第38話 恩人

文字数 3,158文字

 夫が年賀状を振り分けた。私宛のものは少ない。数人の知り合いと美容室くらい。

 美容室 ミエ?
 ーー聞いたことがない。

 差出人は?
 沢 伊助?
 男性の美容師など……
 
 知らない。知らない人だ。

「昨年中は格別のご厚情にあずかり誠にありがとうございました。
 皆様のご健康とご繁栄を心よりお祈り申し上げます」


 掃除機をかけていてふと閃いた。
 慌てて紙に書いて見た。
 SAWA ISUKE
 MISAWA EISUKE
 残るのはMIE
 三沢 英輔。あの人だ。 


✳︎

 あの人の噂は聞いていた。夫の実家に行くと耳にした。
 あの、大きな邸のひとり息子は結婚を反対されて家を出た。親も、会社も捨てて……

 私は紳士服店で働いていた。 
 見覚えのある女性が入ってきた。若い男性とスーツを買いに。 
 この女性は?

 中3の秋、H校近くの甘味屋で会った、あの人の母親だった。息子とお汁粉を食べ、口の周りを拭いてやっていた過保護な母親。
 彼女は従業員に成人式のスーツを買ってやるようだ。私の接客を褒めてくれ、話した。
「息子も働いているのよ。いなかの支店だけどね。辺鄙な所らしいわ」
「○橋支店ですか? 三沢さん? 三沢英輔さん? 売上トップの?」
「あの子、トップなの?」
「辺鄙な支店で、人口の少ない町でトップです。ひとり当たりの単価が高いんです」
 私は社報を見せた。この2年、売り上げを競っていた。同姓同名だが、まさか、と思っていた。
 母親は涙ぐんでいた。

 あの人は、いなかから出てきていた娘と結婚した。30歳になっていたが、父親に反対された。三沢家の嫁にはできないと。
 子どもも産まれたのに父親は許さない。母親は会いたくても会いに行けない。

 私は○橋支店に電話をかけた。電話に出たのは確かにあの人だった。
 低音だがよく通る声。高校の国語の時間に、ミラボー橋を惚れ惚れとした声で暗唱し、フランス語で歌った男だ。
「あなただったのね」
 母親が来店したとは言えなかった。あの人は幸せそうだ。
「君よりいい女に巡り会えた」
と冗談を言った。
 冗談ではあるまい。あの母親を捨てたのだ。家も会社も。

 篠田は元気か? と聞かれ、私も話した。
「子どもができたの。待望の。
 8月に生まれるの。あなたのお子さんの1学年下ね」
 社報に情報が載っていた。男の子だ。
「よかったな。8月か、葉月だな」
「葉月、きれいだわ。女の子が生まれたら、葉月にしようかな。恩人のあなたに名付け親になってもらうわ」
「篠田が怒るよ」
「篠田には全部話した。あなたは恩人……」
「……」
「おかあさん、大事にしなさいよ」

 あの人は恩人だ。私を救い出してくれた。そのあとも、軽蔑したりはしなかった。幸せでいてほしい。できるなら、親に認められてほしい。


 数年後、夫が言った。
「三沢が戻った。奥さんと子どもを連れて。大変らしい。あいつの親父の会社も」

 倒産寸前の父親の会社。半身不随になった父親に、介護疲れで寝込んだあの母親。あの人は放ってはおけなかったのだろう。
「三沢なら持ち直すだろう」

 そう。あの人の会社は持ち直した。そして急成長を遂げた。

 それから、何年たっただろう? 葉月が小学校1年だった。夜遅く、あの人が訪ねてきた。突然。
 夫は出張でまだ戻っていなかった。
「しばらくだな」
 酒臭かった。この世で1番嫌いな酔っ払い。
 10年ぶりか? 
 こんなにだらしないあの人を見たのは初めてだった。私は酔っ払いには拒否反応を示してしまう。
 あの人は、くどくどと話し出した。酒臭い息で、
「妻が出て行った。息子を置いて」
「……よくあることだわ」
「男がいたんだ。信じられない」
 よくあることだ。情けない男は酒に溺れる。
「子どものためにしっかりしなきゃ」
「ああ、そうだな」
「私の父は許したわよ。母の不貞を許して、それでも愛した」
 あの人はいきなり言い出した。
「篠田と離婚してくれ。俺の気持ちを知ってて、どうして篠田なんかと……」

