。あの女は和樹も誘った。
 あの女の車で行った。途中運転を変わった。車の話題になると美月は後部座席で眠っていた。
 あの女の父親が経営しているホテルで、婚約者に紹介された。年上の、かっこいい男だった。用意してくれた部屋は安いのに最高の部屋。美月は隣の部屋。婚約者も交えて夜遅くまでホテルのバーで飲んだ。あの女は婚約者の前でも和樹を見ていた。あの女は親の決めた婚約者を嫌っていた。だから年下の男に気のあるフリをした。それくらいわかっていた。
 4人で馬に乗った。よその大学生も合宿に来ていて、大勢で飲んで騒いだ。あの女といると美月は……清楚だ。

 朝、食堂に女ふたりが入ってきた。美月は念入りに化粧をし、雑誌から抜け出たような女になっていた。隣に、素顔でサラサラのロングヘアのあの女。驚いた。素顔のあの女は……あの女は和樹を驚かす。そのあたりから、和樹の気持ちは揺らいだ。いや、もっと前だ。でなければ来なかっただろう。初めて会って方言を聞いたときから惹かれていた。あの女は清楚で可憐だった。和樹は交互に見つめおかしくなった。たいていの男は化粧で騙される。婚約者は知っているのか? この女の素顔と魅力を?

 帰る前日の夜、3人で河原を散歩した。婚約者は仕事の電話をしていた。両手に花? の和樹にふたりの不良が絡んできて、あの女を連れて行こうとした。和樹はあの女の手をつかみ離さなかった。何度か殴られても守った。
 ああ、武道を習っておけばよかった。空手か柔道……ボクシング……

 意識が朦朧とし、あの女と婚約者に支えられて歩いた。ホテルの部屋のベッドで看病してくれたのは美月ではない。あの女は、弱いながら必死で守ろうとした彼に謝った。謝った。
 翌日の朝、美月が帰ったことを知った。仕事があるから予定通り、美月は帰った。ひとり、電車で。メールをしようとして……やめた。美月には友人のような誠実な男がふさわしい。
 
 由佳は積極的だった。命がけで守った和樹の株は急上昇した。彼も由佳にどんどん惹かれていった。化粧を落とした素顔の女に夢中になった。

 地方の金持ちの婚約者のいる女。贅沢な部屋。電子ピアノが置いてある。
「オレもひとり暮らしするんだ。これなら夜でも練習できるな」
「じゃあ、プレゼントするわ。私は来年卒業したら田舎に帰るから」
「もらえないよ。こんな高いもの」
「どうせ処分していくから。住所教えて」
 金に不自由しない女の部屋で酒を飲んだ。婚約者も来るのだろう。ダンベルが、6キロのダンベルがあった。あの、長身の体格のいい男っぽい婚約者に抱かれている由佳を想像した。由香はリクライニングチェアに座り目を閉じる。
「君は、ほかに好きな男がいるんじゃないのか?」
 そんな気がした。
「あなたもいるんじゃないの?」
 悪い女は誘惑した。
「婚約者がいるんだろ?」
「圭ちゃんが欲しいのは私の家と財産」
「そんな男にはみえない」
「圭ちゃんは壊したの。私の初恋を容赦なく。あなたの親にも言うかもしれない。婚約者のある女と付き合わせるなって。どうする?」
「捨てろよ。婚約者も家も」
「家も財産もない田舎者でいいの?」
「んだ」
 笑ってキスをした。初めてだ。酒臭いキス。酒臭い……
「あの人を……」
 酔った由佳が話す。
「こうやって誘惑したの」
 由佳は服を脱ぐ。
「誘惑したの。どうしたと思う?」
 トレーニングを欠かさない女の見事なプロポーション。理性はぶっ飛んだ。
「あの人はトイレに逃げたの。下痢してるって。トイレに閉じこもったのよ。私が酔って眠るまで……」
 そうすればよかった。絡みついてくる腕を振りほどき、トイレに逃げればよかった。誘惑したのは由佳だ。酔った由佳は詩を口ずさんだ。
「自分の愛しい命を振り捨てるほど私を愛してくれるのは誰だろう? 
 私のために海に溺れて死ぬものがあれば、そのとき私は石から解放されて、命へ、また命へと立ち帰っていくのだ……
 そんなにもにもざわめく血に私は憧れている……暗記してたんだけどな」
「ゲーテか?」
「リルケよ。あの人が好きだった」
「んだ」
「笑わせないで。好きよ。命がけで守ってくれた」
 避妊具まで用意していた年上の女。由佳は詩のヒロインになりたかったのだ。運命には逆らえないが……

