第12話 この家には……

文字数 1,989文字

 幼い頃から憧れていた男の妻になった。
 大きな家に広い庭。羨ましがられるが古い。姑が嫁いで来る前からある大木。窓は風でガタガタ鳴る。開ければ木々が騒めく。
 木には子供には宝物のクワガタが。土にはミミズ。部屋には蜘蛛や毛虫が出現する。風呂場には雌雄同体の軟体動物が。

 夢を見た。気味の悪い虫や、風呂場のアレが襲ってくる。操っているのはあの人だ。あの美しい、夫の前妻。

 嫁いで1年が過ぎた。
 この家には前妻がいる。
 夫の胸の中には前妻がいる。
 あの人が出て行ったあと、私は犬の診察に来た。この家に出入りして、姑に気に入られ後妻におさまった。
 後妻とはいえ、素敵な夫にかわいい息子。幸せだった。
 不安はあった。うしろめたさもあった。私がいるからあの人は戻ることができなくなった。

 嵐の夜、凄まじい風の音で目を覚ました。夫は夢を見ていたようだ。
 夫が声のないうめき声をあげた。起こすと、一瞬現実との区別がつかないようだった。夫は呼んだ。妻の名を。私ではなく前妻の名を。そして美しい前妻の顔ではなく、怒った恐ろしい私の顔を見た。
 
 絶望した私は家を出た。風が吹き狂う。雨が私を打ちつけた。植木鉢が命でも吹き込まれたように私を襲ってきた。物置のトタン屋根がはがれて飛んできた。屋敷が怒っていた。前の女主人と違い、手入れをしない私を痛めつけようとしている。私は罰を受けた。雲の中にあの人の顔が見えた。
 あの人が屋敷を操り私を取り殺そうとしていた。

 立ちすくむ私を抱きかかえた男がいた。一瞬風は治まった。あの人もこの家も、愛する男には手を出さない。

 ︎ ︎
 
 母は妻に嫉妬していた? 妻を慕っていた男を母は愛していた?
 母の嫉妬がなにもかも壊した。
 妻は妊娠していた。私は知らなかった。
 母は気に入っていた。あの男を。あの男は隣のアパートに越してきた、人懐こそうな小学校の音楽の教師。
 あの男は家賃を払いに来た。母が応対していた。母は食べきれない中元の菓子や果物を渡していた。しだいに食事に招きピアノの演奏をしてもらうようになった。若返っていた。美容院に行き、化粧が濃くなった。年甲斐もなく……と私はからかった。
 音楽好きの妻があの男には無関心だった。年甲斐もなく恋をしている母の邪魔はしなかった……あの男を愛したのは母だった?

 母は毎朝おにぎりやサンドイッチを作り、学校へ行くあの男に門のところで待ち渡していた。朝食を取る時間のない独身の男に。60歳の母は年よりずっと若く見えた。
 しかし、あの男は妻を慕っていた。母は気づいた。嫉妬? 息子の嫁に? 父の介護をやり遂げた妻に嫉妬した? 父の下の世話までやらせておきながら? 父は妻を自分の娘たちより信頼し愛した。

 離婚させたのは母だ。なにがあったのだ? 母と妻とあの男の間に?

 救急車がきて妻はおなかを押さえ言った。消えていく意識の中で何回か訴えた。階段から落ちたの。自分で落ちたの、自分で……

 妻の辛抱と献身は終わった。私は疑ったのだ。母の言葉に惑わされた。
 妻は優しいだけの女ではない。すがりつくような女ではない。妻は信じてくれとは言わなかった。否定も弁解もしなかった。
 あなたの母親におなかの子を殺された、とは言わなかった。私を絶望させるようなことは言えなかった。

 妻は出て行った。私が不貞を疑ったから。近所の者は噂して喜んだ。羨ましがられていた大きな家の醜聞。崩壊。
 母は後悔しただろう。この家は崩壊した。あなたの息子は酒に逃げ、孫に暴力を振るい、あなたのかわいがっていた犬を投げつけ、あなたを突き飛ばしたのだ。孫はかばった。あなたを。孫はあなたに懐いていた。あなたはかわいがってくれた。私にそっくりだと。あなたが言えばそうなのだ。誰も母親似だとは言わなかった。

 ︎ ︎
 
 幸子が死んだ。田舎で少ない親戚が集まっていた。私は親戚に、少しの間、幸子とふたりだけにしてくれと頼んだ。6年ぶりに会ったかつての妻の顔をさわった。そして最後のキスをし、しばらくの間隣に寝た。
 
 
 日曜の朝、息子は庭で水を撒いていた。私は窓から見ていた。バラがもうすぐ終わる。私は思い出す。父が車椅子に座り、そばで指図していた。不明瞭な言葉を幸子は母よりも理解していた。
 
 幸せだった頃の光景が思い出された。そこの椅子に幸子と私は腰掛け、花を眺めていた。そして洋画のようにキスをした。息子は私の膝に乗り同じように幸子にキスをした。私は息子の顔中にキスした。

 トゲが息子の指を傷つけたようだ。息子は指に口をつけた。
 息子は空を見上げる。そしてため息をつく。

 手の中でグラスが割れた。私は亡霊を見た。

『私がまだ非常に若かった頃だ、ホームズ君、私は生涯で1度しか経験したことのない恋愛をした……
 彼を見ていると、いとおしい彼女のあらゆる仕草が私の記憶に蘇ってきた……』
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