 葉月が起きてきた。大声に怯えて。
「脅かしてごめんね、お嬢ちゃん」
「はづきよ」
 娘が教えた。
「葉月か、いい名前だ。葉月は旧暦では秋なんだ。
 秋、か。木の葉が落ちる。落ちる……この手も落ちる。ほかをごらん。落下はすべてにあるのだ……」
 酔っていてもあの人は詩人だ。
「君にはわからないだろう? 君は頭はいいがバカだ。誰の詩かわかるか? 
 けれども、ただひとり、この落下を……限りなく優しくその両手に支えている者がいる……」
 そしてまた、とんでもないことを言い出した。
「葉月ちゃん、きみの名前はおじちゃんが付けたんだ。君はおじちゃんちの子どもになるんだ。大きなおうちだよ。広い庭がある。犬も……犬は死にそうなんだ。欲しいなら買ってやる。なんだって買ってやる」
 酔ったあの人は葉月の手をつかんだ。
「三沢君、やめて」
「おにいちゃんがいるよ。君よりひとつ上だ」
 無理矢理、葉月を連れて行こうとした。
「帰ってよ。三沢君!」
 私が強く言うとあの人は怒った。
「売春してたくせに。誰が助けてやったと思ってるんだ? 支えてくれよ。その両手で……」
 恩人だと思っていた人が……
「あなたでも言うのね。酔えば言うのね。子どもの前で」
「バイシュンてなに? おじちゃんが助けたの?」
 あの人は後悔したようだ。葉月の顔を見た。そして小声で言った。
「青春だよ。青春は()べからず。ママは、モテてモテて困ってたんだ。おじちゃんが助けてやった。パパと結婚させたんだ」
「おじちゃんは恩人なのよ。恩人」
「葉月ちゃん、これは夢なんだよ。夢を見てるんだ」

 あの人は子守唄を歌った。ドイツ語で。
 高校1年の音楽の時間、歌のテストで私が歌った子守唄だ。歌は苦手だ。か細い声で、音も外れた。それでも男子は拍手した。比べてあの人が歌ったCatari Catariは素晴らしかった。先生まで聞き惚れた。私は勉強ができただけ。

 葉月は私の膝で眠った。そのまま抱いていた。娘を抱いていれば乱暴はしないだろう。
「かわいいな。寝顔を見て後悔する。帰ったら、また息子を殴ってしまう。妻にそっくりな息子を。かわいそうな息子を」
「飲むのやめなさいよ。私の父みたいになるわよ。思い出すのも嫌だけど……子どもに愛想尽かされるわ」
「ああ、もう飲まない」
「酔っ払いはそう言うのよ。父は何回も、何万回も言った。仕事も失い、娘の学費さえ払えない。タバコで畳を焦がして、何度言ってもやめてくれない。火を出したこともある。私が消したのよ。それでも、懲りない。
 殺したいと思ったわ。酔っ払っていびきをかいている父の首を絞めて……何度も思った」
「篠田が力になってたんだな」
「三沢君、失うわよ。なにもかも。汚れて、お風呂にも入らなくなる。お酒だけ飲んで肝臓壊して、栄養失調になって呆けて死ぬの。
 死んだら万々歳よ。誰も悲しまない。喜ばれるのよ。せいせいされるの」
「熱弁だな。説得力がある」
「三沢君、病院へいくのよ。専門家に相談するの。入院するの……
 いいわ。ついていってあげる。息子さんは私が面倒みる。あなたが立ち直るまで。あなたは恩人だもの」

 電話が鳴った。夫からだ。あの人は葉月を抱き上げ寝かせに行った。私は電話に出た。
「熱は下がった。よく寝てるわ。もう大丈夫よ。気をつけて」
 電話を切るとあの人はいなかった。

 どうしただろうか? 夫に話そうか? あの人の息子が心配だ。あの母親も。 
 
 翌日、カーネーションの花束が届いた。

 恩人へ    M
 花言葉は感謝。


 三沢君……立ち直ったのね。こんな年賀状で知らせてくるなんて。


 2年後、あの人は再婚した。近所に住んでいた獣医と。若いが、しっかりした女性らしい。あの人の息子は懐いている……
 
 夫の実家にいけば耳に入る。大きな邸の主人の情報は。
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