 和樹をリードした女がベッドで泣いた。
「命を捨てるほど愛してる……」
 感激して言った。互いに初めてだった。初めての相手。由佳はベッドの上で泣いた。愛しているからだと思った。幸せなのだと思った。乱れた由佳の長い髪を指で梳かした。素晴らしい夜だった。

 次に会った時、由佳は元の女に戻っていた。化粧をし髪を大人っぽく束ねていた。そして白状した。不良に絡まれたとき、和樹がどうするかを観察していた、と。由佳を守るか自分を守るか。受けたダメージまで観察していた。和樹を助けたのは美月だった。携帯で助けを呼ぼうとし、もうひとりの男に携帯を奪われそうになり、逆襲した。和樹を守るため。
 彼女は由佳に習ったばかりの護身術で襲ってきた男の指を逆側に折った。圭介が走ってきて、男たちは逃げていった。

 かよわい美月がオレを助けた? あの美月が?

「嬉しかった。守ってくれて。いつ離すか見ていたの」
 信じられない彼に由佳は証明した。6キロのダンベルを軽々持ち上げる。
 怒りが彼を暴走させたが、無理やり抱こうとしてもかわされた。ボクシングを4年もやっている女は強かった。指1本ふれられなかった。
「おまえはオレのものだ。そうだろう?」
 由香は、もう、和樹を見ない。もう、過去なのだ。迷惑なのだ。年下の男の思い、愛は重荷。
「圭介さんを愛しているんだな?」
「……」
「答えろよ。そうしたら諦めてやる」
 由佳はうなずいた。
 この間は愛しあったのに。なぜこんなことに?
 由佳は謝った。年上の女は謝った。ごめんなさい、ごめんなさい、美月……

 美月……美月にひどいことをした。彼女は馬術同好会も辞めてしまった。友人は敢えなく失恋した。
 
 美月をテニス部に勧誘したのは和樹だった。
「かわいい子しか誘わないんだ」
 褒めたつもりが、意外な反応をした。薄っぺらい男……と侮蔑の目つき。思わず見つめ直した。頬が染まった。目は大きくはない。鼻筋は通っているが高くはない。唇は……口元はかわいい。肌がきれいだった。

 美月は球拾いをしながら和樹を見ていた。最後の数分間、和樹は教えた。彼女を選んだのは地味で真面目だったからだ。変な噂がたち、葉月先輩の耳に入るのがいやだった。真面目で几帳面な彼女は朝練にも1番に来た。サボることはない。コートの準備ができた頃、ほかの1年は来た。練習が終わったあとも皆が喋っている間に彼女は黙々とあと片付けをした。和樹は要領のいい自分を少し恥じた。美月は運動神経もよかった。2回戦まで進んだ女子は彼女だけだった。しかし彼女は自慢はしなかった。目立つことを嫌う。褒めると恥ずかしがった。

 美月がテニス部に入った夏休み、O先輩の家で集まり酒を飲んだ。和樹は葉月先輩が来ないから不機嫌で、ガブガブ飲んですぐに潰れて別の部屋で寝かされていた。夢だと思っていた……心配して様子を見に来た美月に……

ーー夏の夜、オレは酒臭い息をして美月にキスした。夢だと思い忘れていた。
 オレが葉月先輩に夢中だったときも、夏生と付き合っていた時も、おまえは遠くからオレを見ていた。こんなに軽い、薄っぺらいオレを……

 美月のことはなにも知らなかった。いつも人の話を聞き、自分のことは話さなかった。
 無口で影のある女……友人が守ってやりたいと言った女。

ーーオレは美月のことをなにも知らなかった。
 胸が苦しかった。
 大事なものを失った。

 由佳は田舎に帰ったのだろう。電子ピアノが送られてきた。圭介と結婚するのだろう。
 回り道してようやくたどり着いたのか? 愛する男の元へ。  
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